東日本大震災

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震災から2年 最終章

地震発生から4日目、月曜日の朝、私は出勤するために車を出して、いつもの通りを走っていました。
道路のあちこちで小さな渋滞が起きていました。ガソリンスタンドで給油しようとする人達の渋滞でした。 
品不足なので1回につき10Lのみの給油でした。 灯油も足りないしもう売るものがないと、
店を閉めてしまったガソリンスタンドもありました。 ガソリン節約の為に電車で通勤しようかとも
考えましたが、計画停電の時間帯にあたれば電車も動きません。 そこで私の車をギリギリまで使い、
無くなったら母親の車を借りようと考えました。

母親は何軒ものお店を回って物資を調達しようと奮闘していました。 家になかった懐中電灯と
電池だけは・・・と思いましたが、どのお店に行ってもキレイさっぱり売れてしまっていました。 
仕方なくロウソクを買ったのですが、それも仏壇用みたいな小さなものでした。
アレってすぐなくなってしまう(燃え尽きてしまう)んですよね。
停電中は暖房も使えないので携帯カイロも欲しかったですが、それも売り切れ。
マスクも、カセットコンロ用のガスボンベもありませんでした。

食料品もほとんどのモノがなくて棚はガラガラでした。 生鮮食品と日配(牛乳、豆腐など)はもちろん、
ペットボトル飲料、カップめん、缶ヅメ、レトルト食品、米、乾麺(パスタ)、すぐに食べられる
パンやお菓子まで売り切れていて、在庫もなく、次にいつ入るのかも未定との事でした。 
そのうちしばらく閉店しますとの張り紙が貼られてシャッターが降りて、町はゴーストタウンのように
なってしまいました。 遠くの大きなスーパーなら開いていましたが、仕事以外でガソリンを
使いたくなかったので家にあるものでなんとかしようと決めました。

計画停電は・・・今思い返すとそんなに何十回も実施されたわけではありませんでしたが
やっぱり大変でしたね。 特に食事の時間帯に実施となると早めに作っておかなくてはいけませんでした。 
仕事も時間が延びたり短縮されたり変更されたり・・・と、かなりバタバタで、それに加えて
ガソリンや食料はいつまで持つか、いつ入荷するのかと心配してクタクタになってしまいました。

物資や食料については、だいたい2週間くらいで元に戻って心配はなくなりました。
計画停電も思ったより早く終わりそうだと胸をなでおろしていた頃、風評被害が襲ってきました。 
このあたりは関東地方でも一足早く春が訪れ、一年中(真冬でも)花が咲くというのを「売り」に、
観光業で生計を立てている人が多くいます。 春から夏にかけての期間で一年分の収入を得る人も
少なくありません。 でも地震以降、客足はパッタリ途絶えてしまいました。 
いくら「こっちは被害はなかったよ」とアピールしても、海の近くというのがネックになったのでしょう、
GWや夏休みに予定していたイベントが次々とキャンセルになって、それがゴーストタウン化(?)に
拍車をかけてしまっていました。

農業と漁業に携わっている人達は放射能の事を心配していました。 地震の時、野菜を分けてくれた
農家の人は、もしお米から放射能が検出されたら・・・と思うと夜も眠れないと心配していました。 
このあたりの漁師さんは夏になると東北沖で漁をする人が多いのですが、
当分漁には出られないのではないかと言っていました。
他の職業の人達もこの地震で何らかの影響を受けていて、地震直後の混乱は収まったものの、
これからどうなるのかという暗い気持ちが街全体を覆っているようでした。

私も疲れのためか味覚がなくなったり、どうにも疲れた、頭が痛い・・・と横になる日がよくありました。
そんな時、何が私を助けてくれたかと言うと、それは東北の人達の頑張る姿でした。 
たくさんのものを失ってもなお、前向きに生きる姿をテレビなどで見るにつけ、私も頑張らなくては!
被害が大きかった地方の人達のために私が出来ることをしよう!と思えるようになりました。
 それから募金箱を見つけるたびに募金をし、ネットでワンクリック募金を続け、ボランティアで働き、
カナダの友人にこちらの震災に関するニュース番組をビデオにおさめて英訳をつけて送りました。 
友人はそれらを職場や学校に持っていってみんなで見て、募金を募って日本に送ってくれました。

あれからもう2年がたつんですね。 東北地方はまだまだ厳しい状況が続いているようですが
少なくとも私の地元ではもう完全に復興したと言えるのではないかと思います。
(初めからそんなに大きな被害ではなかったのですけどね)
そこで私もブログにこの記事をアップして、気持ちに区切りをつけようと思います。
この書庫は一時休止して、ブログタイトルの下の一言コメも変えます。
東北の事を忘れようと思っているわけではありません。 これからも微力ながらサポートは
続けていくつもりですし、書庫はこのまま残すので、また地震とかがあったりしたら
何か書こうと思っていますが・・・

一日も早く、復興の日が来ることをお祈りしています。
HANG TOUGH TOHOKU! HANG TOUGH JAPAN!!

地震の時からずっと止まっていた電気が復旧したのは、12日の未明、午前3時半頃でした。
地震が来た時にテレビをつけていてそのまま停電したのですが、スイッチをオフにしていなかったので
復旧した時にいきなりテレビがついて、私はそれに驚いて目を覚ましました(苦笑)
テレビでは枝野さんが記者会見をしていて、福島の第1原発の事を話していました。
震源地は宮城と聞いていたけれど、福島でもそんな大きな被害があったのかと、
そこで初めて気づかされたのです。

私はまずストーブをつけて部屋を温め、電子ジャーに容量いっぱいのご飯を炊いておにぎりを作りました。 
お味噌汁と卵焼きも大量に作りました。 また停電になるかもしれないという心配があったので、
その時の為に2日間分くらいの食事をつくっておこうと思ったのでした。
電話やメールも繋がるようになって、前日送られたはずのメールが一斉に受信されました。
友人がアイアンメイデンのライブは中止になったと教えてくれたのでお礼を返信したあと
予約していたホテルにキャンセルの電話を入れました。 キャンセル料は発生しませんでした。
そのうちに外がだんだん明るくなってきたので、お風呂を沸かして入ることにしました。
考えてみれば職場から制服のままで帰ってきてしまい、着替えもせず、お風呂も入らず、
歯も磨かずに(涙)メイクも落とさずに眠ってしまっていたのでした。

お風呂から上がって恐る恐るテレビをつけてみると・・・そこには恐ろしい光景が映し出されていました。 
朝日が津波に襲われた街を照らしていました。 ヘリコプターからの映像(中継)で、街全体が水に
つかったままで、かろうじて残った建物の屋根に人がいて助けを求めているものでした。
病院の屋上でしょうか、SOSと書かれた文字も見えました。 私も家族も、この町の変わり果てように
絶句して、ただテレビの画面を見つめることしか出来ませんでした。 アナウンサーが、どこかの海岸に
200人〜300人の遺体が打ち上げられているもよう・・・と言ったときには、背筋が凍るような
思いがしました。

そうこうしているうちに仕事に行く時間になりました。 その日の勤務は午前中のみでしたが、
一応食べるものを少し持って家を出ました。 海のすぐ前の道路を走りましたが特に被害は
なかったようでした。 あとで知りましたが地元の方にも何回か津波が到達していたらしいのですが、
高さは毎回50cmくらいだったので町中に水は入ってこなかったのでした。 
ですが、海で養殖している魚、貝、海苔などがかなり流されてしまったそうです。

職場はかなり混雑しました。 前日(地震の時)に来ていた人達のほとんどは未処理のまま帰宅したので、
午前中はその人達の対応に追われっぱなしでした。 地震でケガをした人は来ませんでしたが、
その頃はまだインフルエンザの患者さんがチラホラいて、前夜の避難所生活と電気(暖房)なしの状態で
症状が悪化したり、感染が広がるのではないかと心配になりました。

帰宅する前に職場近くの親戚の家に寄ってお互いの無事を確認しました。 
そこは避難勧告が出た地域だったので、家族みんなで近くの小学校に避難してそこで一晩過ごしてきました。 
近くの一人暮らしのお年寄りや小さな赤ちゃんのいる知り合いの家にもちょこっと顔を出して帰宅しました。 
夕方になると姪がボランティアで自宅近くの避難所(中学校)に片付けの手伝いに行くと言ったので
私もついて行って少しだけお手伝いをしてきました。

夜になってやっとパソコンを開く余裕が出来ました。 このブログやメールボックスにはたくさんの
メッセージが寄せられていました。 みんな私や家族の事を心配してくれていました。
特にカナダに住む友人は、向こうの人探しサイトのようなものに登録して、私の事を探していました(笑)
私は丸2日間ログインしなかったし、彼らはうちの地元と東北地方がどのくらい離れているのかも
よくわかっていないので、酷く心配しているようでした。 みんな無事なのか、食料や物資はあるのか、
自分達に出来ることがあったら遠慮なく言ってください・・・というメッセージが寄せられ、
本当に有難かったです。 

次の日は日曜日でした。 甥夫婦(その頃はまだ結婚してないですが)と従妹の家族など
総勢10人でうちに集まって一緒に食事をしたり、地震が起きた時の事を話したりしました。
夜になって兄も職場から戻ってきました。 市の広報で、電力が足りなくなるからなるべく節電をして
欲しいと呼びかけていました。 もしかしたら停電するかも知れないとのことでした。 
ガソリンも今日のうちに給油しておいた方がいいと情報が流れて、甥と兄は車を出してガソリンスタンドに
向かいました。 私は地震の2,3日前に入れたばかりなので行きませんでした。 
あまりテレビなどを見なかった私はこの差し迫った状況に気づかず、随分とノンビリした気分でいました。 
停電するかもとか、ガソリン不足になるかもという情報は信じられなかったです。 

次の日からのサバイバル生活(?)は、パート3に続きます・・・




追記・・・13日に淡路地方で大きな地震があってケガをされた方がいらっしゃいますね。
     お見舞いを申し上げます。 
     そしてこの記事をアップした直後にも、関東で地震が起きました(恐)
     

先週の月曜日は震災から2年でしたね。あの日の事をもう少し詳しく書いてブログに残したいと思います。

私は職場の事務室にいて仕事をしていたのですが、いきなりパソコンや部屋の電気が消えてしまいました。
その時は書類の整理の為に立ち上がっていたので最初の微動に気がつかず、
停電だと思って早くパソコンを復旧させないと!と思っていたのでした。 
そのうちに私にも感じるくらいに揺れてきました。 最初のうちはまだそんなに激しい揺れでは
なかったので、パソコンや棚が倒れないように押さえていました。 時間にしたら1分くらい
だったでしょうか・・・もうこれで収まるかと思ったのですが、今度はかなり激しい揺れが
襲ってきました。 地下鉄の電車にでも乗っているかのような激しい揺れで、棚にあった物が
バサバサ落ちてきました。

危険を感じた私達はドアを開けて廊下に出ました。 他の部屋からも人が出てきて外に出ようと
していました。 私の前を足の悪いおばあさんが歩いていたので、その人の腕を取って
支えるようにして二人で出ようとした時に揺れがピークになり、私達はまっすぐ歩く事が出来ずに
廊下にあったソファーに倒れこむように座ってしまいました。 廊下に直に座って上半身をソファーに
あずけるような形で座ってなんとか揺れをやり過ごそうと思ったのでした。 
この時間は〜よく覚えてないですがとても長く感じましたね。 3分以上はあったのではないでしょうか。
部屋の中の物(書類やファイル)が落ちる音や、ガラス製品が床に落ちて割れる音などが聞こえてきて
とても怖かったです。 もしかしたら私、死んじゃうかも?とすら考えました。 

揺れがだんだん収まって、先に外に出た同僚が助けに戻ってきてくれて、私達もやっと外に出ることが
出来ました。 周りの家や建物からも人が出てきていましたが、みんな着のみ着のまま、何も持たずに
出てきていました。 市の広報で津波警報が出たと放送していました。 私達はにわかには信じられず、
ちょっとしたショック状態のようになったまま、駐車場の花壇のところに座り込んでいました。 
揺れが収まって社屋に戻り、部屋を片付けたりお客さんへの対応をしました。 電気を復旧させようと
試みたのですが元が切れてるんだからどうしようもないとわかり、暗がりの中で片付けました。 
同僚の中には小学生や幼稚園の子供がいる人もいます。 地元では地震などの災害が起きた時は
子供たちだけで帰すことはしないので、親が迎えに行くことになっていました。 なので一旦職場を
離れて学校へ迎えに行き、子供を家に入れてまた職場に戻ってきて仕事を続けました。 
家が海のすぐそばとか、家に大人がいないところは職場に連れてきて待合室で休ませていました。 
いつも元気な子供たちですが、さすがにこの時は笑顔もなく口数も少なく、心配そうな顔をしていました。

そのうち津波が到達したと市の広報からの放送が聞こえてきました。 高さは50cmだったので
水は街中には入っては来ませんでした。 でも津波って第2波や3波と大きくなるという話も聞きますよね、
私達も避難した方が良いのでは?という意見も出ました。 職場は海から300メートルくらいしか
離れておらず、しかもすぐわきに川があります。 でもボスは、この地震でケガをしてる人が来るかも
しれないから閉めずにいる、もし津波が来たらこの職場の屋上に逃げると決めました。 
社屋は鉄筋コンクリートの4階建てで屋上もあります。 そこで私達は荷物や非常用持ち出し袋を
4階に上げて、1階の玄関先の明るいところに集まって待機していました。

職場には非常時のみに繋がる電話があったので、それを使って家に電話をして母親の安否を確認しました。
電話は(携帯も)すでに繋がらない状態でした。メールはまだ使えていたので、広島に住む友人から
メールが送られてきていました。 そこで初めて震源地は宮城沖だったことを知りました。 
それまでは震源地は地元だろうと思っていたのです。 私は次の日にアイアンメイデンのライブに
行くことになっていました。 一番大きな揺れが地元なら東京の方は大丈夫だろうなんて
ノンビリ考えていたのでした。

職場に出入りしている業者さんが来て、彼のカーラジオのニュースを皆で聞きました。
東京のお台場方面から煙が出ているとか、建物の屋根が落ちてきて何人かが下敷きになったとか
恐ろしいニュースが次々に飛び込んできていました。 東北地方は巨大な津波に襲われて
甚大な被害が出ている模様、仙台空港に津波が押し寄せてきて壊滅状態だとアナウンサーが叫ぶように
放送していました。 大変な事になった・・・と青ざめていると何回目かの余震がありました。 
かなり大きな揺れでした。 ラジオで、今の地震(余震)の震源地は茨城沖と言っていました。 
すると市の広報が、今度は大津波警報が出たというではありませんか! そして「海の方には
近づかないように」という放送ではなく、「海沿いの地域の人は避難所へ避難するように」という
避難勧告が出されたのでした。

この時の時間は4時半くらい。 ケガをした人も来なかったので、私達も避難しようということに
なりました。 職場から直接避難所の小学校に行った同僚もいましたが、私の家は職場の隣の市にあり、
家族や家の事も心配だったので、車でまず家に帰ろうとして駐車場に向かいました。 
周りの住民達もとるものも取り合えず〜という様子で、避難して行きました。 最初の地震(本震)から
結構時間があったので貴重品やちょっとした食べ物や飲み物などを持って出てくることが出来たそうです。
途中、中学の同級生に会いました。 彼は地元の消防団に入っていて、この時も住民の非難の
誘導をしていました。 私は彼に「津波来るかな?」と聞いてみました。 
すると「わからないけど・・・さっき海の様子を見たら、2メートルくらい引いてるんだよね。 
それに、外房には来てるんだよ、こっちも危ないと思う」と言いました。 高速道路は閉鎖されているし、
国道も海からすぐのところは危ないから裏道を通った方がいいと教えてくれました。 
実際道路は国道も裏道も大混雑でした。 電気が来てないので信号もついていないし、内陸へ移動したり、
家へ戻ろうとする人の車で渋滞していました。 大きな交差点では警察官が出て交通整理をしていました。 

母親は一人で家にいました。 食事で使う大きなテーブルを食器棚の前まで一人で移動させて、
食器棚が倒れないようにしてありました。 あまり食欲もなかったのですがそこで簡単な夕食をとり、
当時高3だった姪と義姉の帰りを待ちました。 だんだん暗くなってきましたがうちには懐中電灯が
ありませんでした。 私が持っていたアロマキャンドルをつけ、非常用のラジオの端についている
電灯(?)で明かりを確保しました。 この非常用のラジオは上の方についてるレバーのようなものを
グルグル回して電気を起こす(?)ようなシステムなんです。 レバーを回すのは大変な作業でしたが、
家族と交替しながら回してラジオを聴き続けました。 そこで市川の石油コンビナートが爆発、
炎上しているというニュースを聞きました。 

そのうち兄を除く家族が帰ってきて食事をとり、地震が起きた時のことを話し合っていました。 
その間も何回か余震があって、そのたびに外に出て様子を伺っていました。 貴重品や食べ物などを
バッグに詰めて、いざとなったらこれを持って避難しようと準備をしました。 この時になっても、
私はまだアイアンメイデンのライブが諦めきれずにいました。ライブさえ決行されれば、
なんとかして会場まで行ければ・・・と思っていました。 今考えれば、パソコンの中の電池(?)で
1時間くらいはパソコンが出来るはずでしたが(笑)当時はそこまで考えが及ばずに、
かろうじて使えていた携帯のメールでライブ情報を知っていそうな人に連絡を入れたりしていたのでした。

携帯でこのブログに短い記事をアップしました。 そのあとだんだんメールさえも危うくなって(電池も
残り少なくなって)きたので、また横になってウトウトし始めました。 すると繋がらないはずの
家の電話が鳴るではありませんか!(笑)兄の職場にも非常用回線の電話があるので、
それを使ってうちに電話をかけてきたのでした。 とても家に帰れる状態ではないので泊まりになった、
なので着替えなどが入ったバッグを職場まで持ってきて欲しいという電話でした。 
夜11時くらいでした。 車のライトの明かりだけを頼りに、真っ暗な街を通って兄の職場へ行きました。
職場はまさに戦場のような大混乱っぷりでした。 私は兄には会わず、受付の人にバッグを
渡してもらうようにお願いして外へ出ました。 そこは地形的にちょっと三陸に似ている、
リアス式海岸のようになっているところです。 いつもなら地元の家や港の明かりと、
晴れていれば対岸の三浦半島の明かりまで見えるのですが、この時は停電していたために真っ暗でした。
怖いくらいに真っ暗で、でも月が出ていて穏やかに海の水面を照らしていました。 
この海が東北の海と繋がっていて津波が来たなんて・・・とても信じられませんでした。 
どれだけの被害が出たのかというのも、この時点では想像することさえ出来ませんでした。

家に戻りお風呂に入りたかったですが、電気がなくてはお風呂も沸かせないので諦めました。
避難する時の事を考えて寝巻きに着替えることもせず、職場にいるときの格好のままで寝てしまいました(笑)
途中で何回も余震が来て、あまり眠れませんでしたが。

・・・パート2に続きます・・・

あの日から1年

3月11日・・・東日本大震災から1年がたちました。
あの日からもう1年がたったんですね〜 ここ一週間くらいいろいろと特別番組が放送されて
私も何本か見ましたがちょっとショックでした。 もう少し復興してると思ってましたが・・・

先月までは、1年目の3.11にはこんな記事を書こう、あんな記事を書こうと考えていたんですけど
なんだかわからなくなってしまいました。 気持ちがうまくまとまらないのです。

今まで私がやって来たこと(募金やボランティア)って、なんだったんだろう〜
本当に復興の役にたっているのかしら・・・自己満足にしかなっていないのでは?
とか、いろいろと考えてしまいました。



でもきのうの「めちゃいけ」を見て、ちょっと救われたような気もします。
少しでも被災地に住んでる人の嬉しそうな声が聞けたから・・・
「忘れずに続ける」ことが今の私に出来ることなんだろう〜と考えています。

 

地震保険

さっきまた地震がありましたね。 震源地は茨城南部。 栃木で震度5弱を記録しました。
こちらは震度3でしたが、急にガツっときた感じで・・・そういう揺れ方の時はだいたい
震源地は関東なんですよね・・・ホントに、いつになったら収まるのか。
もう4ヵ月がたっているのにね〜(涙)

昨日、保険会社に行ってこの家の地震保険に入ってきました。
火災保険には入っていましたが地震には入ってなかったんです。
この家を建てるときに、どうしようかな〜と迷ったんですけど、
家を建てる時って何かと物入り、少しでも切り詰めたかったから、
地震保険に入るのはもうちょっとあとでいいや〜って先延ばしにしていたんです。
でもさすがにこの地震を体験するとね〜 入らないわけにはいかなくなりましたよ。


今日の夕方のニュースでは、福島県の牛の飼料から放射能が検出されたとかで、
農家の人が取材を受けていましたね。 「何十年もかけて積み上げてきたものが
全部ダメになってしまって・・・この気持ちがわかりますか?!」って泣いてました。
本当に気の毒です。 かける言葉も見つかりません・・・

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