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草食系男子だとか、肉食系男子だとかという言葉が流行っているが、どうにもこの言葉はバカバカしいと思ってしまいます。そもそも、弱肉強食という言葉ですらも、ほんとうは納得し難いと感じているので、ますますこの新しいバカバカしい言い方というに違和感を覚えるのでしょう。いずれにしても、ほんとうの動物の世界を理解していない、イメージだけの言葉だと思っています。むろん、面白いな、とは感じたりはしますが。 そもそも、草食動物のほうが実は熾烈なオス同士の争いを繰り広げてハーレムを作ったりしてる場合が多いのではないでしょうか? 草食動物はその立場上、肉食動物にとって餌となってしまうので、とにかく種族として存続しなければならない。当然そうなると強い個体の遺伝子を必要とするので、自然とその環境下において優れた個体の遺伝子を持つと期待されるオスがメスを獲得する権利を得ることになります。言い方が少々卑猥になりますが、つまり複数のメスと「関係」を一握りのオスが持てるわけですから、「絶倫」であることを望まれることになります。また、ハーレムを維持するのがオスとしての役割になるので、場合によっては敢然と敵に向かっていかないといけなくもなります。これは時に同種のオスであったり、または肉食動物が相手であることもあるでしょう。どう考えても、今使われているような草食系男子なんてのにはできるはずもない所業だと思うのです。 弱肉強食にしても視点を変えれば、肉食系のほうが決して強いとは言えないのではないでしょうか? 肉食系はその食生活のせいで、基本は生きている、つまり必死になって抵抗するであろうほかの命を多大なリスクをおかして殺し(死肉をあさるのもいますが)エネルギーを得ないといけません。つまり彼らは死と常に隣り合わせとも言えるわけです。生命体としてこんな危ないぎりぎりの位置に立たされているというのは、ある意味では弱い立場ともとれるのではないかと思います。 対して弱食といわれるであろう、草食系動物は、大干ばつにでも見舞われて、餌になる草木がすべて枯れはててしまったときに最大の命の危険にさらされるのであって、肉食動物に襲われたところで全滅させられるほどの危機には、数もたいていの場合は多いので、見舞われることは実は少ないのではないでしょう。その証拠にアフリカの動物の番組を見るとたいがい画面には無数のヌー(オグロ。オジロのほうは数が減ってしまってます)が映っていることが多いと思います。これは、すなわち、その種全体でみたら、明らかに絶滅の危機に貧している、例えばチータや、最も絶滅の危惧されているロシアに住むアムールヒョウなどに比べると優位な立場ともいえるのではないでしょうか? 個体として見た時のイメージから、「草食系男子」だとか、もっと正統派の「弱肉強食」という言葉が出てきたのはわかります。が、しかし、動物の世界というのはそんなに単純ではないというのが実態だと思います。 単にかわいいとか、単に怖いとか、そういうのだけではない視点で、撮影された写真をアフリカのセレンゲティで撮りため、それを一冊の写真集にしたのが『おきて』という日本を代表する動物写真家の岩合光昭の写真集です。 動物の可愛いところだけを集めた写真集が動物の本の主流だと思います。また、岩合さんのほかの写真集にも動物のかわいいところだけを撮った写真集もあります。しかし、この写真集と比べるとどれも陳腐に思えてしまうのです。 甘いだけの動物の写真に飽きた時にページをじっくりとめくりたくなる写真集です。 自然は常に命に対して平等である、そんなことを気づかせてくれるような写真だと思います。 おきて―アフリカ・セレンゲティに見る地球のやくそく 岩合光昭 写真 小学館 少々古い写真集なので今、手に入るかどうか微妙なところです。
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ぱちぱちと写真
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撮るのも見るのも好きです。気に入っている写真集の紹介や、自分の撮った写真や、カメラのことでも格納しようと思います。
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12月1日(火)午後8:00〜9:30
プレミアム8<文化・芸術> シリーズ巨匠たちの肖像「仏を睨(にら)む眼 土門拳」 写真家・土門拳。日本の仏像を撮り続けた。その写真はどこもピントが合い、強烈な存在感で見る者に迫る。その驚異の撮影技法を再現し、なぜ仏像を撮り続けたかを探る。. 写真家・土門拳。「古寺巡礼」をライフワークに、日本の仏像を撮り続けた。それまでの仏像に対するイメージを覆す、鋭い輪郭を持ち、木や金銅の質感までも感じさせる、クローズアップの存在感。その写真はどのようにして撮られたのか。伝説的なエピソードが伝えられる京都・東寺の講堂内陣の撮影を、当時の弟子たちが再現。驚異の撮影技法と仏像にかける執念にも似た情熱を解き明かしていく。 こんな番組をNHKのハイビジョンで放映するそうです。
以前、子どもの写真集の記事を書きましたが、その土門拳氏のドキュメンタリーで、代表作の『古寺巡礼』の舞台裏が見られそうです。よかったらご覧下さいまし。 |
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冴えない天気がつづくなぁ、と思っていたら、風は少々強いものの気分のいい秋晴れに恵まれホッとしたところです。ちょっと気晴らしに愛用のカメラを持ってぷらぷらと昼休みに散歩をしてみました。 植え込みの小さな木ですが、真っ赤に色づいた葉っぱがきれいです。 露出モード マニュアル F4 1/25 ISO 100 焦点距離約300mm付近(35mm換算) 焦点距離が長いのに、遅いシャッター速度なので、セルフタイマー2秒にしておいて、後は息を止めてシャッターが落ちるのをひたすら待ちます。背景のボケ味が少々荒くてごつごつした感じになっているのはご愛嬌。 四角い窓越しでも、秋の空は抜けるように真っ青でした。 露出モード マニュアル F6.7 1/400 ISO 200 焦点距離約120mm付近(35mm換算) 空の色を出そうと思うと回りはなんだかわからないほど真っ暗に。周りを少し見せようと思うと、空は真っ白になってしまいます。露出寛容度(ラティテュード)が狭いデジカメの写真はちょっとリヴァーサル・フィルムのようで面白い。 もう少し時間がとれれば、もうちょっとゆっくりとシャッター切りたかったなぁ、と思いつつそれなりにに遊べたので満足です。 すでに街路樹も色づき、秋の気配は探さずとも濃厚に感じられるのですが、こういう都会のちょっとしたところでの小さな秋の風景はけっこう好きです。 今度は、普通の路地に落ちた長い影でも撮ろうかな。 どうでもいい、今回使用したカメラについて。 KONICA MINOLTA DiMAGE Z3 今回、使ったカメラは、カメラ事業をソニーに売却してしまう前にコニカ・ミノルタから発売されていた400万画素程度のデジカメです。恐らくすでに4〜5年は最低でも発売されてから経っていると思います。 このカメラは、高倍率ズームと手ぶれ補正搭載型のいわゆるレンズ一体型一眼レフ(インチキ一眼レフ)の走りのようなカメラです。 今の基準からすると400万画素とかなり画素数も劣るし、CCCDの性能もいまいちなので、撮影ノイズも目立ちます。また、撮影感度も最高でもISO400という具合に暗いところで、感度を上げて撮影することも出来ません。 しかしながら、このカメラは大のお気に入りで、以前所有していたものが壊れた後、同じ機種をさんざんあちこちを探し回りようやく中古で程度のいいものを見つけることが出来たのです。新品のはるかにマシな仕様のコンパクトデジカメがゆうに買える値段を出してしまったのですが、やはり一眼レフ以外ではとてもしっくりくるので重宝しています。 それは光学式のファインダーではないにしても、電子式の一眼レフのようなファインダーは撮りたい画像の仕上がりを予想しやすいし、何よりもピントがどこにいっているのかがはっきりとわかります。コンパクトデジタルカメラの背面の液晶モニターだけだと、フレーミングは出来ますが、ピントがどこへいってるのか時々わからなくなります。また、オートフォーカスだけではなく、こちらはあまり精密なピント合わせが出来るわけではないのですが、マニュアルでピントを合わせることも出来るのでピントを意図したところに持っていきやすいという利点があります。 さらに気にいっているのは、カメラ任せの露出モードだけではなく、マニュアル露出も使えるので意図した露出を出して遊ぶことも可能になり、わざと遅いシャッターを使ったり、絞りを絞り込んで被写界深度を稼ぎ、さらに露出を高めにしてみたり、逆に低めにして重たい感じの写真を撮ってみたりと遊べます。 もちろん、こうした機能は先に書いたような、今のレンズ一体型一眼レフ(インチキ一眼レフ)のどの機種でも出来るでしょう。しかし、このカメラの小ささと手軽さ、それにそもそも、このカメラでさんざん今までも遊んできているので操作に慣れています。またミノルタのレンズの発色の感じも気にいっているので、一眼レフ以外の撮影では、このカメラを使って遊んでいることが必然的に多くなってしまっているのです。 背面モニターだけの簡単に撮影できるコンパクトデジタルカメラも持っていてきれいに撮影は出来るのですが、もう少し写真を撮って遊びたいな、と思ったときは、このカメラを使っています。 |
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今年、生誕百年ということで、松本清張や太宰治がもてはやされていますが、個人的には、日本の出版・マスコミ文化のなかにおいて、彼ら以上に重要な功績を残した考える人がいます。 その人は、写真家の土門拳。 寺社仏閣の写真を数多く撮った『古寺巡礼』(美術出版社)という一連の写真集のシリーズが代表作であるのは疑う余地もなく、もっとも有名な写真集として知られています。その写真は自分の目で実物を観るよりも、場合によってはもっと力強く訴えかけてくる迫力があります。 しかし、今回ここで取り上げたいのは土門拳の寺社仏閣の写真集ではなく、彼が一時期力を入れていた子どもの写真を集めた本です。 この本、たいがいの紹介で「懐かしさを感じる」と書いてあるのですが、写真は昭和20年代〜30年代に撮られたものなので、写っているのは小生の親の世代です。 「街の感じって、こうだったよね〜!」というような意味での懐かしさは残念ながら小生には感じません。ただ、子どもの持っている時間の流れということでは、かろうじてテレビゲームが全盛の時代に育ったわけではなく、まだ都心にも空き地がありそこにいって意味なくたむろしたり、なんだか上へ下へと重なってじゃれているようなことをしていたので、同じような時間のすごし方をしていたのかもしれないという「親近感」は覚えます。つまり、それだけ土門拳の写真は、その子どもならではの時間を見事なまでに切り取っているのです。 土門拳はリアリズムの写真家と言われますが、まさにそのリアリズムの真骨頂が味わえるのではないかと思います。特に、近頃多い、ピンボケ気味の写真でイメージだけを無理やり作り出しているような写真が氾濫している世の中では、こうしたシャープで明快に被写体をしっかりと写し取った写真というのは鮮烈ですらあると思います。 そういった意味において、何かを写真に残すということの基本の部分がここにはあるのではないでしょうか? しかも、それが、まだ混沌としていた日本の風景のなかで捉えられたたくましい子どもの時間であるというのが、この写真集の価値を高めていると思います。 小ざかしく、一見イメージとしてかっこよさそげな写真ばかりを撮ってしまっていたり、イメージ先行型のピンボケ、色ずれした写真集ばかりにちょっかいを出しているときにみると、人の写真、とりわけ子どもの写真を誠実に撮ろう、そう思わされる写真集だと思います。 当然のことながら、当時の日本の空気はどんなものだったのかがよくわかるような気がするということで資料的な価値も非常に高いと思います−−考えてみれば、このなかの写真の子どもたちが日本の復興に一役買っていたと考えるとそれだけでも感慨深いものがあります。 土門拳 腕白小僧がいた 土門拳 著 小学館文庫 土門拳記念館という写真美術館が山形県酒田市にあります。
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