ワタさんのアレ・コレ話

何にでも興味を持つ、後期高齢者

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 オレもちょっと呆けだしました?、齢ですねぇ今日は何をしたんだろうとフト考える?、笑いごとでは無いですよ。
 まぁまだこのブログが書けるんですから齢の割にはまぁまぁ・・・と言うべきかと自分を慰める。
 自分には自覚はないが皆さんには迷惑を掛けているようです、齢ですから許して・申し訳ないですですね。

 さて今日は姉の葬儀でした、11歳年上で父違いの姉です。
 写真を見る、母の顔を細くすればそのまま同じですよ、さすがに親子だなぁなんてね。

 歴史です、母は四阪島で主人と死別しました。
 祖母 は前にも書いたような気がしますがボスで仕切る人一族郎党を差配していました。
 子連れで出戻ってきた母は一口に言えば邪魔物でしょう、で姉を引き取って自分で育て母を嫁に出す、私の父と結婚させたと言うことでしょう。

 この祖母の作戦は成功したようですね。しかし姉は母と引き離されて祖母に育てられたと言うことです。
 祖母はボスです恐らく誰にも文句を言わせなかったことでしょうね。

【追記】 祖母の話。
 山奥と言うべきか、南の一山向こう側、今は伊予三島市でしょうね、いわらぜという所の出身です、神主の娘です、今は誰も気にもしないが士族ですよ、当時は士族と言えば貫録が違いました(一般の人は平民)言う事に重みがあるということ。

 当地方の合田姓の神主は全て遠い親戚ですね(割合多いんですよ)。
、例えば新居浜市役所の東にある宗像神社、子供の頃に連れられて何度も伺いました、まぁ当時は親戚付き合いでしたがね、祖母(合田ツル婆さんに連れられて伺った感じ)
 大阪からの転校手続きも神主の合田忠良?さんに連れられて回った記憶です、すれ違う人の全てが丁寧に頭を下げ挨拶をしていました、この人は偉いんだと強烈な印象。

【続追記】
 大阪で戦災で焼き出されて都落ち、叔母宅の座敷に居を構えた今考えれば大迷惑をかけたと思います。
 でも祖母の指図だと思います、文句を言わせない貫録ですね

 私は学校通いでした。でも強烈なインフレ学費が続かないと言うことで退学し住友化学へ入社しました。
 両親は大阪で働いて(饅頭屋・体よく言えば和生菓子製造卸業)貯金をし言わば利子で食べていけるほど残していました、でもねぇ戦後の強烈なインフレで瞬く間に貨幣価値が下がり、学費が出せないと母に告げられました。

 入社時の記録、身長140㌢・体重35kg、毎年の健康診断時に手にする記録の表紙です、子供もいい所よく雇ってくれたもんです(私25才まで身長が伸びました)、当時は人手不足で誰でも雇っていたんでしょう。
 記憶では私の入社後間もなく厳しくなったようです、人員が充足した?。

 汽車通勤でしたね、土居駅から新居浜駅へここで住友鉄道に乗り換えて惣開駅で下車。
 間もなく寮生活、磯浦の和義寮に入りました。厳しい筈の寮へはすんなりと入れました、入社時の条件が各人で決まっていたようです、私は権利があった?。
【続追記】
 入社時の記憶。辞令日給1円40銭也でした、同年齢の人は1円30銭でした。
 理由 私は中途退学と言うことで他の人とは別に簡単な英語・数学の試験が有りました、今でも覚えていますが試験官は人事部の猪井さんでしたね。

 寮を出たのは母が新居浜に居を構えたからです、孫九郎引揚者住宅と言っていました、戦災者ですから入居出来ました、4畳半の畳と3畳の広さの板の間の6軒長屋(6棟ありました)で母・弟との3人暮らしです、チャチな天井も無い長屋でした、事実冬は瓦の隙間から雪が落ちてきましたね、近くの農家の人が言っていました、この家は危ない台風が来れば倒れるよナンテね。

 当時は水道も無い共同の手押し井戸ポンプで今考えると10数軒の生活用水でしたね、賑やかな井戸端会議、必要な水はバケツで家まで運ぶ状態でした、それでも雨露をしのげる当時は立派な我が家でしたね。
 まぁこんなことを書いても仕方が無いでしょうがね
 

 

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