人生の折り返し点で出会ったキリスト教信仰 〜歴史と神学・小説〜

聖書を読みながら、キリスト教の歴史と神学を学び、ミニ小説も書きます。

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「もう君のその免罪符が通用すると思っているのか?」
これはごく一般の工場の作業現場で実際に行われた会話。
ある若者(A)が、その面倒を見ている年配作業員(B)から言われた一言です。
内容としてはAが若い事を盾にBから命じられた作業を断るための言い訳をしたことに対するBの嗜める一言ですが、別にクリスチャンでもなければ
中・近世西洋歴史に精通しているわけでもないごく一般の人がこの「免罪符」というキーワードを気軽に使っているという事実。
今回はそれほどまでに有名な免罪符と
それを破棄し、宗教改革の口火を切ることになった95か条の論題について
記事を書いてみたいと思います。

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イメージ 1

免罪符は正式名称 贖宥状(しょくゆうじょう)とと呼ばれるもので
16世紀、カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書のことです。
日本においては「罪のゆるしを与える」意味で、責めや罪を免れるものや理由、行為そのものを指すこともあります。(上記事例はその一例ですね)


元来、キリスト教では洗礼を受けた後に犯した罪は、告白(告解)によって許されるとしていました。
西方教会で考えられた罪の償いのために必要なプロセスは三段階に分かれています。
1、犯した罪を悔いて反省すること(痛悔)、
2、次に司祭に罪を告白してゆるしを得ること(告白)、
3、最後に罪のゆるしに見合った償いをすること(償い)
が必要であり、西方教会ではこの三段階によって初めて罪が完全に償われると考えられました。

古代以来、告解のあり方も変遷してきましたが、
一般的に、課せられる「罪の償い」は重いものでした。
ところが、中世以降、カトリック教会がその権威によって罪の償いを軽減できるという思想が生まれてきました。これが「贖宥」です。

贖宥状はもともと、イスラームから聖地を回復するための十字軍に従軍したものに対して贖宥を行ったことがその始まりでした。
従軍できない者は寄進を行うことでこれに代えました。
教皇ボニファティウス8世の時代に聖年が行われるようになり、
ローマに巡礼することで贖宥がされると説かれます。
後にボニファティウス9世当時、教会大分裂という時代にあって、
ローマまで巡礼のできない者に、同等の効果を与えるとして
贖宥状が出されました。
これはフランスなどの妨害で巡礼者が難儀することを考えての措置でした。

その後も、様々な名目でしばしば贖宥状の販売が行われていました。

そして、最初にこの贖宥状(免罪符)の在り方に異議を唱えたのがボヘミヤのヤン・フスです。1411年に教皇ヨハネス23世は、グレゴリウス12世を庇護するナポリ王国のラディズラーオ1世を制圧するために十字軍教会を派遣します。
十字軍の遠征費用を賄うため、教会は免罪符の売買を始めます。
プラハでも、免罪符の説教者は人々を教会に集め、寄進を勧めます。
フスは、ウィクリフの例を出して免罪符にはっきりと反対し、有名な改革論を書きました。
1412年に、フスが発表した論文 (Quaestio magistri Johannis Hus de indulgentiis) によって論争が引き起こされます。その論文は、ウィクリフの著書 (De ecclesia) の最終章とフスの論文 
からの引用でした。
ウィクリフとフスは、教会の名のもとで剣を挙げる権利は教皇にも司教にもなく、敵のために祈り、罵るものたちに祝福を与えるべきであると主張しました。
人は真の懺悔によって赦しを得、金では購うことはできないのです。
この主張のため、フスは当時在籍した大学に留まることができなくなってしまい、やがて異端として処刑されてしまいました。


さらに教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築のための全贖宥を公示し、贖宥状購入者に全免償を与えることを布告します。
中世において公益工事の推進のために贖宥状が
販売されることはよく行われることでしたが、
この贖宥状問題が宗教改革を引き起こすことになります。

ドイツ・ヴィッテンベルクの教会は、当時ヨーロッパで最も豊富な聖遺物コレクションがありました。
それらはザクセン選帝侯フリードリヒ3世が収集したものでした。
当時、聖遺物に対する崇敬は盛んで、見るだけで免償が得られたり、
煉獄での清めの期間を短くできると信じられていました。
選帝侯は1509年ごろ、「すでに5005もの聖遺物を収集していた。その中には聖母マリアの母乳入りの瓶、イエスの生まれた飼い葉おけのわら、
ヘロデ大王による幼児虐殺の被害者の完全な遺骨などがありました。
このような遺物は通常、手の込んだ銀細工が施された保管容器に収められ、年一度公開されて参拝者を集めていた」と言われます。
1520年、選帝侯の聖遺物コレクションの数は19013にも達したとも言います。
人々は免償を得ようとこぞってヴィッテンベルクの教会を訪れ、
その齎す功徳の総計は
「人々が煉獄に入る期間を合計にして19万年も減らす」ほどのものだったとされます。

ヴィッテンベルクの教会の扉に論題が張られたのにはこのような経緯でしたが、ルターが当時の教会の贖宥理解に疑問を抱いたのには、贖宥状販売で有名だったドミニコ会員ヨハン・テッツェルの存在が大きいものでした。
テッツェルは教皇レオ10世とマインツ大司教アルブレヒトのお墨付きを得て贖宥状を売り歩いていました。
聖遺物展示による贖宥状売り上げが落ちることをおそれた
フリードリヒ賢公と資産の流出を嫌ったザクセン公ゲオルクの命により、
領内での贖宥状の販売は禁止されていましたがが
、人々はわざわざ他領へ赴いてテッツェルの贖宥状を求めるほどの人気ぶりでした。

ルターのもとに告白に来る信徒たちも誇らしげに贖宥状を示し、
「自分にはもう罪の償いは必要ないと」
言い切るのを見てルターは複雑な気持ちになったのです。


そして1517年にマルティン・ルターが当時のカトリック教会の免償理解に疑義を呈して発表した文章、提題(テーゼ)として『贖宥状の意義と効果に関する見解』(95か条の論題)を提示しました。
しかし、これはルター自身があくまでも神学上の論争と考えていたことから、当時の民衆にはほとんど読めなかったラテン語で書かれました。
しかし、ドイツにおける贖宥状の大量販売にはドイツ諸侯の思惑もからんでいたため、ルターのテーゼがもたらした議論は単なる神学論争から一大政治論争へと発展し、「プロテスタント」と呼ばれる新しいキリスト教グループを生み出すことになりました。
宗教改革の幕開けの事件とみなされています。


通説では、ルターは95ヶ条の論題を1517年10月31日にヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に提示したとされ、この日が宗教改革記念日となっています。
これに対して研究者の一部に反論があり、議論が分かれています。
また論題が各地で急速に話題になったことから、ルターが論題を掲示するだけでなく各地に送付したという説もあります。
1518年に入ると、論題はドイツ語等に翻訳された印刷物となって急速にヨーロッパ全土に広がりました。

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キリスト教の神様は日本の神社とかににいるよう
に、願い事をすべてかなえられるという御利益宗教の
神様とは違うと教えられました。
しかしながら、タイトルにも書きましたがこの免罪符の考えは
金で買えば救われるという、使徒行伝の魔道師シモンのような
考えにも近く、否それ以上に金の力でどうにかなるという
発想は御利益宗教その物であり、
それにキリスト教徒貶めただけでなく
その行為自体神様が最も嫌う
偶像礼拝以外の何者でもない事が良くわかります。

多くの人がそれに異を唱えようとも政治的なことで
異端視して抹殺されてしまうという共産主義のような恐ろしい
中世ヨーロッパの現実。このルターが宗教改革につながる
この論題を出した事が如何に大きな意味を持っているのか
改めて感じました。


その後、カトリック教会はヨーロッパ諸国に広がった宗教改革の動きに対し対抗宗教改革を行い、綱紀粛正を図り、トリエント公会議の決議により、
金銭による贖宥の売買は禁止されることになりました。
なお、贖宥状の金銭での売買は禁じられましたが、発行そのものは禁止されておらず、以後も行われたそうです。
しかし、これは未確認情報なので断言できませんが
恐らく現在では発行されていないと思われます。

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閉じる コメント(6)

いくら宗教と言っても、需要のないところに供給は生まれないということでしょうね。教会だけが悪いということではないと思います。
ものみの塔協会の話ばかりで恐縮ですが、ああいう「絶対的に正しい組織」とか 「指示を与えてくれる存在」というのは、それなりの需要があるものなのだろうと思います。

2013/7/31(水) 午後 0:19 [ 南三条 ] 返信する

>多くの人がそれに異を唱えようとも政治的なことで
>異端視して抹殺されてしまうという共産主義のような恐ろしい

宗教と政治とが結びついていると、
恐ろしい事態が引き起こされかねないようですね。
だから政教分離は本当に大切と思わされました。

それにしても、
聖遺物コレクションの話はウケますねw
聖母の母乳とか腐っているのでは…
しかも何万個もあるんだw

2013/7/31(水) 午後 0:23 [ はる ] 返信する

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南三条さん
そうですね。教会が悪いという事は無いと思います。
やはり周りの政治的な動きというか権力者のパワーバランスというか・・。

ものみの塔の良し悪しはともかく、少なくともこの時代
どうしても弱い人がいてそういう人たちの中には自ら考える能力が
乏しい(もしくはそれを忌避する)というような人がいますから
そういう組織からの絶対命令というのは非常に楽と考えて
しまうのではないでしょうか?

余計な事を考えずに言われるがまますることって本当に楽ですよ

神に委ねると一見似ているけど本当はぜんぜん違いますけどね

2013/8/1(木) 午前 0:34 [ David-Solomon ] 返信する

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Manasseh_0001 さん

私が小学生の6年生だった時でしょうか?当時始めて歴史という物を
習う授業があり、一番最初に歴史を習う意味とは何かという
事を学びました。

つまり過去の歴史の失敗を繰り返さないためであると。

今回の事は仰せの通り政教分離の大切さがわかるわけですね。
宗教もここまで行くと「宗教はアヘンだ」と言い切った共産主義を提唱した
マルクスの行っている事が正しいように見えてしまいますね。


聖遺物のコレクション・・・これって明らかに偶像礼拝ですけど、
でもそれ以上に当時ならそれもすごい事と思ってしまったのでしょうね

2013/8/1(木) 午前 0:40 [ David-Solomon ] 返信する

いつもの通りヴィッテンベルク城教会の扉に、このことについて学問的討論をしようじゃないかと一つの「提題」が掲げられました。後に一般的に「95箇条の提題」と呼ばれるヴィッテンベルク大学神学部部長であったルター博士の書いた「贖宥状の意義と効果に関する見解」でした。いつもの通りですと議論が交わされ終わるのですが、この「提題」はいつもの形とは違っていました。ベイントン博士によれば“それが憤りで造られていたからである。九十五ヵ条の主張は、鋭くて、大胆で、徹底的である。”そして、これを読んだ人に感銘を引き起こし、たちまち翻訳され流布されました。それほど『当時』の何とかの沙汰も金次第という教会のあり方への不満も大きかったのでしょう。

2013/8/13(火) 午後 2:14 アタナシウス 返信する

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アタナシウス さん
詳しい解説ありがとうございます。正しくトリガーを引いた感じですね。

2013/8/14(水) 午前 1:01 [ David-Solomon ] 返信する

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