もくもくと本

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本についていろいろと。作る側、読む側、捨てる側(?)からの視点です。
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昨年末に発売されたマンガです。

いわく分類としては「農業エッセイ」というものになるそうなのですが、ページを開けばマンガです。
ところがこのマンガ、侮る事なかれ、個人的にはものすごく楽しんでしまったのです。

作者は超人気マンガ『鋼の錬金術師』(これはこれですごく面白い。最近はちょっとあまりにも「語る」ファンが増えすぎた感じがして少々鬱陶しいのが残念なところなのですが)の作者、荒川弘(あらかわひろむ)。いささか差別的な表現にはなりますが「女だてらに」かなりシビアな死生観や自然に対する感覚をお持ちで、それを余す所なく『鋼の錬金術師』では表現しているのですが、今回の『百姓貴族』を読んですっかり納得いってしまいました。

さて、東京で体たらくな都会人のようなフリをして毎日を漫然漠然と暮らしていると、とりあえず食べるものはスーパーにでもいって買い物をしてくるもの。さらにいえば、スーパーにいけば欲しい食材が存在するものとして、普段は当然のごとく暮らしています。もちろん、たまに「ああ、命を頂戴しているんだな」とか、レンコンなんかをみると「冷たい泥水のなかに手を突っ込んで収穫してくださる人がいるんだなぁ」などと、ほんのちょっぴりだけ想像の翼を広げてみては、気がつくと離陸直後には即墜落するということを繰り返したりはしています。とはいうものの、まるっきり農業に従事していないのでやはり食物に対しては「のうのう」としているというのが正直なところですし、当然ながらその過酷さについても想像はついていないというのが正確なところでしょう。
このマンガ、そういう想像力不足の人間にとっては読んでみると、「うは、やっぱり大変だ」と改めて思わせるだけのパワーがあるのです。しかし、深刻な表情は一切なく、「そんな顔をする暇もねーんだよ、わっははは」と笑い飛されてる感じもあるので、気がつくと大笑いしながら読み進んでしまうのです。
カワイイ顔をしたシマリスが実は農作物泥棒のなかでもっともたちが悪いのではないかとか、水不足で本州の人間がヒーヒーいってるところを横目で見ながら「けっ、牛乳でも飲めばいいんだよ」と毒づいてみるとか、ちょっとずつシュールでかつ、シニカルな視点がとても新鮮なのです。甘ったれたところが一切なく、兎にも角にも「忙しく」そして「オールマイティ」な楽農生活を描いているところがとてもリアルに感じられるのです。

当ブログのお客さんに農業の日々を綴られている方がいらっしゃいますが、そのような方の目にはこのマンガ、どのように映るのでしょう? おそらく近いような日々を送られているのではないかと想像します。尊敬しちゃいます。

なんとか今日も胃の中に食べ物を入れましたが、改めてありがとうございました。

それにしても、畑で鮭がとれる北海道って?!

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百姓貴族WING COMICS
荒川弘 著
新書館
まだ、色づいた葉っぱが残っていますが、少しだけ日差しの色が赤い秋の色から、冬の少し黄色い感じの光線になってきたような気がします(と、精一杯思うようにして秋じゃないぞ、と言い聞かせてるということはヒミツにしておいてください)。

ご存知の通り、小生は秋がこの上なく嫌いなので、冬になってもらったほうがずっと気分的に楽なのです。が、普通の生き物としての感覚で言えば、冬なんか嫌いだ! という人のほうが多いと思います。ましてや豪雪地帯にお住まいの方にしてみれば、ほんとうに冬なんて冗談じゃない、とおっしゃるでしょうし、小生の秋嫌いなんて甘ったれたことをいってるんじゃない! と叱りたくもなるでしょう(でも、収穫時期の秋って忙しくてうんざりしません? まだ抵抗してみせるアホウです)。
とりあえず、秋にしても冬にしても、なんだか寒いし、せわしないし、ってことで基本的にはそんなにいい季節じゃないということで合意してもよろしいでしょうか? そもそも師走なんて忙しいイメージ全開の月ですし。

忙しい、寒い、なんだか気分が晴れない、そんな時にぱらぱらとめくって読む本があります。短編なので一気に読み通す必要もなく、好きなところから読めばいいので実に気が楽です。
その本とは、池澤夏樹の『南の島のティオ』という本なのですが、一応、これ、児童向け小説ということになっています。ところがページを開き読んでみると、これは立派な大人向けの短編小説集なのです。むしろ、これを児童向け、としてしまうことのほうが違和感を覚えます(池澤夏樹の書き方がそもそも児童文学に向いていない気がするのは、この際触れないでおきます)。

物語は、とある南の島を舞台に、父親が経営するホテルを手伝っている島の少年のティオくんの経験するちょっと不思議なお話の数々を収めた本です。その島は、まだそこかしこに妖精や霊的なものが存在し、そして、その島を訪れる人は、その島でしか体験できないような幸福な時間を過ごせるのです。そのような島で、ティオくんは、子どもだからこそ感じられる「空気」や、子ども特有の偏見のなさによって、時には楽しく、そして時にはちょっと悲しくなるような体験をします。
小説は、ティオくんが語る形で進められるのですが、このティオくん、実に利発でさまざまな出来事を細大漏らさず読者に伝えてくれます。おかげで、読者はいながらにしてティオくんのあるホテルに泊まれ、さらにはティオくんと一緒にのんびりとした時間の流れる魅惑的な島を時にまどろみそうになりながら、散策することが出来るのです。
どの話も、ちょっと不思議な体験を語ったものなのですが、ものによってはその謎がティオくんによって明かされたり、またものによっては謎は謎のまま、しかし、ちょっとステキな大人ではもはや経験できなくなるような謎に昇華させられたりもします。
それは不思議な絵葉書を作り、それを売る男との出会いであったり、おとなしい、ちょっと不思議な感じのする少女の失踪事件に首を傾げることであったり、はたまた日本からやってきた二人組みが島の魅力に取り付かれてしまいティオくんの助けを借りながら自活しよう奮闘することに付き合うことであったり、台風によって別の島を追われてしまった不思議な魅力を持つ少年との出会いであったりします。
そして、そのどれもが子どもの頃にもしかしたら、自分たちも体験していたかもしれない、とちょっと自分にも子供の頃は不思議な感覚を持っていたのではないだろうかと、期待してしまうような話ばかりなのです。

たぶん、この島は地球上のどこを探してもないと思います。が、しかし、もしかしたら自分の知っているすぐそばの、ちょっと「いいところ」というのがこの島に当たるのかもしれません。
手垢のついた、人工的なリゾートではありませんが、紛れもなくティオくんの究極のリゾートともいえるでしょう。そして、そのリゾートへの招待状が、この本『南の島のティオ』という本だと思います。
南の島が大好きなので、南の島の香りを感じさせるこの本は、適当なときにぱらぱらとめくるには絶好の本になっています。
ちょっと宮崎駿のトトロ路線のアニメの元ネタにはいいのではないかと、いつも読みながら考えています。

池澤夏樹の小説に『夏の朝の成層圏』という本があります。その小説もやはり南の島を舞台にした小説ですが、『南の島のティオ』とはだいぶ毛色の違う小説です。でも、やはり描写は見事でうっかり南の島にトリップしてしまいそうになります。この小説についての記事はいずれまた。

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写真は、ハードカバーの単行本ですが、単行本は絶版になっています。
文春文庫から文庫版が出ているようなので、もしご興味があればそちらをご覧下さい。

地球滅亡すらも?

非常に無責任なのはよくわかった上での話しですが、安全を確保できているということがわかってさえいれば、雷、大雨、台風、しっかり見られませんでしたが日食というような天変地異系大イベントほど楽しいと思えるものはありません。もう、このことはすでに長いお付き合いになっている方々の間ではすでにご存知だと思いますが。
さて、そんな小生ではありますが、yahooのトップの映画『2012年』と連動したコーナーがあり、そこに「世界の終焉の時にどういう反応をしている?」というような性格診断みたいなものがありました。結果は、やっぱりなぁ、というか世界が終わろうともオレはオレのままなのか?! というような結果に終わりました。
でも、やっぱり天変地異的なイベントって、安全だったら絶対に面白いと思いません? え? だから地球が滅亡するのに安全もへったくれもないって? いや、そのときはそのときですよ♪
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あなたは、どのタイプ?
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ちなみに、ここ数日、適当なときにぱらぱらとめくりながら読んでいる本があります。
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地球がわかる50話岩波ジュニア新書
島村英紀
岩波書店
初版が1994年なのでだいぶ古い本なのですが、これが実に面白いのです。
地球の内部がどうなっているとか、地球は丸いけど、完全な球体からどれほどずれているのかとか、たとえば、実は地球にかかっている重さでかなりの重さをかけているのが空気であるとか、なんとなく知っていたことや、まったく知らなかったことを、子ども向けに書いているのですが、わかりやすくて実に面白いのです。
別に埃まみれになっていて、誰もがすっかり忘れていたような伝説やら、宇宙人の襲来やら、へんてこりんな設定をせずとも、改めて地球ってかなり危ういバランスの上に、我々人間が暮らせる環境を維持しているんだな、ということがわかります。思うに「人間が暮らせる」のであって、「地球そのもの」はたぶん、滅亡しないでしょう、まだ。
と、ここのところ数日は適当なときにぱらぱらとめくりにはとっても楽しい本を読んでいます。
平行して数冊読んでいることが多いので、好きなときに好きなところをぱらぱらとめくれるこういう軽めの自然科学の本はほんとうに楽しめます。
小生には、気になる作家はいるのですが、大好きな作家、この作家の本は絶対に読まないといけないと思うほどのめりこんでいる作家という人はいません。嫌いな作家はいくらでもいるのですが、心酔するほど好きな作家というのがいないというのは、実にかわいげのない話です。
しかし、こんなかわいげのない小生にもかつて、この作家の本は片っ端から読み、しかも、それなりに自分の考え方や感じ方に影響を与えてくれた作家が何人かはいました。
そんな一人が椎名誠です。

かつて、小生は小説やエッセイなどいわゆる読書感想文の対象になりそうな本は、アレルギーが出る和芥子、三味線に並ぶほど苦手なものでした。
本を読むということは、それはすなわち楽しい夏休みの最大の敵である読書感想文を片付けるための行為でしかなく、また偏見に満ちた見方ではありますが、ちょっといけ好かない「先生、○○くんがいけないことやってま〜す!」と他人のことをすぐに売る口うるさい学級委員の女の子がたしなんでいる、大人にほめられるための行為にしか思えなかったのです。そんなことは悪ガキとしてはやりたくもないので、読書をすることは断じて拒否していました。もっとも、マンガは読み漁っていたし、図鑑や百科事典といったものは抱え込んでいたので本そのものが嫌いだったということはなかったのですが。それにしても、あれほど嫌いだったはずの読書感想文や作文みたいなものを、今こうして書き散らしているのだから人間どう間違って成長するのかわからないものです。

さて、そんな読書嫌いの小生が小学6年生のある時期を境にして本を読むようになりました。しかし、このときはかなり無理して読書しているように見せかけていた上に、よせばいいのに手にしていたのは、家に転がっていた漱石全集からの一冊だったりしたので、当然のごとく死にそうになっていました。いわば自転車の補助輪がとれたばかりなのに、オートバイにまたがって走るような行為で、死にそうになっていたのは自業自得の自明の理です。
ここで、無理をして漱石センセについていっていたら、たぶん、間違いなく、今のように本と関係するような生き方をしていなかったでしょう。
ところが幸か不幸か、そこはこらえ性というものを宇宙のかなたのどこかで落としてきた小生のこと、とりあえず本を読んでいるポーズはとっていたいので本は手に持っていたいのですが、漱石センセにはとっとと見切りをつけてしまい代わりに文字だけがページを埋め尽くしているように見える本を探すことにしました。
そんな時に出会ったのが椎名誠の『あやしい探検隊』シリーズです。
そもそも、男子たるもの「探検」とか「冒険」とか、「これがロマンだ!」と無駄に刷り込まれているところがあるので、「探検隊」という言葉に簡単に釣られてしまうのです。しかも、「怪しい」とついていれば、これは「うれしい」ともうっかり読み替えてしまうほど魅惑的に見えるものです。
読んでみると、それまでの漱石センセのように読みにくくなく、「普通」でしかもところどころちょっと「おかしい」言葉で書かれているので読書嫌いな小生でもすらすらと読めてしまいました。気がつくと気分は、すでに無人島でムハな気分をしっかりと味わい、なぜか焚き火の周りで火を噴いている気分にもなっていました。そしてその後、ワシワシとシーナさんの本をマヨネーズしょうゆスパゲッティかき込むがごとく読み漁り、すっかり読書にもなれ国分寺のオババとも親友の気分になっていたのです−−後日、なぜシーナさんが我が家に転がっていたのか調べてみたところ、母が「ちょっとシーナさん見た目かっこいいじゃない」とのこと、実にわかりやすい理由で当時の我が家にシーナさんがいたのです。
読書嫌いの音楽バカの野球小僧(時々テニス少年)は、気がつくと、本物の読書家からすれば「へんっ! そんなもん!」といわれそうではありますが、いっぱしの本読み坊やになっていました。その後は、シーナさん以外の作家にも手を出し、いろいろな作家がこの世にはいて、それぞれが違うことを勝手に言ってるということも知らされます。なかには気が合わないのもたくさんいるんだということも、この辺で叩き込まれ、嫌いな作家リストがドンドン更新されていくような毎日でもありました。
しかし、嫌いな作家リストは更新されるものの、シーナさんは相変わらず「好きな作家」として唯一君臨していたのです。
そして、そんななかシーナさんの最新作として、小生とさほど年の変わらない息子くんのことを書いた『岳物語』が発売になったのです。
この本、大ベストセラーなので読んでいる方も多いと思いますが、この本を中学生の時に読んだときはかなり衝撃的でした。なんだかちょっと自分よりも愛想がなくて、それでいて自分よりも骨太な奴が、かくも面白いオヤジに育てられているというさまが、ウソのようであり、これ以上ないほど現実的に感じられたのです。同時に、もの凄く、少年岳がうらやましかったのも言うまでもありません。
小生のオヤジはぜんぜんわかってはいないようでしたが、すでに小生は自分のオヤジはつまらないくだらない奴だと思っていたのですが、それと比べると実にシーナさんのオヤジぶりというのは理想的に思えました。常に本音、そして下手な見得もなく、岳少年とは体当たりで付き合っているその様子が面白く、そしてやはりうらやましく思えたのです。
自分のほうはというと、○○さんの息子さんは、さすが○○さんの息子だ〜! と、いわれていい気になりへらへらしている、家族の前ではひたすら機嫌の悪いおっさんの下手な見栄を満たしてやるように振舞っているところもあったので、岳少年のストレートさがなんとも魅力的に感じられました。そして、その岳少年を語るシーナさんの語り口にも真剣さと優しさが感じられ、ずいぶんと違う家庭もあるものだと、中学生ながら親子の関係ってこういうのもいいよな、といっぱしなことを思ってみたりもしたのです。
もしかしたら、シーナさんの書かれていることと、岳少年との実際の関係は違うのかもしれません。が、しかし、ちゃんと観察をして、ちゃんと付き合うとは、こういうことなんだろうな、とつくづく思わされたのです。さらに妄想する中学生は、自分に子どもが出来たらシーナさんのようになるんだ、などと途方もないことを思ったりもしたのです−−あの頃の自分から今の自分をみたら、何やってるんだ? あきれられるかもしれない。

シーナさんの本はあるときからぱったり読まなくなってしまい、もうここ何年も新作が出ても読んでいません。別に嫌いになったということもないのですが、なんとなく飽きてしまった、というのが正直なところです。
ですが、シーナさんの本を読んでいたことで読書嫌いは一応の克服をみているし、本を読んで誰かにほんとうにあこがれることが出来ることを教えてくれた『岳物語』と『続・岳物語」は今でも自分のなかでは、大事な本としてあり続けています。

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岳物語/続・岳物語
集英社
椎名誠
『岳物語』は第2刷、『続・岳物語』は第3刷と初版本じゃないのが残念なのですが、奥付を見ると一ヶ月もしないうちに重版がかかっていました。ほんとうによく売れた本だということがわかります。

ぴあの

 クラシック音楽、とりわけピアノが好きだ。
 ピアノの持つ音の色合い、風合いの多彩さは私が本業としている絵画でいうところの上質なデッサンのようであると思う。デッサンも確かな技術を持った画家が書けば、単色であるにもかかわらず色がみえてくるような錯覚に陥るが、ピアノもまた、たったひとつの楽器にもかかわらず達人の手にかかればいかようにもその表情を変えてみせるものだと常日頃から感じているのだ。
 ただ、なかなかそうしたピアノにはお目にかかれない。特に日本でコンサートにいってみても、それが例え超一流の演奏家によるものであっても、「当たる」ことは実に少ない。空気のせいなのか、それとも演奏家にとって日本が違和感を覚えさせる土地なのか、それはわからないが、私はとにかくあまり日本でのリサイタルで、「これだ!」と思えるほど心にしみいるような演奏に立ち会えたことがない。
 ところがヨーロッパに行くと、不思議とそういった物足りなさを感じないですむのだ。もちろん、クラシック音楽の本場がヨーロッパとはいえ、そのレベルがすべて高いわけではないし、日本人の演奏家のほうがはるかに巧い演奏をする場合も多い。ただ、なんとなく彼の土地の空気がそう私に感じさせるのだ。
 これは名もないような演奏家の演奏であっても「当たる」と実に気持ちよく聴けることがある。
例えば、セーヌ川沿いにある小さなライブハウス風の酒場で聴いた、若い音大生と思われる青年が弾いていたサティなどは、サティ本人が意地は悪そうではあるが、実に満足しながら聴いているような風景がみえてきそうな印象を受けた。もちろん、場末風情満点の酒場のこと、音響などはいいはずもないのだが、実にサティの怠惰極まるような音楽が活きて聞こえてくるのだ。
 こんな具合に、ヨーロッパでは不思議なところで、名演に出くわす可能性があるので、積極的に音楽の音が聞こえてくると足を向けるようにしている。
 そんな経験を何度かしているのだが、そのなかでもとりわけ、この冷めた私のことを魅了した演奏があった。
 ショパンの母国ポーランドでの話だ。
 曲目は夜想曲だった。何番の夜想曲かは、そこまで詳しくは知らないのでわからないが、とにかくあれは夜想曲だった。
 聞こえてきたそれは、短調の曲を際だたせるような悲しみに満ちた音で、流れもお世辞にもなめらかとはいえなかった。どちらかというと、途切れ途切れの演奏という感じであったのだが、それが逆になんともいえず、作曲家の曲に託したメッセージをひとつひとつ汲み上げていくかのように聞こえたのだ。
 もっとその演奏を聴いてみたいと思った私は、微かに聞こえてくるピアノの音を頼りに、少し薄暗くなった道をピアノに誘われるまま歩き出していた。歩みを進めている間も、その悲しみに満ちた旋律はつづき、その演奏の深みはますます増していったのである。
 これはなんとかして聴かなければ。これこそ、作曲家の母国でしか巡り会えない演奏に違いない。こんな演奏は、きっと音楽の専門家を自認している友だちだって聴いたことがあるまい。絶対に自慢できるはずだ。
 こんなことを考えながら、ひたすらそのピアノの音を求めて歩いていた。
 やがて、ピアノの音が途絶えてしまい、残念ながら私はそのピアノの演奏を聴く機会を失ってしまった。
 今でもあのショパンを超えるショパンは聴いたことがない。

 ただ、ひとつ気になることがあるとすれば、ピアノの音が途切れたときに私が立っていた場所があのアウシュヴィッツの誰もいない医務室のようなところだったということである。

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