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岐阜県不破郡関ヶ原町 東軍の先鋒となった福島正則(約6千人)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣しています。 一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせる なか、一進一退の攻防戦が続きました。 首取りで手柄を立てた可児才蔵が、家康の称賛を受けたとされています。 【現地案内板より】 福島正則 母が豊臣秀吉の叔母だったため、その縁から幼少より秀吉に使え、賤ヶ岳の合戦で武功を上げ 賤ヶ岳の七本槍 の一人として有名。 豊臣政権下で尾張国清洲24万石の大名になる。 朝鮮出兵で文治派の石田三成と険悪となり加藤清正と共に三成を襲撃する事件を起こす。 1600年の会津の上杉討伐には6千人を率いて従軍、その途中三成が挙兵した報を受けての小山評定で いち早く家康に味方することを宣言して、他の武将もそれに従う。 関ヶ原の合戦で東軍が勝利すると、安芸広島と備後鞆49万8千石に加増される。 その後、台風で壊れた広島城の雨漏りを修理したら、武家諸法度違反に問われ 安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡高井野藩4万5千石に減封される。 1620年、嫡男・忠勝が早世したため、正則は2万5千石を幕府に返上した。 1624年、高井野で死去、享年64歳。 家臣が正則の遺体を幕府の使者が到着する前に火葬にしたため、福島家は3千石の旗本となる。 福島正則は家康が豊臣家を守り立ててくれると信じて東軍に付いて戦ったのに、結果は家康の本心(野望)を見抜くことが出来ず、豊臣家は滅亡し自身の領地は没収されたきっかけを自ら作ることになった 過ちを悔いる晩年だったのであろう。 一説には、切腹したので幕府の役人が来る前に火葬にしたとも言われている。 訪問記 松尾山を降りて不破関資料館に寄ってから福島正則陣跡に到着。 人家の中で春日神社になっています。 駐車場が道の向かいに5台分ぐらいありました。 境内には杉の巨木が立っていて、樹齢800年と推定され 関ヶ原合戦図屏風 にも描かれているそうです。 『月見の宮』といい昔から月見の名所なっている。
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古戦場
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岐阜県不破郡関ヶ原町 秀秋は西軍として、1万5千の兵を率いて、ここ松尾山に出陣して来ました。 朝から傍観を続けた秀秋は、家康に催促鉄砲を打ち込まれ、遂に意を決して 友軍の大谷隊を攻め滅ぼしました。 東西両軍の懇願に、秀秋は複雑な事情のなかで悩みぬいた挙句の果て 豊臣家に反旗をひるがえしてしまい、東軍を勝利に導いたのです。 【現地案内板より】 松尾山城(長亭軒)史 応永年間 1394〜1428年 小守護富島氏、城を築く(築城史料初見) 永禄十二年 1569年 信長に帰属 元亀六年 1570年 浅井長政、修築 天正元年 1573年 信長、浅井氏討伐後、不破光治を警備に当たらせる 天正四年 1576年 境城の使命終わる 天正七年 1579年 廃城 慶長五年 1600年 小早川秀秋、陣所とする 【現地案内板より】 秀秋は豊臣秀吉の正室北政所の兄の5男として生まれ、小早川氏へ養子に入る。 関ヶ原の合戦では初め松尾山には別の武将が布陣していたのを追い出して布陣した。 石田三成からは関白職を約束されていたが、徳川家康と内通していたとも、また北政所(ねね)が 家康側に味方しろと話した説もありますが・・・・・ どちらに味方するか決断出来ない所へ家康から鉄砲を撃ちかけられ、西軍の大谷隊へ攻めかかるのです。 初め優勢だった西軍は小早川秀秋の裏切りで大混乱の末、敗退して東軍の勝利になりますが この後、小早川秀秋は家康から石田三成の居城、佐和山城を攻めるように指示され落城させます。 戦後、岡山藩55万石に加増されますが、2年後に秀秋は21歳で死んでしまいました。 一説には関ヶ原で自害した大谷吉継の怨念に呪い殺されたとも・・・・・・・。 小早川家は改易になりました。 松尾山登頂です。 下に駐車場があり、看板に頂上まで 40分 と書いてありました。 結構曲がった道ですが、軽トラぐらいなら通ることが出来そうな道で、途中分岐してからは狭くなってました。 途中木が伐採してある所があって、昔はこんな感じだったのかなと見ていたら 道に熊の毛らしい固まりが落ちていてドキドキ、進むのが怖い・・・・・・・ しかもココに来るまでに1人しか見てないし。 しばらく進むと頂上( 本丸 )に出ました。 本丸はあまり広くはありません。 ココから関ヶ原古戦場方面が良く見えます。 小早川秀秋が見た景色です。 何を思って、悩んで、決断したのでしょう。 目安に陣地を書き込んでありますが、位置は目安程度に考えてくださいね。 木は生い茂っているので城の遺構は確認出来ません。 細い道があるので進むと高圧電線の鉄塔に出たりして無駄骨でした。 本丸にはトイレとベンチが設置してあり風が気持ち良いのでしばし休憩。 体力の回復を見計らって下山しました。 現地に設置されていた布陣図
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岐阜県不破郡関ヶ原町 安治は関ヶ原の戦い当時は洲本城主で、かつて賎ヶ岳七本槍の一人として名をあげた武将でした。 東軍に通じていた安治にとって、小早川の裏切りは願っても無いことでした。 しかも東軍が優勢に転じる頃合を見計らい、みずから槍を振るい、大谷隊の側面に 先頭をきって躍り込んでいったのです。 【現地案内板より】 近江浅井郡に生まれ浅井長政・明智光秀・豊臣秀吉に仕え淡路洲本3万石の城主となる。 関ヶ原の合戦後、西軍から東軍に寝返った武将が裏切り者として取り潰される中、開戦前に 家康と密約を交わしていた為、所領を安堵され後に伊予大洲藩5万3千石に加増された。 大谷吉継陣跡から松尾山(小早川秀秋陣跡)へ向かう途中の名神高速道路近くに脇坂安治陣跡があります。 途中、旧中山道を西に500メートル行くと源義経の母、常盤御前の墓があるので行ってみましょう。 この周辺は寝返り武将が他に3隊布陣したが石碑はココ一つのようでした。 つづく
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岐阜県不破郡関ヶ原町 親友石田三成の懇請を受けた吉隆は、死に装束でここ宮上に出陣してきました。 松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城といわれるくらいの 要害の地でした。 9月3日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で、浮田隊ら友軍の陣造りも進め 15日未明の三成ら主力の着陣を待ったといいます。 【現地案内板より】 大谷隊他、戸田・平塚の緒隊合せて6600人で布陣、吉継は輿に乗って指揮する。 東軍の藤堂・京極両隊と奮戦するが、松尾山の小早川隊1万5千人が裏切り大谷隊に襲い掛かる。 一時は小早川隊を押し戻すが、脇坂・赤座ら4隊(4290人)が東軍に寝返り、大谷隊の側面を攻撃 支えきれず大谷隊は総崩れ、吉継は自害する。 42歳であった。 大谷吉継の墓から敗走の道のりを逆走するように陣跡に向かいました。 斜面を横切るように人が歩ける程度の道を進むと陣跡があります。 辺りは木立で暗く足場が悪い、陣跡碑の前は斜面で落ち込んで、その先に神社が建っています。 神社の直ぐ前にJR東海道本線が通っていて、交通の要所です。 ココは小高い高台で城か砦として昔から使われていたようでした。 つづく
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岐阜県不破郡関ヶ原町 合戦当時、垂井城主(1万2千石)だった為広は、吉隆(吉継)と親しかったため 大谷隊に加わっていました。 平塚・戸田両隊の小早川隊との勇戦振りは目覚しかったが、脇からの背反が加わり 見方の壊滅を見極めた為広は、辞世の句を討ち取った敵の首を添えて吉隆に届けさせると 藤川台の露と消えました。 それを碑裏に留めたのは子孫、定二郎です。 【現地案内板より】 大谷隊と共に500人の兵で関ヶ原に布陣 小早川の裏切りに備え数度押し戻しますが 脇坂らの裏切りや藤堂・京極隊の攻撃に平塚隊は壊滅 この地で戦死します。 宇喜多陣跡から藤古川ダムを越えます。(階段があるので自転車は不可、担げばOK) 以前は畑の中にあったそうですが、今は直ぐ脇に道路が開通してました。 行った時は通行止めで車は×でした。 つづく
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