白銀の花道

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妻女山(さいじょさん)
 
訪問日2011年9月19日
 
長野県長野市松代町
 
 
 
1561(永禄4)9月10日八幡原を中心とする川中島平の広い範囲で武田・上杉両軍による4回目の戦が行われた。
上杉軍は8月16日に13000の本隊を率いて海津城を眼下に見ながらここ妻女山に着陣した。
一方、海津城を守る高坂弾正からの援軍要請をうけた武田軍は20000の兵を率いて8月29日に海津城に入った。
武田軍は山本勘助の進言により兵を二手に分け、主力である12000の兵を夜間妻女山へ向かわせ、残り8000の信玄の本隊が八幡原でこれを迎え撃つ作戦をとった。いわゆる「きつつき戦法」と呼ばれるものである。これを察した上杉軍は夜間に山を降り、八幡原に出て夜明けを待った。この夜は霧が深く、夜明けとともに霧が晴れた瞬間、両軍がすぐ間近に遭遇することになった。上杉軍の予期せぬ「車かかりの戦法」に劣勢となった武田軍は苦戦し、信玄の弟信繁、諸角豊後守、山本勘助らが戦死した。その後、妻女山からの別働隊の参戦によって形勢は逆転し、上杉方も多くの戦死者を出して退却した。   (現地案内板より)
 
川中島の合戦で上杉軍が布陣した妻女山どんな所なんでしょう?
 
武田信玄を海津城から誘き出すために愚策ともいえる布陣は神がかり的な上杉謙信の成せる業なのか?
 
 
 
妻女山は大駐車場完備で松代妻女山招魂社という神社が建ってます。
この神社は戊辰戦争の際、松代真田藩の藩士として従軍し、戦死された御霊を祀っています。瓦には真田の六文銭の印が付いてました。
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北側に大きな展望台が建っている
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ココを登れば謙信が観たであろう風景が・・・
海津城から上る炊き出しの煙・・・・
そんなのを想像して展望台から海津城(松代)方面を見たら・・・
 
 
木で見えないぞ!
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正面は木も無く視界がいいのですが、肝心な方向が何故・・・
 
せっかくの展望台がもったいない。
 
 
 
更に、今回の妻女山訪問中に誰とも会う事も無く、貸切で散策してました。
周辺の観光場は賑やかなのにもったいないことです。
 
 
 
帰りに気になる石碑があったので寄ってみた。
 
 
 
 
上杉謙信槍尻の泉(うえすぎけんしんやりじりのいずみ)
 
ある日のこと帰途についた謙信は、あまりに喉が渇いたので、馬から降り家来の直江山城守に、「槍を貸せ!」と命じ槍の石突きで地面を強く突いたところ、そこから勢いよく水が湧き出た。(現地案内板より抜粋)
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上画像の左側に今でも湧き出ておりました。謙信が神ならお酒が出たのかな?
 
飲料に適さないと書いてあるのに、何故かコップが・・・
神が降臨するか?腹が下るか?自己責任でお願いします。
 
 
 
 
 
訪問して思うことは、上杉軍1万3千人が布陣するには中途半端な位置で狭いですね。
実は更に上った斎場山が本陣だったと言う話もあります。
時代の流れで、本来は斎場山(さいじょうさん)→妻女山(さいじょさん)に変わってしまったようです。
 
妻女山大駐車場(笑)から軽トラックで入れる道を進むと斎場山へ行ける様なんですが、最近は怖くて山中に入ることが出来ません。
 
 
 
訪問者が少ないのは残念ですが、展望台で上杉謙信気分を味わってみましょう。

松代城(海津城)

松代城(海津城)
 
訪問日 2011年9月11日
 
 
地図
 
松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との『川中島の合戦』の際に、武田方の前進基地として築かれた海津城がその始まりといわれている。永禄3(1560) 年頃に普請が完了したものと伝えられています。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃、二の丸・三の丸を整備し、土塁を石垣に築きなおしたものと考えられています。元我(1622)年に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城までの250年間、松代藩真田家10万石の居城となった。
 
                             (現地案内板)
 
 
松代城は20年振りの再訪問で当時は空き地に本丸の石垣が残っているだけで、本丸内で子供が遊んでいた記憶が残っている。
 
数年前に復元工事が行われて真新しくなった城へやって来た。
 
 
復元されたのは本丸と二の丸周辺で立派な太鼓門が目を引く。
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昔の記憶では小さな本丸と思っていたが意外にも広く感じた。
奥へ進むと大きな石碑が建っていて『海津城』と書いてあり、後に北不明門が写っている。
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北不明門を本丸外から見ると
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そして土塁に開いた謎のトンネル?
何の用途に使ったのか分からないが滋賀県の観音寺城にも石垣にトンネルが造られていたぞ・・・
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そして櫓門跡から城外を見ると、あの山が見えるではないですか。
多分この辺かな。
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川中島の合戦で重要な場所なんですね。
 
 
 
 
 
最近御無沙汰だったので、一年振りのお城めぐりは懐かしい。
しかし100名城スタンプ帳を忘れてきた(汗!)
 
まぁ、よくある事です。

二俣城 (静岡県)

二俣城(ふたまたじょう)

訪問日2008年7月27日


 永禄11年(1568)12月から天正3年(1575)12月までの7年間、二俣城は徳川・武田両氏の攻防の舞台となった。二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、しかも二俣は遠州の平野部と北遠の山間地方とを結ぶ交通の結接点で、遠州平野の「扇の要」であったからである。
 元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、信濃を経て遠州に侵入し二俣城を攻撃した。武田軍は力攻めの方法をとらず、城の水の手を絶つ作戦を選んだ。徳川軍の城兵が崖に櫓を立て、釣瓶(つるべ)で天竜川から水をくみ上げているのを知り、上流から筏(いかだ)を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。
こうして2か月ほどで二俣城は陥落した。
 天正3年(1575)5月、長篠の戦いで勝利を得た徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂・蜷原・渡ヶ島に砦を築き二俣城を包囲した。武田軍は7か月で兵糧が底をつき城を明け渡した。そして二俣城には大久保忠世が入城し、徳川氏が関八州へ移封する天正18年(1590)まで在城した。
 この間大規模な修築がなされ、天守台を始めとする諸設備を構築したと考えられる。
                              【現地案内板】

現地案内図

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搦手

駐車場から城の入り口で、ここを進むとセンサーが感知して城案内の音声が響き渡ります。
石碑裏に隠れるように写っているのは公衆トイレです。
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喰違い虎口

進んでいくと北曲輪(現・神社)と馬出しを通って本丸へ行きます。
奥に見えるのが天守台です。
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天守台

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天守台上

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ニノ曲輪虎口追手

今はニノ曲輪内にある神社の参道になっています。
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西曲輪

すぐ近くに『水の手』があるところで、遊具が数種類置いてありますが見てのとおり草だらけで遊ぶことは出来ない状態、それに『マムシに注意』・・・・蚊も沢山飛んでました。
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天竜川

遊具を通り過ぎると視界が開けて天竜川が見えます。
このまま進んでいくと鳥羽山公園へ行くことが出来ますが、戻って帰ることにしました。
実は鳥羽山公園は城跡だったのです。後で気がつく・・・・残念!
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堀切

帰りの途中でヤブの中に堀切を発見!しかし何処か記憶がハッキリしません。
遊具のあった近くだったような??
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二俣には現在、城跡が三ヶ所あり、この城山のすぐ南に『鳥羽山城』、現在市庁舎が建つ『笹岡城』

そして『二俣城』、これらの城はわずか2km程の距離にあり当時この一体は『二俣郷』と呼ばれていた。





駐車場からすぐに本丸へ行くことが出来るので楽で、駐車場は10〜12台停められるほどでした。

下から歩いてくる人も見かけましたが、日曜日の割に空いています。

城内に神社が2ヶ所あって神社の境内といった感じでした。



この城で有名な徳川信康自刃事件は

家康の嫡子、信康とその母、築山御前が武田氏と通じていたことを理由に、織田信長が信康を

切腹させるよう家康に命じたとされ、家康はこれを受けて信康を天正7年(1579)9月15日

二俣城で切腹させたのです。(享年21歳)


近くに徳川信康の墓がある清瀧寺(せいりゅうじ)があります。

二俣城の水の手櫓が復元されていますので帰りに立ち寄ってみましょう。

横須賀城 (静岡県)

横須賀城

訪問日2008年7月27日

静岡県掛川市西大渕
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.68205777&lon=137.97426422&sc=7&mode=map&pointer=on
横須賀城は今からおよそ四百年前(1578年)天正年間に徳川家康の命によって、その武将大須賀康高が築城して、初代の城主になった城です。
当時は徳川・武田の両軍が高天神城をめぐって激しい攻防戦を繰り返していた戦国騒乱のさなかで、武田方の高天神城に対抗し武田方の西方進出を押さえるために、いわゆる兵街道の要塞の地であるここを選び築城したもので、構築の特徴は土塁と石塁がある平山城です。
その後徳川の天下になり江戸幕府が開かれてからも三百年近く存続し、城主も二十代を経て明治維新に際し廃城の運命となりました。
その間城下町横須賀は百十五村の藩政の中心となって栄えました。
明治六年建物などは取り除かれましたが、城跡は大体原型をとどめていて学問上貴重な文化財です。
(別称 松尾城)                    【現地案内板】

本丸に建つ石碑

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天守台跡

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天守台礎石

分かりやすく復元されていて、礎石を見ると天守の大きさが想像できます。
天守は建坪40坪で4層の建物と記録されていて、礎石は2メートル間隔で27個あるそうです。
ここからは沢山の瓦やシャチ瓦が出土しています。
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案内板

城内の至る所に発掘調査時の資料やその時の現状写真が表示されていて分かりやすくなってます。
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城模型

良く出来た模型で立体的に作られているので、雰囲気がつかみやすいです。
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本丸周辺の石垣

今回、初めて見た玉石垣の印象は、少し前の護岸工事(河川)のようで城には見えません。
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石垣パート2

石垣の内部が分かりやすいと思います。
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三日月池

本丸南側の人家の脇に池がありました。
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本丸北側(裏)

北の丸から本丸を見たところで、天守台の裏側になります。
裏には石垣が無いのです。
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玉石の石垣は珍しく今回初めて見ましたが、無理をすれば子供でも登ることが出来そうで

当時からこの様な石垣だったのか疑問か残りました。

石垣は最近作られた様に新しく、公園に来た感じがします。

城の南には海の入り江が入り込んでいた面影は無く、城から海を見ることは出来ませんでした。


資料館は無いですが要所に発掘の様子や復元のしかたが写真で表示してあるので

分かりやすく良く整備され,夏でも蚊の心配が無いので安心して見学が出来ました。



城の西側には公園・ゲートボール場・駐車場があり水道もあります。

高天神城 (後編)


前回記事の続きです。


現地案内板地図

イメージ 1





かな井戸

本丸と西曲輪の中央には井戸曲輪があり中央にまさしく井戸の穴が開いてます。
周りに高い山が無いので水が出るのか不思議に思います。
相当深いのでしょうか?
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井戸の中

不思議に思うので石を落としてみました。
「いち・にい・さん、カッタン!」底に当たった音が響きます。
あまり深くないようですが昔から大勢の人が石を投げ入れていたら埋まってしまいますね。
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袖曲輪

井戸曲輪から二の丸へ行く途中
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二の丸

草だらけで良く分からない!!もう少し北に進むと遺構が沢山あります。
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堂の尾曲輪址

物見櫓が建っていた所
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戦死の址(墓)

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天正2年武田勝頼が城を攻撃すると二の丸主将本間八郎三郎氏清、部下300騎を率いて堂の尾曲輪の
物見櫓に上り城兵を指揮した。朝6時ごろ武田方穴山梅雪の部下西島七郎右ェ門が朝日に輝く氏清の武装を狙い鉄砲で撃った。首の近くを打たれて28歳で亡くなる。
弟の丸尾修理亮義清が兄に代わり櫓で指揮中、狙撃により腹部を撃たれ即死し26歳であった。
墓碑は後裔本間惣兵衛が天文2年(1737)に建てたものである。【現地案内板より】







堀切

大きく尾根が切り掘られていて圧巻!
朝日を浴びて眩しい、隣にもう1つあった記憶が・・・・・・
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隍切

上が堂尾曲輪と思います。南北の尾根に沿って掘られていて画像奥(北)側へ続いていました。
イメージ 9








西の丸登り口

いったん戻って井戸曲輪から西の丸を見た所で高低差があります。
こちらの方が本丸のような感じがするのですが・・・・・・
イメージ 10






高天神社

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西の丸 堀切

神社社務所の裏(南側)にあるのですが上から見たところです。
階段を下った所が堀の底で画像では判りずらいですね。
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馬場平

展望台となっていて視界が開けています。
陽を全身に浴びて良い気持ちで蚊も居ないので休憩を取りました。

ココが最後のところで普通なら来た道を戻って帰るのですが・・・・・・・
奥に『甚五郎抜け道』があるのですが、今回最大のお薦めが待っていたのです。
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展望台の風景

天気が好ければ御前崎まで見えるらしいのですが今日は見えません。
夏は湿度があるので視界が悪いです。
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甚五郎抜け道

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天正九年三月落城の時、二十三日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為
馬を馳せて、是より西方約一千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った。
この難所を別名『犬戻り猿戻り』とも言う。           【現地案内板より】
時代の時を越えて自らが体験できるアドベンチャーワールドとも言うべきか

尾根伝いに進む道は細く左右の斜面は急で落ちたら登って来るのは不可能、いやいや大怪我ですよ。

進むにつれて本当に帰ることが出来るのか、迷ったらどうしょうとハラハラ・ドキドキが堪らない快感。

途中二股に道が分かれていましたが右を進み何とか脱出できて一安心、クモの巣攻撃から身を守るため

カメラの三脚で巣を取り除いていたので綿飴(綿菓子)状態でした。




道中下り坂なので疲れることが少なく所々ベンチが置いてあるので休憩できますが、夏は蚊が居るので

秋が良いと思います。

高天神城へ行ったら必ず行って 歴史ロマン を感じてみましょう。  ※自己責任でお願いします。










溜池

抜け道を通り抜け視界が開けると綺麗な池が見れます。
この池は農業用に造られた新しいもので城の水堀ではないのでした。
近くに戦死者(板倉・岡部)の墓がありましたが、コンクリート製で大正十五年と記されていて
溜池を造るときに移動させたのでしょうか、本物の墓石はそのまま池の底?
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高天神城全景(北側)

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高天神城全景(南側)

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今回も画像を沢山載せてしまいました。

二の丸周辺には沢山の遺構が残っていて見所満載です。



今回、行って初めて分かったのが抜け道を通ることが出来ること嬉しかった。本当は途中分岐していた

左側を進んで行ったのではと思います。このまま下に行ったら徳川方に捕まってしまいますからね。



城としては大きい方ではないですが歴史と遺構の存在が歴史好きには堪らなく、このまま手を加えないで

残してもらいたいです。



甚五郎抜け道は本当にお薦めです。

この記事を見て下に降りられると知って行くと、多分、私が感じた感動は感じられないかと思います。

不安と達成感、その後の溜池の綺麗な風景・・・・・・幸せ!!



溜池から東へ歩くと北の大駐車場に出られます。城の北側を見ながら移動するので

地形が分かりやすかった。

鉄塔の見える所が馬場平で抜け道の入口、自分が歩いて来た行程が確認できて

さらに感動できると思います。

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