Ddogのプログレッシブな日々

保守系サラリーマンによる保守主義者のブログ (消極的親米保守)

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さらば大瀧詠一

「幸せな結末」などのヒット曲で知られ、実験精神あふれる音作りで日本のポピュラー音楽界に大きな足跡を残した、ミュージシャンでプロデューサーの大瀧詠一(おおたき・えいいち)さん=本名・大瀧栄一=が30日、東京都内の病院で亡くなった。65歳だった。
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 警視庁や所属レコード会社によると、30日夕方、瑞穂町内の自宅で果物を食べていたところ、突然倒れ、家族が119番通報した。病院に搬送されたが、解離性動脈瘤(りゅう)で亡くなったという。通夜、葬儀の日程は未定。

岩手県出身。1970年、細野晴臣さんや松本隆さんらとのロックバンド「はっぴいえんど」でデビュー。ロックを日本語で歌う当時としては画期的なスタイルが話題を呼んだ。

72年の解散後は、ソロとして活動。当時ミュージシャンとしては珍しかったCMソングの制作に力を入れたほか、74年には自身のレーベル「Niagara」を設立。山下達郎さんや大貫妙子さんらのバンド「シュガー・ベイブ」のプロデュースも手がけた。

古今の大衆音楽のエッセンスを踏まえつつ、徹底した音作りと親しみやすいメロディーを志向し、80年代以降、アルバム「ア・ロング・バケーション」「イーチ・タイム」を世に送ったほか、ドラマの主題歌になった「幸せな結末」(97年)はミリオンセラーとなった。ほかに、松田聖子さんの「風立ちぬ」(81年)、森進一さんの「冬のリヴィエラ」(82年)、小林旭さんの「熱き心に」(85年)などの作曲も手がけた。

メディアへの露出は少なかったが、75年から83年まで続いた番組「ゴー!ゴー!ナイアガラ」でDJを務めたほか、ラジオにはたびたび出演していた。

“プロに愛されたプロ”急逝 日本語ロックの先駆者
msn産経 2013.12.31 18:54 

 「今や当たり前のように存在している日本語ロックや日本のポップスを確立した先駆者だった」。音楽評論家の富沢一誠さんがそう語る大滝詠一さんの死は、年の瀬のファンと業界に大きな衝撃を与えた。

その歩みは先見性に満ちていた。伝説のロックバンド「はっぴいえんど」解散後は、自主レーベル「ナイアガラ」を設立。バンド「シュガー・ベイブ」をプロデュースし、所属していた山下達郎さんや大貫妙子さんを世に送り出した。

 昭和56年のアルバム「ア・ロング・バケイション」は流通し始めたばかりのCDの普及を牽引(けんいん)。CM音楽にポップスの要素を持ち込んだのも大滝さんの功績とされ、作曲家としても森進一さんの「冬のリヴィエラ」など数々のヒット曲を生んだ。
平成9年のドラマ主題歌「幸せな結末」は大ヒット。15年の「恋するふたり」以降、表舞台での活動は少なかったが、「自分の作った曲は最後まで面倒をみたい」と普段から語り、最近は昭和59年のアルバム「イーチ・タイム」のリマスター盤を3月発売に向けて制作していたという。

洋邦楽への豊富な知識を持ち、自宅をスタジオに改造するなど徹底した凝り性で「趣味趣味音楽(ミュージック)」と自称したこともある。近年も有名歌手らがCDやライブで楽曲をカバーし、「日本の音楽界にとって水戸黄門の印籠のような存在だった」と富沢さん。プロに愛されたプロの、突然の訃報だった。

詠一という巨大なアーティストが年末唐突に逝ってしまった。
詠一といえば、日本語ロックの元祖はっぴーえんどの作曲とボーカリストである。作詞は松本隆氏 大瀧=松本の楽曲はレノン=マッカートニーに匹敵するかもしれません。 
日本語ロックだけでやなくCMソングの制作や、歌手やアイドルへの楽曲提供の先駆けとして日本のロック/ポップ史を語るうえで外すことができない存在です。
私も、カラオケでは年末必ずさらばシベリア鉄道を歌う。気がつくと「熱き心に」など大瀧ソングを歌っている。大瀧詠一の曲は歌っていて気持ちがいい・・・
2009年忌野清志郎・加藤和彦が亡くなって衝撃を受けた以来の日本ロックシーンの損失だ・・・自分が年を取るからかもしれないが・・・大好きなアーチストが次々伝説になってしまうのは寂しい気持ちです。
印税で悠々自適の晩年、あまり苦しまずに旅立ったのは、正に「はっぴいえんど」=「幸せな結末」だったのかもしれません。それにしても65歳はまだまだ若過ぎるはっぴいえんどです。
大瀧詠一氏には、さらばシベリア鉄道ではないが、「さらば大瀧詠一」と書かせてください。
大瀧詠一さんが関わった主な作品
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松本隆(上段左)、鈴木茂(上段右)、大滝詠一(下段左)、細野晴臣(下段右)、
はっぴいえんどの1971年11月20日にリリースされたセカンド・アルバム♪
はっぴーえんどは1969年に細野晴臣(ベース)、大滝詠一(ボーカル&ギター)、鈴木茂(ギター)、松本隆(ドラム)の4人で結成され、70年、アルバム「はっぴいえんど」でデビューする♪
当時は、日本語でロックを歌うことはどうか?と論争が行なわれていた時代、日本ロックを代表するグループとなった♪
「風をあつめて」「はいからはくち」「夏なんです」といった代表曲が多い♪
演奏、歌、作詞、曲と完成度が高い作品だ♪
後の大滝詠一のナイヤガラ、ティン・パン・アレーの流れが見えている気がする♪
大滝詠一と、細野春臣の音楽性の違いが見えているアルバムだとも思った♪

1972年 大瀧詠一大瀧詠一
1975年 シュガー・ベイブ『SONGS』
1976年 吉田美奈子「夢で逢えたら」
1980年 太田裕美「さらばシベリア鉄道
さらばシベリア鉄道

作詞:松本隆
作曲:大瀧詠一                                                
哀しみの裏側に何があるの?
涙さえも氷りつく白い氷原
誰でも心に冬を
かくしてると言うけど
あなた以上冷ややかな人はいない
君の手紙読み終えて切手を見た
スタンプにはロシア語の小さな文字
独りで決めた別れを
責める言葉捜して
不意に北の空を追う

伝えておくれ
十二月の旅人よ
いつ…いつまでも待っていると

この線路の向こうに何があるの?
雪に迷うトナカイの哀しい瞳
答えを出さない人に
連いてゆくのに疲れて
行き先さえ無い明日に飛び乗ったの
ぼくは照れて 愛という言葉が言えず
君は近視まなざしを読みとれない
疑うことを覚えて
人は生きてゆくなら
不意に愛の意味を知る

※伝えておくれ
十二月の旅人よ
いつ…いつまでも待っていると※
(※くり返し)

1981年 大瀧詠一『ア・ロング・バケーション』
大瀧詠一「君は天然色」
      松田聖子『風立ちぬ』
      ナイアガラ・トライアングル「A面で恋をして」
1982年 森進一「冬のリヴィエラ」
金沢明子「イエロー・サブマリン音頭」
1983年 薬師丸ひろ子「探偵物語」
1983年 ラッツ&スター「Tシャツに口紅」
1984年 大瀧詠一『EACH TIME』
1985年 小林旭「熱き心に」
1997年 大瀧詠一「幸せな結末」
2003年 大瀧詠一「恋するふたり」
日本語ロックは、はっぴいえんどが、創ったといっても過言ではない。はっぴいえんどは細野晴臣と松本隆のプロジェクトだった。大瀧詠一は当初日本語ロックに懐疑的で反対だったと言う。詳しくは大瀧詠一論参考


はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』(通称「ゆでめん1970年リリース)を代表するチューンは、大滝詠一作曲の「十二月の雨の日」であり、この曲における大滝詠一の歌唱と鈴木茂の演奏がはっぴいえんどを世に知らしめた。
ボーカリスト・大滝詠一ははっぴいえんどの顔だったし、松本隆とともにスポークスマン的な役割を演じたことも多い。だが、それは、はっぴいえんどというバンドの一員としての行動にすぎず、バンドの舵はあくまでも細野晴臣と松本隆によって握られていたのである。もちろん、大滝詠一自身は、そのこと自体に不満を抱いていたわけではない。むしろ、積極的にはっぴいえんどの一員として行動していたといっていい。

歌詞(言葉)の面では圧倒的に松本隆が主役だった。このことは『風街ろまん』(一
九七一年リリース)でいっそうはっきりした。直接的には渡辺武信(詩人)の影響下にあったものの、松本隆の言葉はたんなる「詞」にとどまることを拒んで、東京という都市のポップを構築するための武器に仕立て上げられた。松本隆の情熱に導かれるようにして、大滝詠一も細野晴臣も鈴木茂も、全力で「風」と「街」の世界を描いたのである。このアルバムに注がれた各メンバーのエネルギーは尋常なものではなく、そのおかげではっぴいえんどはバンドとしてのアイデンティティを失い、やがて解散にいたったほどである(はっぴいえんどの実質的な活動は、一九七二年いっぱいで終わる)。 
 
 松本隆によるこうした「言葉のプロデュース」は、その後も尾を引くことになる。
たとえば、大滝詠一が最初のソロ・アルバム『大瀧詠一』をリリースしたのは一九七二年で、まだはっぴいえんどとしての活動も並行して行われていた時期だ。音としては「はっぴいえんどの大滝詠一」から「ナイアガラの大滝詠一」に向かう過渡期にあったが、歌詞の面ではやはり「はっぴいえんどの大滝詠一」という印象は拭いきれなかった。大滝自身が作詞した「あつさのせい」や「びんぼう」などには、独自のノヴェルティ・ソング指向がすでに強く現れてはいたが、松本隆が作詞した「それはぼくぢゃないよ」「乱れ髪」「水彩画の街」には、はっぴいえんどの「朝」や「空色のくれよん」に通ずるメランコリックな世界が展開し、聴き手はそこに松本隆(=はっぴいえんど)の都市論や恋愛論を読みとってしまうのであった。ノヴェルティ・ソング指向の端緒も、『風街ろまん』に収録された「颱風」にあることは事実だが、「颱風」が『風街ろまん』のなかで例外的に大滝詠一的だったのだ。言い換えると「颱風」ははっぴいえんど的ではなかったのである。 

           

おそらく大滝詠一自身が「はっぴいえんどの大滝詠一」の不自由さをいちばんよくわかっていたはずである。はっぴいえんど解散後に制作されたセカンド・ソロ・アルバム『ナイアガラ・ムーン』(一九七五年リリース)は、ニューオリンズ指向のロックンロールをベースとしたノヴェルティ・タイプの曲を中心に構成され、松本隆がはっぴいえんど時代に生みだした世界とはまったく異質の世界を切り開いた。松本隆の詞を排除することによって、大滝詠一は初期ナイアガラ・サウンドを確立することに成功したのであった。 
 
 このままいけばすべてが順調だったかもしれない。ところが、大滝詠一は、所属していたエレック・レコードの倒産、それに伴うシュガー・ベイブの解散、その後の日本コロムビアとの契約(年間のリリース数四枚)など、レーベル経営上の環境変化を経験せざるをえなかった。 
 
 一九七六年には『ナイアガラ・トライアングルVOL.1』と『GO!GO!NIAGARA』を発表、さらに吉田美奈子に名曲「夢で逢えたら」(大滝詠一作詞・作曲)を提供するなど、端からは精力的な仕事ぶりに見えたが、実際の仕事の重心はレーベル経営やプロデュースに置かれ、ソロ・ワークに割くことのできる時間は限られていた。それでも、『ナイアガラ・ムーン』のノベルティ路線は継承され、レーベル経営に忙殺されるかたわら『ナイアガラ・カレンダー』(一九七八年リリース)のような佳作も発表したが、もはや「ポップス万華鏡」的なアプローチだけでは、時代に正面から向き合うことはできなかった。 
 
 『ナイアガラ・ムーン』はたしかにノヴェルティ・タイプの作品ではあったが、同時に日本のポップス史に欠落した部分を埋める試みとしてのトータリティを備えており、その点で時代を先導するものであった。が、『ナイアガラ・ムーン』以降のソロ・アルバムを見ると、たしかに形式的にはコンセプチュアルではあったが、実質的には「ひとりオムニバス的な色合いが濃く、アルバムとしてのトータルなイメージを強く主張するものではなかった。だから、一部の熱烈なファンに訴えかけることはできても、新しい聴き手を獲得することはできなかったのだ。新しい聴き手を獲得するには、なによりも時代にフィットする「言葉」が必要だからだ。 
 
 大滝詠一は松本隆による「言葉の支配」から自由になることによって『ナイアガラ・ムーン』を生みだすことができた。だが、それは、メランコリックなバラード・メイカーという大滝詠一の持つもう一つの側面を切り捨てて初めてできたことだ。大滝詠一もバラードの詞を書くことはできる。しかし、その多くは、幾層にも重なるポップスという遺産を、歌詞という面から継承したものだった。もっと端的にいえば、過去における言葉のパターンを微調整しながら組み直すことで大滝詠一の詞は成り立っていた。時代に対する言葉のフィット感は二の次だったのだ。 
 
 第2期ナイアガラ(コロムビア時代)が幕を下ろし、しばしの充電期間後に発表されたのが『ロンバケ』であった。この間に大滝詠一にどのような心境の変化があったのかはよくわからないが、松本隆との共作を決意するまでは、かなりの逡巡があったに違いない。プロの作詞家として、すでに無数のヒット曲をものにしていた松本隆だが、大滝詠一にしてみれば松本隆との共同作業は危険をはらんでいた。なぜなら、松本隆による「言葉の支配」を経験していたからである。せっかく書いた楽曲が、大滝色ではなく松本色に染まってしまうおそれがある。 
 
 松本隆と真に訣別することが大滝詠一にとって最大の課題のひとつだったからこそ、大滝詠一は自分で詞を書くよう努めた。が、松本隆の世界から離れようとすればするほど、大滝詠一は言葉の世界を迷走せざるをえなかった。第2期ナイアガラが失敗した理由のひとつも、おそらくそのあたりにある。 
 
 『ロンバケ』の制作を控えて、大滝詠一には他に選択肢はなかった。自分の音へのフィット感と時代へのフィット感を両方満たす作詞家は他にはいない。悩み抜いた結論は、松本隆を「作詞家として起用する」ことだった。言い換えると、プロデューサーとしての大滝が、プロの作曲家として自分自身を、プロの作詞家として松本隆を起用し、プロのシンガーとしての自分自身に歌わせるという枠組みを作ることによって、大滝詠一と松本隆の関係ははじめてクールなものになる。過去というしがらみから自由になる。「はっぴいえんどの松本隆とはっぴいえんどの大滝詠一」ではない、新しい自律的な関係が生まれるのだ。 
 
 結果的に、松本隆との共同作業は大成功だった。全十曲中、大滝詠一作詞の「Pap‐Pi‐Doo‐Bi‐Doo‐Ba物語」を除く九曲を松本隆が手がけているが、そこにはもはや、「はっぴいえんど」というアンダーグラウンドなロック・バンドの残り香を嗅ぎ取ることは困難だ。「カナリア諸島にて」に代表されるようにリゾートという名の恋の舞台がさえちりばめられ、過去も未来もすっかり溶けあった刹那の世界が豊かに広がっている。 
 
 松本隆の言葉と大滝詠一の音は、対等かつ心地よい緊張関係を保ちながら絡み合って、普遍的なポップスのバイブレーションを創りだしているのである。これこそが、「日本のロック」ならぬ「日本のポップス」だといわんばかりの作品に仕上がっている。 
 
 こうして大滝詠一は、はっぴいえんどに最終的な決着をつけることができた。松本隆をプロの作詞家として呼び込むことによって、松本隆に決着をつけることができたのである。松本隆もおそらく似たような思いだったに違いない。「はっぴいえんど幻想」は、まさにこの時終止符を打たれたのであった。

  







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