白銀の花道

訪問ありがとうございます。

関東の城

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羽根尾城 (群馬県)

羽根尾城 (はねおじょう)


訪問日2008年10月19日

群馬県吾妻郡長野原町大字羽根尾


戦国時代に信濃源氏、滋野氏の末裔羽尾幸全入道は羽尾城を根拠として勢力を振るった。
幸全の舎弟海野幸光(長門守)輝幸(能登守)兄弟、ともに武勇を謳われた豪の者で、
永禄9年(1566)真田幸隆により幸光は岩櫃城代、輝幸は沼田城代にそれぞれ任ぜられたが
兄弟を妬む者の陰謀により真田昌幸の誤解を受け、幸光は岩櫃城で、輝光は迦葉山の女坂で
自刃して果てた。
時に天正9年(1581)11月29日、幸光七十九歳、輝幸七十二歳であった。

羽尾城は梯郭式の城で僅かな平坦地が本丸で虎口は東南部にあり東側に腰曲輪がつく。
本丸の南に二の丸、更に南に三の丸が続く。   【現地案内板より】



この城の前は何度もスキー場へ行くときに通っていて、存在は知っていましたが機会が無く

今回、初登城してきました。



国道145号、羽根尾駅近くに小さな錆び付いた看板を北に曲がって線路をくぐると

公民館(集会所)らしい所に車を停められるそうです。(地元の方の話)

私は駅の裏側に車を停めて、迷った挙句・・・・・地元の人に聞いて登城。



城の登り口には海野長門守の墓が祀られています。
イメージ 1



この後ろの水路沿いを進んでいくと・・・・



道が三方に分かれていますが案内板がありません。
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道が整備されている階段を登ることに・・・・・
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岩櫃城を攻略した後なので永延と続く心臓破りの階段はキツイ!!

途中何度か休んで

現れたのが・・・・・・





高圧電線の鉄塔
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鉄塔の点検道だったのか、今までの苦労が水の泡とガッカリしていると










ありました!!
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その案内板の奥へ進むと
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意外と近い所に羽尾城跡の石碑がありました。

右隅に鉄塔が写っています。



周辺を探索しましたが遺構らしいものは分からなかったですが

堀切らしい跡と
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本丸南に小さな曲輪(二の丸)がありました。



本丸からは丸岩城が良く見え景色が良かったのに画像を取り忘れた・・・・残念!



本丸から北へ少し下ると軽トラが通れるほどの道があった。

しかも私が登ってきた道より案内板が分かりやすい。

急斜面の上なのに意外と平坦な地形で「あれ〜!」と思ってしまった。




この城、南面は手強そうですが北側からは簡単に攻められてしまいそうです。

しかし、この道は何処へ通じているのかな?

岩櫃城 (群馬県)

岩櫃城 (いわびつじょう)


訪問日 2008年10月19日

群馬県吾妻郡東吾妻町平沢



岩櫃城は岩櫃山(標高802m)中腹東面に築かれた古典的な中世の山城であり、山頂より約200m低い場所に本丸・二の丸・中城があり、これらを中心に広い範囲で竪堀や曲輪が点在してます。
岩櫃城はその築城時期や築城者については定かでないが、文献によれば南北朝の時代に初めて岩櫃城主吾妻太郎行盛の名が登場します。行盛は、南朝方の豪族里見氏に攻められ自害したと伝えられます。その後行盛の子、憲行が関東管領上杉氏の支援によって岩櫃城を奪回し、その後、斉藤越前守典広(基国)まで六代による東吾妻支配の本拠となりました。
戦国時代の上州は甲斐武田氏・越後上杉氏・小田原北条氏による支配権争いが繰り広げられ、永禄六年
(1563)斉藤越前守憲広(基国)の本城だった岩櫃城は武田信玄の家臣である真田幸隆の手によって落城し、武田氏の西上州支配が確立しました。武田氏の滅亡後は真田氏の支配になり、岩櫃城は信州上田城から上州沼田城を結ぶ真田道の中間地点として重要な位置を占めることとなりました。
徳川幕府開設後も吾妻地域は真田氏の支配となりましたが、徳川家康による「一国一城令」に伴い、慶長十九年真田信幸は城下町を現在の原町に移し岩櫃城を破却し、岩殿城・久能山城と並び武田の三堅城といわれた岩櫃城も戦国時代の終焉と共にその役目を終えました。  【現地案内板より】

現地図
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岩櫃山に築かれた城で、この山を見ると誰もが難攻不落な城と想像しますが実際の城は山の裏斜面に築かれています。
イメージ 2




しかしながら、南面を天然の石垣で守られているので堅牢な城なのです。




城が築かれた斜面はこの森の中で、天狗の丸方面から撮影。
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駐車場が登城口近くにあり4〜50台は置けそうな大駐車場完備

トイレ・水道・休憩場も完備されています。



前回来た時は休憩場にNHKドラマ『真田太平記』の登場人物のパネルが掛かっていた記憶があります。
十数年前の話・・・・・・



登城口にこんな見たくない看板が・・・・
しかも駐車場には先客の車が一台きり、朝からの訪問なのです。
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中城の下を進んでいくと 殿屋敷跡 に出ます。
ビニールハウスの骨組みがある畑が敷地だったようです。
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一直線に登る階段は 竪掘跡 で二の丸に出られ、写真右側が中城
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中城 はなだらかな斜面で昔来た時は桑畑だった記憶が・・・
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二の丸と本丸の間の 堀切 で階段を登ると本丸に出ます。
堀切は奥に向かって続き竪堀になって斜面を下ってました。
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本丸に登るとその 竪堀 を見ることが出来ます。
岩櫃城見所の一つですね。
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ココから見える下界(原町)の様子、遠くまで見渡せます。
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本丸 は山城にしては面積が広く屋敷跡や狼煙台それと土塁がありました。
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立派な 本丸石碑 は流石名城!
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本丸北枡形虎口 は原形を留めていました。
ココから道が分かれて上に登ると岩櫃山登山道で真田の逃走道があったとも言われてます。
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少し登ると・・・・
前回訪問したときに本丸に立っていた看板が無惨な姿で捨てられていました。涙・涙・・・・
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登山道(真田の逃走道)はこんな感じな所を歩いて進みます。 ※落城時の逃走用
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最初の岩櫃山の写真裏側の風景で岩・岩で凄いですが紅葉が始まり綺麗でした。
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登山する装備で無いので(実は相当疲れてきた)下山して戻ることに・・・・・
途中、水の手(井戸跡)や木戸跡を通って 空堀(竪堀跡) の看板に「通路に使われていた」
なる一文と誰かが歩いて行ったらしい足跡があったので、何か遺構があるのかな・・・・・
山城好きの好奇心で空堀内へ進むと・・・・・
イメージ 19











一度駐車場へ出て、少し下がった所に 橋台遺構 西の木戸跡 がありそのまま下山すると郷原駅へ進むことが出来ます。下草が刈られて良く管理されていましたが、遺構を撮影しても分かりづらいので画像は無し。
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橋台遺構の川の中に落ちていた懐かしい『スプライト』の瓶
マイリバさん の記事を思い出して撮影!!
イメージ 21







今年初めての城訪問記事で昨年行った城のストックが沢山あるので少しずつUPしようかと思います。

真田の隠し罠に掛かったり(笑)ドキドキ・ハラハラな思い出ですが、手軽に山城の楽しさが味わえる

所だと思います。



それに武田氏滅亡間じかに武田勝頼をこの城に迎え入れようとした真田昌幸(幸村の父)の

思いが詰まっている所なのです。

歴史が大きく変わるターニング・ポイントになり歴史の表舞台に登場していたかも・・・・・

真田の知略を駆使すればと・・・・・真田びいきの妄想かな??


ついでに↓の武田勝頼 御殿跡記事も参考に
http://blogs.yahoo.co.jp/dekita_ra_iina/45670955.html







追記

明日のNHK大河ドラマ 『天地人』 真田幸村の登場です。

岩櫃城には幼少期の幸村が暮らしていたとの事、活躍に期待してます。

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石垣山一夜城

石垣山一夜城(いしがきやまいちやじょう)


訪問日2008年7月25日

神奈川県小田原市早川



石垣山は、もと笠懸山、松山と呼ばれていましたが、天正八年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏の本領小田原城を水陸十五万の大軍を率いて包囲したとき、その本営として総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになった。
この城を秀吉が一夜にして築いたように見せかけた伝承から、石垣山一夜城とか太閤一夜城などと言われている。
秀吉は、この城に滞在した100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者を呼び寄せた。
また自ら淀君など側室を呼び、参陣の諸大名にもならうように勧めたと言われている。
この城は単に小田原攻めの本営ではなく、太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであった。
この城は関東で最初に造られた石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積です。
度重なる大地震に耐え、当時の面影を大変よく残している貴重な城跡です。
                                    【現地案内板】

石垣山一夜城の構造
最高地点の天守台の標高が261mあり、小田原城の本丸より227m高く、小田原城までの距離はわずか3kmと近く、眼下に小田原城やその城下はもとより、三浦半島や房総半島をも望むことができます。
小田原城包囲軍の指揮をとるには最も適した場所といえます。
この城が一夜城と呼ばれるのは、築城にあたり山頂の林の中に堀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採したためと言われていますが、実際には4万人が動員され、天正十八年の4月から6月下旬までの80日間が費やされた。   【現地案内板】



現地案内板の案内図
イメージ 1



登城口
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駐車場から直ぐ登城口があります。(駐車台数50台)




南曲の石垣
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登り始めると直ぐ見えます。



本丸の石垣(下が二の丸)
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地震によりかなり崩れています。



天守台跡
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周りは木が生い茂っていて視界ゼロ、風景は見れません。




二の丸(奥の山が本丸)
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二の丸も本丸も面積が広いが本丸は木が多い。




井戸曲輪跡
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井戸曲輪は、二の丸の北東側にあり、もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と西側を石垣の壁で囲むようにして造られている。
井戸は二の丸から25mも下がった所にあり、今でも湧き出る水を見ることができる。
この井戸は『淀君化粧井戸』とよばれています。      【現地案内板】


井戸の中
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今も水が湧き出ています。

薄暗い、周りを石垣で囲まれたココに立つと石垣の規模に圧倒され、何か背筋が寒くゾクゾクして変な感覚に襲われました。
何か出てきそうな感じ!!
本丸の石垣は地震で崩れているのに、井戸の為にこれだけ立派な石垣が必要だったのか?殆んど無傷で残っています。

余談ですが帰りに、城跡公園の横に 宗教団体 の施設がありました。




本丸物見台から見た小田原城
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天守閣の位置に矢印を付けましたが、当時の小田原城には天守閣は無かったのです。
樹木の茂っている当たりが城跡になるのでしょうか?
ココから見ると城内の様子が丸見えで、優位に立っているのが分かります。


小田原攻めは兵力の人数以上に、北条軍は農民兵が多かったのに対し秀吉軍は兵農分離された戦闘集団で組織されていたそうです。


天下統一に賭ける秀吉の執念が、たった80日でこれだけの石垣を築いたのには驚きました。

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小田原城

小田原城 (おだわらじょう)


訪問日2008年7月25日

神奈川県小田原市城内



室町時代に北条早雲が攻略して以来、北条氏の居城となった。
上杉謙信と武田信玄の攻撃を篭城により撃退。
周囲9kmを塁と堀で囲む総構に守られた城は、難攻不落と謳われる。
しかし、1590年(天正18年)豊臣秀吉21万の大軍に攻囲されて開城した。
関東に入部した徳川家康は総構を破却。
稲葉氏時代に今日残る姿に整備された。
おもな建物は明治時代に解体され、現在は天守などが復元されている。


現在の小田原城案内図(現地にて)
イメージ 1



天守閣
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寛永11年(1634)に三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだ記録がある。
元禄16年(1703)大地震で倒壊・焼失するが、宝永3年(1706)再建され明治の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていた。
現在の天守閣は昭和35年(1960)鉄筋コンクリートで再建され、内部は資料館となっている。



常盤木門(ときわきもん)
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本丸の正面に位置し小田原城内で最大の門、明治3年まで現存する。
現在の門は昭和46年(1971)再建される。



銅門(あかもん)
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二の丸の表門で扉の飾り金具に銅を使用したことから呼び名がついた。
平成9年(1997)復元された。



明治5年ごろの銅門(古写真)
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二の丸堀
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二宮神社に北条氏時代の素彫りの堀が残っています。
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天守閣展望台から見る『石垣山一夜城』(手前の山)
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豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻めたさいに、長期戦に備えて築いた。





今回行ったのは北条氏が築いた小田原城に後から(江戸時代)建てた城です。

北条氏の築いた城の遺構も残っているそうですが、今回は行きませんでした。




本丸内に象が飼育(動物園?)されていて、暑い日だったので飼育員が水を象にかけて気持ち良さそう。




小田原攻めで、直ぐ近くに豊臣秀吉が築いた城は、総石垣造りで天守閣がそびえていたのでは

戦う気力が無くなってしまいますね。



この後、その城に向かうのであった!

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神奈川県・・岡崎城

岡崎城(おかざきじょう)


訪問日2008年7月25日

神奈川県伊勢原市岡崎


岡崎城は平山城で相模平野を一望できる台地の先端部分に立地します。
室町時代末期〜戦国時代の岡崎城は、明応3年(1494)に三浦道寸(どうすん)が義父三浦時高を滅ぼし、息子義意を三浦の新井城へおき、自らは相模岡崎の城に手を加え居城とした。
その頃、関東進出をはかっていた北条早雲は、小田原城を奪い相模平定を狙いましたが、堅固な岡崎城に阻まれ、実に17年間にわたり睨み合いが続きました。
岡崎城の周囲は湿地がめぐり、南は断崖で要害だった。
しかし、永正9年(1512)8月、北条早雲の猛攻により遂に攻め落とされてしまいます。
その後岡崎城は北条氏の持ち城になったと思われましたが、廃城の時期は不明です。
                               【現地案内板より抜粋】


岡崎城の跡地には無量寺が建っていて、裏地に城跡らしき遺構が残っている。

寺の入口が狭いので畑よりの道端に車を置く(自己責任で)
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手前は畑になってますが、奥はヤブになっていて堀らしい窪みも数箇所ありました。
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案内板は1つも無く不親切ですが地元の人の話では、城の詳しい史料が無いそうです。





井戸跡がありましたが、今も使われていました。

この井戸も抜け穴伝説があるようで、1kmぐらい横穴が掘ってあるとの事。
イメージ 5





ココから西に300メートル行くと岡崎城を築城し源頼朝の重臣だった、岡崎四郎の墓がありました。

現・皇太子が学習院時代に見学に来たそうです。
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小田原城へ行く途中にある城なので行って見ましたが、城跡としては今ひとつ分かりづらく

お薦めできません。




岡崎四郎の墓から戻るときに違う道へ行ったら戻るのにかなり時間が掛かり疲れた。

素直に来た道を戻るのが正解でした。

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