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妻女山(さいじょさん)
訪問日2011年9月19日
長野県長野市松代町
川中島の合戦で上杉軍が布陣した妻女山どんな所なんでしょう?
武田信玄を海津城から誘き出すために愚策ともいえる布陣は神がかり的な上杉謙信の成せる業なのか?
妻女山は大駐車場完備で松代妻女山招魂社という神社が建ってます。
この神社は戊辰戦争の際、松代真田藩の藩士として従軍し、戦死された御霊を祀っています。瓦には真田の六文銭の印が付いてました。
北側に大きな展望台が建っている
ココを登れば謙信が観たであろう風景が・・・
海津城から上る炊き出しの煙・・・・
そんなのを想像して展望台から海津城(松代)方面を見たら・・・
木で見えないぞ!
正面は木も無く視界がいいのですが、肝心な方向が何故・・・
せっかくの展望台がもったいない。
更に、今回の妻女山訪問中に誰とも会う事も無く、貸切で散策してました。
周辺の観光場は賑やかなのにもったいないことです。
帰りに気になる石碑があったので寄ってみた。
上杉謙信槍尻の泉(うえすぎけんしんやりじりのいずみ)
ある日のこと帰途についた謙信は、あまりに喉が渇いたので、馬から降り家来の直江山城守に、「槍を貸せ!」と命じ槍の石突きで地面を強く突いたところ、そこから勢いよく水が湧き出た。(現地案内板より抜粋) 上画像の左側に今でも湧き出ておりました。謙信が神ならお酒が出たのかな?
飲料に適さないと書いてあるのに、何故かコップが・・・
神が降臨するか?腹が下るか?自己責任でお願いします。
訪問して思うことは、上杉軍1万3千人が布陣するには中途半端な位置で狭いですね。
実は更に上った斎場山が本陣だったと言う話もあります。
時代の流れで、本来は斎場山(さいじょうさん)→妻女山(さいじょさん)に変わってしまったようです。
妻女山大駐車場(笑)から軽トラックで入れる道を進むと斎場山へ行ける様なんですが、最近は怖くて山中に入ることが出来ません。
訪問者が少ないのは残念ですが、展望台で上杉謙信気分を味わってみましょう。
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中部の城
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松代城(海津城)
訪問日 2011年9月11日
地図
松代城は20年振りの再訪問で当時は空き地に本丸の石垣が残っているだけで、本丸内で子供が遊んでいた記憶が残っている。
数年前に復元工事が行われて真新しくなった城へやって来た。
復元されたのは本丸と二の丸周辺で立派な太鼓門が目を引く。
昔の記憶では小さな本丸と思っていたが意外にも広く感じた。
奥へ進むと大きな石碑が建っていて『海津城』と書いてあり、後に北不明門が写っている。
北不明門を本丸外から見ると
そして土塁に開いた謎のトンネル?
何の用途に使ったのか分からないが滋賀県の観音寺城にも石垣にトンネルが造られていたぞ・・・
そして櫓門跡から城外を見ると、あの山が見えるではないですか。
多分この辺かな。
川中島の合戦で重要な場所なんですね。
最近御無沙汰だったので、一年振りのお城めぐりは懐かしい。
しかし100名城スタンプ帳を忘れてきた(汗!)
まぁ、よくある事です。
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静岡県浜松市天竜区二俣町二俣 http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.85862417&lon=137.81211648&sc=5&mode=map&pointer=on 永禄11年(1568)12月から天正3年(1575)12月までの7年間、二俣城は徳川・武田両氏の攻防の舞台となった。二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、しかも二俣は遠州の平野部と北遠の山間地方とを結ぶ交通の結接点で、遠州平野の「扇の要」であったからである。 元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、信濃を経て遠州に侵入し二俣城を攻撃した。武田軍は力攻めの方法をとらず、城の水の手を絶つ作戦を選んだ。徳川軍の城兵が崖に櫓を立て、釣瓶(つるべ)で天竜川から水をくみ上げているのを知り、上流から筏(いかだ)を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。 こうして2か月ほどで二俣城は陥落した。 天正3年(1575)5月、長篠の戦いで勝利を得た徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂・蜷原・渡ヶ島に砦を築き二俣城を包囲した。武田軍は7か月で兵糧が底をつき城を明け渡した。そして二俣城には大久保忠世が入城し、徳川氏が関八州へ移封する天正18年(1590)まで在城した。 この間大規模な修築がなされ、天守台を始めとする諸設備を構築したと考えられる。 【現地案内板】 天竜川遊具を通り過ぎると視界が開けて天竜川が見えます。このまま進んでいくと鳥羽山公園へ行くことが出来ますが、戻って帰ることにしました。 実は鳥羽山公園は城跡だったのです。後で気がつく・・・・残念! 二俣には現在、城跡が三ヶ所あり、この城山のすぐ南に『鳥羽山城』、現在市庁舎が建つ『笹岡城』 そして『二俣城』、これらの城はわずか2km程の距離にあり当時この一体は『二俣郷』と呼ばれていた。 駐車場からすぐに本丸へ行くことが出来るので楽で、駐車場は10〜12台停められるほどでした。 下から歩いてくる人も見かけましたが、日曜日の割に空いています。 城内に神社が2ヶ所あって神社の境内といった感じでした。 この城で有名な徳川信康自刃事件は 家康の嫡子、信康とその母、築山御前が武田氏と通じていたことを理由に、織田信長が信康を 切腹させるよう家康に命じたとされ、家康はこれを受けて信康を天正7年(1579)9月15日 二俣城で切腹させたのです。(享年21歳) 近くに徳川信康の墓がある清瀧寺(せいりゅうじ)があります。 二俣城の水の手櫓が復元されていますので帰りに立ち寄ってみましょう。
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静岡県掛川市西大渕 http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.68205777&lon=137.97426422&sc=7&mode=map&pointer=on 横須賀城は今からおよそ四百年前(1578年)天正年間に徳川家康の命によって、その武将大須賀康高が築城して、初代の城主になった城です。 当時は徳川・武田の両軍が高天神城をめぐって激しい攻防戦を繰り返していた戦国騒乱のさなかで、武田方の高天神城に対抗し武田方の西方進出を押さえるために、いわゆる兵街道の要塞の地であるここを選び築城したもので、構築の特徴は土塁と石塁がある平山城です。 その後徳川の天下になり江戸幕府が開かれてからも三百年近く存続し、城主も二十代を経て明治維新に際し廃城の運命となりました。 その間城下町横須賀は百十五村の藩政の中心となって栄えました。 明治六年建物などは取り除かれましたが、城跡は大体原型をとどめていて学問上貴重な文化財です。 (別称 松尾城) 【現地案内板】 天守台礎石分かりやすく復元されていて、礎石を見ると天守の大きさが想像できます。天守は建坪40坪で4層の建物と記録されていて、礎石は2メートル間隔で27個あるそうです。 ここからは沢山の瓦やシャチ瓦が出土しています。 玉石の石垣は珍しく今回初めて見ましたが、無理をすれば子供でも登ることが出来そうで 当時からこの様な石垣だったのか疑問か残りました。 石垣は最近作られた様に新しく、公園に来た感じがします。 城の南には海の入り江が入り込んでいた面影は無く、城から海を見ることは出来ませんでした。 資料館は無いですが要所に発掘の様子や復元のしかたが写真で表示してあるので 分かりやすく良く整備され,夏でも蚊の心配が無いので安心して見学が出来ました。 城の西側には公園・ゲートボール場・駐車場があり水道もあります。
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