Ddogのプログレッシブな日々

保守系サラリーマンによる保守主義者のブログ (消極的親米保守)

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http://www.uniqlo.jp/uniqlock/swf/blog_small.swf?user_id=Bo4uxIuSX6BfwXZC氷河期と間氷期が数万年単位の長いサイクルで人類に襲い掛かり、研究者の中にはミトコンドリアのDNAから人類は一時千人単位まで減少したのではないかという仮説をたてる研究者もいる。
 
スマトラ島のトバの超巨大火山噴火はその後約55000年続く最終氷河期の引き金を引いてしまった。最終氷期の極寒期は2100年前〜18000年前であったが、地球の平均気温は北半球の高緯度地方で12〜14度低く低緯度地方は軽微であったが、全体に乾燥した気候であった。約3万年前に発明された動物の骨の針と糸で、何枚もの毛皮を衣服に仕立てること出来たのが人類がアフリカ以外で生き残ることに成功した理由だった可能性もある。人類は襲い掛かる自然の猛威を知恵によって乗り越えていった。
 
10万年単位の大きな氷期の循環の中、それぞれの氷期の中に小さな気候変動サイクルがあり、その中で一時的に気温が小幅上昇した時期は亜間氷期、反対に気温が低下した時期は亜氷期と区分される。氷期の間にあっても気温の変動には2200年〜1500年のサイクルがある。さらに20年〜30年の間に急に暖かくなり、その後に数100年かけて気温が低下していくサイクル (ダンスガード・オシュガー振動)も発見されている。
 
人類は最終氷期の極寒期を過ぎたあたりからまだ陸地が世界各地で繋がっている時期に世界中に広がっていった。
 
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2万年〜1万8千年前の日本列島
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 日本列島もマレー半島からインドネシアに広がっていたスンダランドから陸伝いに古代日本人の祖先は日本列島へやってきた。またバイカル湖やシベリア付近にいた祖先達も、最終氷期極寒期の直前にあたる4万年前、マンモスを追いかけてシベリア平原に移住した人々は、暖かさを求めて低地へと移動し、アムール川を下り一部はアラスカヘと移動している。彼らの中のある集団は、海面水位が低下した時代に、容易に徒歩でサハリンを通って日本列島に南下したであろう。長野県野尻湖の立が鼻遺跡で3万年前にナウマンゾウを狩猟した跡が発掘されている。海岸線にも住みつき、魚介類の採取を中心に食糧を得ていた集団もいたであろうが、ヨーロッパと同様に、海岸部のほとんどの遺跡が縄文時代以降の海面水位の上昇で水没してしまったと考えられている。 
 
最終氷河期の厳寒期が過ぎ17000年前より徐々に気候が温暖化していったが、およそ12900年前頃から1300年間ヤンガード・リアス期という急激に寒冷化に戻った現象があった。
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[アガシー湖の決壊]
北アメリカの氷床が後退し、融解した氷床は現在の五大湖より巨大で、イラクほどの面積のアガシー湖を造っていた。ローレンタイド氷床とコルディレラ氷床という二つの巨大な氷床は融解を続け、ミシシッピ川を通ってメキシコ湾に注いでいたが、アガシ湖の貯水量は長い年月をかけて増加していき、やがて自然が作ったダムは隈界を超えて決壊した。決壊は、1万2900年前、1万2200年前、8200年前と三回にわたって起きた。
 
 
1万2900年前の最初の決壊の際、アガシ湖の9500立方キロメートルの水がミシシッピ川からメキシコ湾へのルート以外に二つの方向に溢れ出た。セントローレンス川を巡り現在の五大湖を経て大西洋に向かうルートと、プッケンジー渓谷から北極海へと至るルートである。
 
アガシ湖からの真水が海に流れこんだことにより、海面水位は北極海で一時的には6.2m、地球全体で6cm上昇したと考えられている。

アガシ湖の真水が北極に近い北大西洋の高緯度海域に流れこんだことは、地球全体の気候に大きな影響を及ぼした。まず、北大西洋の海水の塩分濃度が低下したことにより、海氷面積が拡大した。海水は塩分濃度が低いほど凍りやすい。北海道網走市まで到来するオホーツク海の流氷は、世界で最も低緯度側まで南下する流氷として知られている。その理由は、オホーツク海がアムール川などのアジア大陸の大河から塩分濃度の低い河川の水が流れこむ海域であり、千島列島にはばまれて太平洋の海水と容易に交じり合わないため、この海域の塩分濃度が低いからだ。
アガシ湖から流れ出た淡水により北大西洋の塩分濃度が低下し、北大西洋の海氷面積が拡大した。
 
この膨大な量の淡水は、比重が海水より小さいこともあって北大西洋の表層に広がり、メキシコ湾流の北上と熱の放出を妨げた結果、ヨーロッパは再び寒冷化し、世界的に影響が及び、さらに地球全体の寒冷化を引き起こす要因となった。
 
コンベアベルト海水の大規模な対流(熱塩循環)による塩分(深層)と真水(表層)の輸送経路
 
ヤンガードリアス期は、西アジアでの農耕の開始と重なる。寒冷化と乾燥化がその地域の環境収容力の低下をもたらしてメソポタミア北部の肥沃な三角地帯などの住民の生活様式を変化させ、更なる気候の悪化によって食料を生産する必要性が生じたという説がある。
 
アフリカ南部カラハリ砂漢に住むコイサン族とよばれる人々は現在でも狩猟採集を続けている。
平均して週二日半程度しか働かない。女性は20歳、男性は25歳になるまで食糧を集める義務はないという暮らしを守っている。彼らに農業を伝授しようとすると、「モンゴンゴの実が余るほどあるのに、何でわざわざ植物を植えたりせねばならないのか」と真顔で語ったという。農業を始めたきっかけはやはり寒冷化などの必要に迫られてだろうと思います。
 
 p54〜57
先土器新石器期の遺跡では、ある時期から小麦と大麦の種子の比率が、それまでの1%や2%から60%にまで急激に増えている。出土した種子はまだ野生種ではあるものの、多くの野生植物の中から、次第に、麦や大麦などの限られた種に絞りこんでいったことがわかる。やがて森林の木の実が減少する中でこれらの種を植えることを開始したと考えられる。

農耕を始めたことが、人類による環境破壊の根源であったとする見方がある。森林を伐採し、大地に塩害を発生させたほか、第2部で触れるが人々の健康も悪化し、疫病が広がるようになった。しかし、気候変動の中で生き抜くためには、これしかなかったというのが実状であろう。

生き残るためにやむなく始めた農業だが、野生種をそのまま栽培した場合の難点として、①実が成る時期がばらばらであること、②実が成るとすぐに地面に落ちること、の二つがあった。

これらの特徴は野生種としては当然のもので、時期をずらして実が成ることは数週間から一カ月の天候の変化を考えると子孫を残す上で有利であり、また成った実が地面に落ちなければそもそも発芽もしない。しかし、農耕を開始した人々にとっては同じ時期に一斉に実がなり、脱粒性がない種子が栽培には適している。人問にとって都合のいい種子を選ぶことは、植えた後の栽培の面倒をみるよりも重要であった。野生種としては欠陥ともいえるこうした性質を持つものだけを集める作業は、難しそうに思われがちだ。けれども、選り分けて都合のいい性質の種を抽出し、翌年はその種だけを撒くという単純なやり方を数年繰り返せば、着実に効果は現れる。

現代の農業研究所などで野生種の改良を行うと、三年程度で相当の純化が可能である。

なぜ、農業発祥の地がメソポタミア北部なのか

それでは、なぜ、農業発祥の地がメソポタミア北部の肥沃な三日月地帯なのか。ヤンガードリアス・イベントによる寒冷化・乾燥化が全地球規模で起きているのに、どうして農耕が始まつたのが南西アジアなのか。答えは、ピューリツァー賞を受賞した名著『銃・病原菌・鉄』の中でジャレド・ダイアモンドが語っている。

ダイアモンドは、農耕に適した野生種の穀物は全世界を探してもごくわずかな種しかなかったと考えた。現在、世界全体の農作物生産量の80%は、小麦、トウモロコシ、コメ、大麦といった穀物、大豆などのマメ類、ジャガイモやサツマイモといった芋類の合わせてわずか十数種類で占められている。これら農作物は古代人が何千年もかけて栽培可能な植物をテストしていった結果、選ばれた品種なのである。近世以降では品種改良こそあれ、主要食物となるような新しい植物は一つも栽培化されておらず、この300年間に新たに加わった農作物もイチゴなどごくわずかだ。

そして、農耕に適した農作物の野生種の多くが、偶然にも肥沃な三日月地帯に群生していた。世界中には20万種の植物があり、食用に適するものは2000種から3000種とされている。このう ちの200種から300種だけが、かつて一度は栽培化を試された。
 
背丈と種子の関係を考えると、一年草であればできるだけ大きな種子を作ることが子孫を残すために有利であるのに対し、多年草や樹木の場合は種子よりも幹や葉にエネルギーを傾ける。背丈が低く種子が大きいという栽培に適した植物となると、まずは一年草に絞られる。地球規模でみて重い種子を作る植物の原種は56種ほどしかなく、これらが栽培化の有力候補となるが、うち三分の二がユーラシア大陸西部の地中海や中近東で自生していた。
 
内訳をみると、肥沃な三日月地帯以外ではアジア東部では6種類しか存在せず、オーストラリアや南米大陸ではわずか2種類しかなかった。
 
そして、一年草であり、なおかつ背丈が低いながら大きな実ができるという、人類にとって本当に都合のいい穀物の原種となると、肥沃な三日月地帯と中国以外の他の地域ではほとんど自生していなかったのである。

大麦、小麦、ヒトツブコムギ、エンマコムギ、エンドウ、レンズマメの野生種は、アナトリア東部山岳やザガロス山脈で自然に繁殖していた。ヒトツブコムギを例に採ると、1960年代にほぼ純粋種とみられるものが、トルコ、イラク、シリアで数十平方キロメートルにわたって自生しているのが発見されている。農耕を開始した頃の遺跡に残る穀物の種をみると、山麓の野生種を低地まで運んで植えていることがうかがえる。このようにして、低地で栽培化された種が農耕の普及とともに世界中に広まっていった。

ただ、すべての農作物の原種がメソポタミア北部に由来するわけではない。開始時期は遅いものの、農耕は世界各地で独自に起きている。
 
中国では、南部で遅くとも8600年前にイネが、そして北部では6000年前にキビが栽培された。
 
イネの原産地は雲南であるとされてきたが、近年の研究成果では稲作の開始は長江の中・下流域で起きたとされており、最古の水田跡は6500年前の湯家崗文化時代のものだ。

イネの原種を調べる中で、長江流域で多年草のものがあり、秋になっても実がならないものがみつかっている。イネとは、もともと多年草であったものが、自然環境のストレスの下で種子繁殖に変化したのではないかといった仮説が提唱されている。

イネはメソポタミア北部の農耕でも栽培されたものの、大規模に栽培されたのはアジア南東部であった。肥沃な三日月地帯でイネが軽視された理由は、コメの場合、大麦などのムギ系穀物と比べて植物性タンパク質が格段に少ないとの欠点が挙げられる。コメだけでは栄養的に十分ではなく、米作が普及するには、タンパク質を含む他の動植物との食べ合わせが必要であったからかもしれない。

アメリカ大陸では、最初にアワ、次いでカボチャ、ウリ、そして6000年前にメキシコ高地でトウモロコシによる農業が始まっている。アワの農耕は放棄された時期もあったが、4500年前に再び行われるようになった。いずれも現在のアフリカ産原種とは違うものだ。

トウモロコシは、今日大量に栽培される穀物の中で、小麦やイネなどの他の品種とは全く異なるタイプの作物であり、いまだに原種が発見されていない。テオシントとイースタン・ガマグラスを交配したハイブリッド種ではないかとの推測がある。また、ジャガイモにっいては、6000年前からアンデス南部の高地で栽培化が行われ、塊茎が大きくなるよう、そして有害物質のソラニンの含有率が少なくなるよう、改良が加えられていった。
 
 

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