白銀の花道

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お墓・供養塔

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福島正則の霊廟

2013年7月22日に長野県小布施町の岩松院へ行って来た。
訪問記はこちら
 
 
この寺の裏には戦国武将で有名な福島正則の霊廟があります。
 
福島正則公(1560〜1624)は豊臣秀吉の重臣として、賤ヶ岳の戦いでは
『七本槍の第一』と称せられ、また関ヶ原の合戦でも勇名をはせ、広島城
(49万8千石)の大名になったが、幕府の謀略により元和5年(1619)秋この信越地方(4万5千石)に国替えをさせられた。在信5年。悲運をなげきつつ寛永元年(1624)7月13日、64歳で没した。霊廟には遺骨を埋葬し、高さ約2.5mの大五輪塔を建立した。              岩松院ガイドより
イメージ 1
 
 
福島正則といえば血の気が高く勇猛な武将のイメージがありますが、石田三成と不仲なため結果的には徳川家康に利用され、その後の旧豊臣大名の粛清に遭い改易は間逃れたが石高が十分の一に減らされた。
無念さのためか自ら切腹をして果てたらしく、幕府の使者が来る前に切腹の証拠を隠すため火葬にしたそうです。
その後、福島家は3000石の旗本になる悲運です。
 
 
訪問中、多くの人が参拝に訪れていました。
イメージ 2
霊廟の中の墓石は角が取れた丸味のある優しい形で、勇猛な戦国武将も、あの世では優しい気持ちで暮らしているのでしょうか?
そう信じたい。
 
 
 
 
 

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早いもので、26年の年月が流れた。
1985年8月12日18時56分、羽田空港を飛び立ち大阪の伊丹空港へ向かった、日本航空123便ボーイング747(ジャンボジェット機)が、乗員524名を乗せて飛行中、圧力隔壁が破損し近くの油圧系統を破壊して方向陀のコントロール不能に陥った。
ダッチロール飛行を続け群馬県上野村山中の御巣鷹山に墜落し520人の犠牲者を出した。
 
詳しくはウイキペディアで確認↓
 
 
 
あの日の事は、今でも鮮明に覚えている。
テレビの緊急番組に釘付けで観ていた。
ヘリコプターに吊り上げられ救出される少女の姿は忘れる事が出来ない。
 
あれから四半世紀経った御巣鷹の尾根へ慰霊の登山へ行くことにした。
 
 
上野村から御巣鷹の尾根へ向かう道は最近、東京電力が水力発電所を建設する為に物資運搬用のトンネルを沢山造ったので、走り易い道になっていた。
 
イメージ 1
 
 
駐車場が見えてきたが、ココは昔の登山口で今は使われていない。
イメージ 2
 
 
今までは2キロ歩かなければ生らなかったが、最近更に上へ行ける新道が整備されている。
そして登山口に到着!
 
イメージ 8
 
 
駐車場は20台ほど置けるスペースがあり、ココからだと700メーターで御巣鷹の尾根へ到着できる。
 
 
 
歩き始めると旧登山口と合流(左側)、今は右が本線である。
 
イメージ 9
 
 
 
沢伝いに登山道を進むと・・・・
 
 
 
 
急な上り坂に差し掛かる。
ココまで来ると息が切れて足がフラフラに成ってきた。
 
 
そして、上り終わると御巣鷹の尾根、昇魂の碑が表れた。
イメージ 10
 
 
 
 
この場所にジャンボジェット機が墜落したのだ。(現地案内板)
 
イメージ 11
 
 
そして、南の方面の山を見ると、尾根の凹みが今でも分かる。(矢印の所)
この山に機体が接触し、地表を削って2Km先の御巣鷹の尾根に墜落したのである。
イメージ 12
 
 
 
 
尾根に沿って登って行くと観音像や亡くられた方の名が記した石碑など点在する。
イメージ 3
 
 
トタン小屋内には千羽鶴や犠牲者の思い出の品などが展示されて胸が熱くなってきた。
イメージ 4
 
 
所々に残る26年前に火災で炭化した切り株が当時の生々しさを伝えている。
イメージ 5
 
 
 
そして、おびただしい数の墓標が尾根全体を覆って、沢へ降りていくと、更に数が多くなっていった。
 
墓標には年齢が書いてあり40歳前後の方が多く、一家4人または5人で亡くなられた家族の無念さが伝わってきた。
イメージ 6
 
 
ここは軽い気持ちで来る所では無いですが、日常ではさほど意識しない生と死を感じて命の大切さを再確認することになった。
 
 
最後に上野村村内の慰霊の園へ寄って帰る事にした。
イメージ 7
 
 
日本航空123便 墜落事故で亡くなられた520人の御冥福をお祈りします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

別所長治の首塚


訪問日2009年7月23日

兵庫県三木市上の丸町

詳しい地図で見る


戦国時代、三木城を居城として東播磨地方を領有した戦国大名の五代目当主、四代目安治の嫡男で小三郎長治という、安治が39歳の若さで病死したため、13歳で当主になる。当時、天下統一を目指していた織田信長と同盟関係にあったが、のちに中国地方の戦国大名毛利氏に味方したため、信長は家臣の羽柴秀吉に命じて三木城を攻めた。秀吉は、ほぼ2年間にわたり三木城を包囲し兵糧攻めにしたことから、三木合戦といわれるこの戦いは ”三木の干殺し”とも呼ばれている。長治は飢えに苦しむ家臣・領民の命を救うことを条件に自害することを秀吉に申し入れ、天正8年(1580)1月17日、一族とともに自害した。
享年23歳といわれている。               【現地案内板より】

三木城本丸から南に進むと 雲龍寺 があります。

この寺の一角に三木城主別所長治と照子夫人の首塚があります。
イメージ 1

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籠城で飢えに苦しむ将兵・領民を救うために一族ともに自刃

その壮烈なる最期は武士の鑑として地元では永く語り継がれているそうです。

この首塚は昭和四十八年、三木市民有志の寄付によって修復され

併せて照子夫人の霊を合祀したそうです。







軍師 竹中半兵衛の墓

竹中半兵衛の墓


訪問日2009年7月

兵庫県三木市平井

詳しい地図で見る



一世の軍略兵法家として知られた竹中半兵衛重治は、初め斉藤龍輿に属し、後に織田信長に従い、秀吉と共に各地を転戦し殊勲を立てました。
しかし、三木城攻防戦がたけなわの頃、平井山の陣中で胸を病み、一時は京都に移って療養してましたが、固着した戦況を心配し此の地に帰ってきました。
けれども、病魔に勝てず天正7年6月13日、36歳の若さをもって永歿しました。
臨終の時、秀吉に対して将来の「天下人」と予言し息を引き取りました。
秀吉は「お先まっくら」と人前もはばからず遺体にとりすがったといわれます。【現地案内板より】




イメージ 1

イメージ 2
今回の遠征で最初に訪れたのが『竹中半兵衛の墓』です。

田と山の間に白壁で囲まれた中に墓があり綺麗な花が供えられていました。


織田信長から家臣に成らないかとの誘いを断り

羽柴秀吉の家臣に成るあたりは先見の目があったようですが、病弱だった為に肺結核か肺炎で

36歳の若さで亡くなったのは残念です。

秀吉には軍師が二人居ます。

黒田官兵衛と竹中半兵衛




長生きしていたら完全なる秀吉の天下統一がなり、家康の出る幕が無かったのではと思います。



此の墓の上に三木城兵糧攻めの際に築いた秀吉の本陣跡があります。

全国には幾つか墓が存在するようですが、ココが本当の墓と信じて・・・・・・。



では。。

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直江兼続 夫妻の墓

春日山林泉寺




直江兼続  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E5%85%BC%E7%B6%9A



訪問したのは3年前

上杉家菩提寺へ行った時に、たまたま撮影したのがこの画像でした。

ハッキリ言って、当時は直江兼続は殆ど知らなかった。

大河ドラマ 『天地人』 の主役になるとは思いも知らず・・・・・
イメージ 1

(左が兼続 右が夫人)



もう少し良く撮影しておけば良かったですね。

お参りもそこそこでした。



隣に武田信清(武田信玄の六男)の墓もあります。



今は参拝客が多いのでしょう。

当時は殆ど無く2〜3組が参拝(見学)してました。



参道にテントで木彫りの工芸品を売る店が寂しそうで記憶に残っています。






【追加掲載】

林泉寺紹介ビデオを見つけました。お楽しみください。

直江兼続とお船の墓がある春日山 林泉寺

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