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久し振りの歴史ネタです。 歴史ファンの皆様よろしくお願いします。 スキー場へ行く時に寄る 『道の駅・雷電くるみの里』 の雷電力士資料館(入館無料)で見付けた写真です。 ※東御市(とうみし)出身の江戸時代に活躍した横綱・雷電為右衛門 クリックすると拡大します。 この写真は慶応元年(1885年)二月、勤王志士たちが密かに長崎に集結した時の記念写真です。 写真中央に写っている、ウイリアム・フルベッキー(当時5歳)の孫に当る 中村保志孝氏が所持していたものです。 【説明文】 幕末から明治維新の有名な人物がこれだけ集まったのは凄いですが 写真が現存するのが奇跡に思えます。 その中に、 西郷隆盛 が写っていますが 西郷は写真を嫌ったので写真が無かったと思っていました。 上野の西郷さんの銅像は造るのに写真が無く、西郷隆盛の弟をモデルに(参考)造られたので 除幕式で西郷隆盛の奥さんは「主人と違う」と言ったとか・・・・・ その西郷さんが写真に写っているのです。 拡大した中央が西郷隆盛です。 こんな所で見られたとは驚きでした。 近くへ行ったら寄ってみましょう。 追加報告 2010.01.08 metalさんからコメントがありました。 この写真は偽物らしいのです。 詳しくは下のサイト(高知県立坂本竜馬記念館)に↓ |
歴史
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群馬県吾妻郡東吾妻町大字郷原 http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=36.55119831&lon=138.79971133&sc=3&mode=map&pointer=on 天正十年(1582)三月、武田勝頼は織田・徳川連合軍に攻められていた。軍儀の席上、真田昌幸は岩櫃城(いわびつじょう)に勝頼を迎え入れ、武田の再挙を図ることを提案して許されました。昌幸は急ぎ帰国し、岩櫃山の南麓に勝頼を迎えるための御殿を三日間で造りました。しかし、勝頼は吾妻の地に来ることかなわず天目山で自刃してしまいました。 急造された御殿は昌幸の一族である根津潜竜斎という山伏が拝領し寺として、嶽下山潜竜院と称して明治にいたる。 前の記事で御殿の跡地が交差点の名前になっていると書きましたが、違っていたようです。 岩櫃山南麓に在るらしいので行ってみました。 JR吾妻線 郷原駅 (ごうはらえき)の東の踏み切りを越えて狭い道を北に上っていきます。 突き当たりのT字路を右に曲がると狭い!!!!私の車では行けそうもないので 近所の方の承諾を得て路駐して徒歩で御殿跡へ・・・・・・・ 軽トラなら通れる道をしばらく進むと、広い敷地が現れました。 左側の古びた石垣(土台)が御殿の建っていた所です。 奥は竹薮となっていて特に何かがある感じは無かった。 広い敷地は畑なのか、土を耕してある。 また、登山道の上り口にもなっていた。 ココから見た岩櫃山、凄い崖で難攻不落の 岩櫃城 なのです。 武田勝頼がもしこの地に来ていたら、どのようになったのか創造すると・・・・・・ 歴史は楽しいですね。 この地に建っていた護摩堂は明治十七年に移築され原町(隣町)の 顕徳寺 の本堂となっているそうです。
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最近、歴史物のテレビ番組が多いですね。 新事実! 実は・・・・ ミステリー など、いろいろで見てしまうのですが、期待ハズレな事もしばしば。 最近発見した 歴史番組 があります。 まだ見てないので何とも言えませんが・・・・・ それは BSデジタル11で放送している 『歴史のもしも』 です。 毎週日曜日 23:00〜23:55 【放送時間変更】 毎週日曜日 20:00〜20:55 ■放送内容 歴史は偶然の積み重ねだ。世界を支配した英雄、偉人も、戦いや権謀術数の歯車が少しでも狂えば歴史の闇に消えていたかもしれない。 そんな過去の出来事に「もしも〜が……だったら」という大胆な仮説をたてて検証する知的エンターテーメント。 「もしも、竜馬暗殺が失敗していたら?」幕末の歴史はどうなっていたのかなど、専門家が語り尽くす1時間。司会は麻木久仁子と歴史案内人・安田清人。 ■出演者 麻木久仁子 安田清人 【番組HPより】 実は家のTVはリモコンで11押しても映らないのですよ。 手動でピコピコ押さないとね。 古い(2006年前)テレビではBS11チャンネルは設定されてないそうです。 歴史の真実を知りたい反面、 『もしも』 も興味心身。 明日のテーマは「もしも元軍が九州上陸に成功していたら」 【追記】 昨夜見た番組の感想ですが、低予算で作られているのかパネル数枚(地図・年表)を使っての説明&討論でしたが、歴史の出来事も面白く解説して分かり易く『もしも』もこんな展開になるのかなと思いました。 個人的には楽しめたので、毎週見る事に決めました。 おわり
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真田昌幸は武田信玄の家臣、真田幸隆の三男で真田幸村の父です。 信州・上田城で徳川の大軍を二度退けている智略家。 子供の頃は人質として武田信玄の下で育ちました。 信玄が死に勝頼の時代、長篠の合戦で長男・次男が戦死して昌幸が真田家を継ぎました。 勝頼は織田・徳川に対抗する為に新府城を築城しますが、味方の裏切りで時遅く築城間もない新府城を焼 きはらい退去する。 この時、真田昌幸は「真田が守る上州吾妻の岩櫃城(いわびつじょう)へ御引き下さい」と進言する。 「吾妻の地は要害堅固の上食料も豊富、篭城すればなかなか落ちる城ではなく二・三年の後に敵方の変化を見て甲府へ・・・・・」 勝頼はこの進言を受け入れ、昌幸は篭城の準備のため一足先に吾妻へ帰った。 ところがその後、小山田信茂が「真田は譜代の旧将ではない。自分の所領の岩殿城へ移るように」と勧める。 (真田は信用できない) 勝頼は小山田の勧める岩殿城へ向かった。 九日笹子峠まで来たとき、小山田信茂が裏切り(織田と内通していた)勝頼一行は天目山で自害 天正十年三月十一日、武田氏は滅亡した。 この二ヵ月後に本能寺にて織田信長は明智光秀によって討たれる。 もし・・・武田勝頼が真田昌幸を頼って岩櫃城に逃れていたら、昌幸の知略によって天下に号令する とは言いませんが、武田氏は一大名として存続できたのではと思う。 真田昌幸が武田勝頼を迎える屋敷を建てようとした場所は、現在地名に残ってます。 『御殿町』 交差点の名称になってます↓ |
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以前ブログで『BS熱中夜話 日本の城を語る』を紹介しましたが、あまりのつまらなさにお詫びいたします。 |








