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三笠宮 仁親王殿下がご逝去されました。 衷心より哀悼の誠を捧げます。 親王殿下は常に皇室、皇族はいかにあるべきかを考え抜かれてこられた方でした。そして、その中で身をもって範を示して下さいました。 とくに、福祉活動については病に侵されながらも、渾身の力を振り絞るように尽力されました。 そして皇室の将来、日本の行く末を心配され、発言すべきと決意された時には堂々と持論を展開されました。憂国の情だったのではないかと思います。 大変立派な殿下であり、残念でなりません。 私が総理を辞めた後、殿下より「来い」とのご下命があり、 仁親王邸に参上すると「早く健康を回復せよ」とおっしゃられ、健康法を伝授して下さいました。心やさしい殿下のお気持ちに触れることができ、そのお姿が思い出されます。 ■ツイートする ■シェアする +--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+(2012.06.06[Wed] 19:31) +--【お詫びと訂正】--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+ 先ほど配信させていただきました安倍晋三のメールマガジンに関しまして【三笠宮寛仁親王】の表記に漢字旧字体の使用により一部携帯電話機種等では正しく表示されない不具合が発生いたしました。 正しくは【三笠宮 寛仁親王】です。 お詫びと訂正を申し上げます。 +--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+--+(2012.06.06[Wed] 19:50) ▼安倍晋三事務所携帯版HP http://www.s-abe.jp/ ■画像は一通目のものです。 6日午後、寛仁親王殿下が薨去しました。 心より哀悼の意を表します。 「寛」の旧字体は私の携帯でも表示されず空欄となっていましたが、ご丁寧にフォローがありました。 旧字体は「寛」の最後の一画の後に「、」がつきます。 殿下は、大正天皇と貞明皇后(=九条節子)の第四皇子の三笠宮崇仁親王殿下と同妃百合子殿下の第一皇子。 衆院議長麻生太賀吉の三女で麻生元首相の妹に当たる信子妃殿下との間に、彬子、瑶子両女王殿下がいます。 本文では健康問題で首相を辞任した後の安倍さんが宮邸に招かれて殿下より「健康法を伝授」されたことが明かされていますが、首相経験者ならではの貴重なエピソードであろうと思います。 各メディアで報じられているとおり、殿下は皇位継承問題について、女系容認には反対の考えを示されたことがあります。 同じように、女性宮家創設問題で「宮家維持の為には、たとえば旧宮家からの御養子、あるいはその復活等」の「伝統を守りながら皇統を維持する方策」(メルマガ、11.11.26)による男系維持を提唱する保守派の安倍さんに対しての、厚い信頼や皇室の伝統を守ることへの期待があったのではないかと思います。 なお、5日の『朝日新聞』朝刊の生活面には、安倍さんの長い持病で首相辞任の原因でもあった潰瘍性大腸炎などの腸の難病に新薬が次々と登場していることが紹介されていました。 4月27日のメルマガによれば安倍さんの体調は新薬「アサコール」によって既に改善しているということですが、それは殿下も大いにお喜びのことだったでしょう。 今から10年前、2002年11月には殿下の弟に当たる高円宮憲仁親王が47歳という若さで薨じており、三笠宮、同妃両殿下は三皇子二皇女のうち、既に二皇子に先立たれていることになります。 皇子女方の内、存命なのは桂宮宜仁親王殿下と近衛〓子さん、千容子さんの三人(なお近衛〓子さんの夫の近衛忠〓日本赤十字社長は戦前の元首相近衛文麿の外孫ですが、近衛は安土・桃山期の後陽成天皇の皇子の従一位関白左大臣近衛信尋の男系子孫であり、従って近衛家は文麿・文隆父子の代までは男系で皇族に連なっていました)。 三笠宮殿下は現在96歳、同妃殿下は89歳と両殿下とも長命を保っていますが、その中で二皇子に先立たれていることのご心痛は察して余りあります。 平安時代、従一位太政大臣・摂政藤原道長の長女として生まれて一条天皇の中宮となった上東門院(=藤原彰子)は承保元(1074)年10月に87歳という、当時としては異例といえる高齢で崩じるまでに、長元9(1036)年4月に後一条天皇、寛徳2(1045)年1月に後朱雀天皇の二子と、後朱雀天皇の皇子で相次いで即位した後冷泉天皇と後三条天皇のふたりの孫をそれぞれ治暦4(1068)年4月と延久5(1073)年5月に、また後一条天皇の中宮で自身の妹の威子を長元9(1036)年9月に、やはり妹で後朱雀天皇の東宮時代の妃で後冷泉天皇生母の嬉子を万寿2(1025)年8月に失っていますが、それは長寿と、『源氏物語』の作者の紫式部や『栄花物語』の作者の赤染衛門、和泉式部、上東門院中将、紫式部の娘の大弐三位、出羽弁などの女流作家の仕えたサロンを率いたような栄華という、上東門院の繁栄に大きな影を差させた悲劇でした。 鎌倉期の宮廷を描いた『増鏡』「老の波」は、後嵯峨天皇の中宮大宮院(=西園寺〓子)が所生の後深草院と亀山院に長く重んぜられたことを讃えるなかで上東門院の悲劇についても触れ、それを「御堂の御女上東門院、後一条・後朱雀の御母にて、御孫後冷泉・後三条まで見奉り給ひしかども、みな先立たせ給ひしかば、さかさまの御嘆きたゆる世なく」(=道長公の御女上東門院は、後一条、後朱雀両帝の御母で、御孫後冷泉・後三条までご覧になったが、この帝はみな先立ってなくなられたので、死ぬ順序が逆になったお嘆きはたえる時がなく)と表しています(『増鏡(中)』井上宗雄訳注、講談社学術文庫)。 寛仁親王殿下の薨去は、両親の三笠宮ご夫妻両殿下の「さかさまの御嘆き」はいかばかりかと思わずにはいられない、本当に「残念でな」らないことでした。 桂宮殿下についても近年、敗血症で入退院を繰り返しているとの報道が都度ありますが、こちらの健康の安定をお祈りしたいと思います。 悠久の歴史のある皇室には、同時に多くの悲劇もありました。 飛鳥時代、7世紀末の女帝の持統天皇は持統天皇3(689)年4月に一子、皇太子草壁皇子を亡くし、持統天皇の皇位は草壁皇子と、持統天皇の異母妹で従妹の元明天皇との間に生まれた文武天皇に継承されていますが、この祖母から孫への譲位は当時として一種の皇室の危機であり、それをロジックの面で補強したのが『古事記』『日本書記』が神話として伝える、天照大神の孫に当たる瓊瓊杵尊による天孫降臨であったのだろうというのはよく言われる話でしょう。 記紀において、皇族の短命を説明したものとされる、瓊瓊杵尊と木花咲耶姫の結婚、姫の姉の磐長姫を巡る物語も同様と言えるでしょう。 また平安末期、治承・寿栄の内乱で後白河院の皇子の高倉宮以仁王が治承4(1180)年5月に当時の平氏政権に反旗を翻して起こした以仁王の乱で、同じく後白河院皇子の円恵法親王が寿栄2(1183)年11月に源義仲が後白河院に対して挙兵した法住寺合戦でそれぞれ戦死するというように、戦乱の中で後白河院が皇子を亡くす、皇族であっても横死するというような混乱期があったこともあります。 南北朝の動乱期、後醍醐天皇の皇子たちでは正慶2/元弘3(1333)年5月に大覚寺門跡恒性、建武2(1335)年7月に征夷大将軍兵部卿護良親王、建武4/延元2(1337)年3月に一品中務卿尊良親王、建武5/延元3(1338)年4月に東宮恒良親王、康永3/興国5(1344)年1月には東宮成良親王がいずれも横死していると伝わりますが、そのうち同腹の恒良、成良両親王の兄弟の生母新待賢門院(=藤原廉子)も、戦乱の中で所生の皇子を失っています。 長い歴史の中ではそういった悲劇も重ねながら、日本の中心として続いてきたのが皇室であると言えます。 寛仁親王殿下のご両親の三笠宮ご夫妻両殿下には、どうか気を強く持ってあっていただきたいと思うばかりです。 『増鏡』の巻名「老の波」とは、弘安8(1285)年2月、北山准后こと従一位四条貞子の90歳の祝賀の際、亡夫従一位太政大臣西園寺実氏が側室との間に儲けた子の従一位太政大臣公相の子(つまり血の繋がらない孫)の後の従一位太政大臣実兼が「代々のあとになほ立ちのぼる老の波寄りけん年は今日のためかも」(『新後撰集』入集)と詠んで、その長寿を寿いだのによっています。 貞子は権大納言藤原隆房の娘で平清盛の外曾孫女に当たる人物ですが、乾元元(1302)年10月に没するまで実に107歳という長寿を保っています。 そしてその間には大宮院と後深草院中宮の東二条院(=西園寺公子)の二女がそれぞれ正応5(1292)年9月と嘉元2(1304)年1月に、また大宮院所生の孫の月華門院(=綜子内親王)が文永6(1269)年3月に、後深草院が嘉元2(1304)年7月、亀山院が嘉元3(1305)年9月に、ともに先立っています。 長寿と近親者との別れの悲哀とは表裏一体に分かちがたいものですが、それでも皇族の方々の長命は、国民としては自ずとお祈りするところであるでしょう。 殿下の薨去に接して、安倍さん同様残念で寂しいのと同時に、かえって三笠宮ご夫妻両殿下の長命に思い至らずにはいられません。 (R) |

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