白銀の花道

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近畿の城

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竹田城 (たけだじょう)
 
兵庫県朝来市和田山町竹田
 
訪問日 2009年7月25日
 
 
 
 竹田城は、嘉吉年間(1441〜43)、但馬の守護大名、山名宗全が出石城の出城として播磨・丹波から但馬への侵略路に位置するこの地に、13か年を費やして築いたと伝えられています。当時は、土塁をもとに作られた城と考えられ、山名氏の武将、太田垣氏が5代にわたって城主となり治めます。しかし、天正5年(1577)、天正8年(1580)秀吉の2度の但馬征伐で竹田城は落城、山名氏とともに太田垣氏は没落します。
 その後、秀吉の弟、秀長の属将的な地位にあった桑山修理太夫重晴、続いて播磨龍野城主赤松政秀の子、赤松広秀が城主となります。広秀は朝来郡2万2000石を領有し、文禄年間から慶長の初期(1600年頃)に、現在のような豪壮な石垣積みの城郭を築きます。
 竹田城の石垣の積み方は、織田信長の安土城と同じ技術で、自然石の石の声を聞きながら積むと言われる、近江穴太衆(あのうしゅう)の手による穴太流石積み技法が用いられています。野面積みで、石材は現地のほか山麓付近から集めたものと考えられ、花崗岩で最大のものは5トンと推測されています。その石垣は、400年を経た現在でも、当時の偉容をそのままに誇っています。
 天守台を中央に、南千畳、北千畳、花屋敷が放射状に配され、その姿は、虎が臥せているようにも見えることから、別名「虎臥城」(とらふすじょう・こがじょう)とも呼ばれています。
 山の地形を巧みに活用し防御に対する配慮の綿密さなどから考えると、よほど堪能な人の手による構築といえます。縄張りの規模は南北400メートル、東西100メートル、完存する遺構としては、全国屈指のもので、国史跡に指定されています。
 竹田城の最後の城主、赤松広秀は、関ヶ原の役で西軍に属し敗北、その後、徳川方として鳥取城攻めに加わり戦功をあげますが、城下に火を放ったとの罪を押しつけられ自刃、竹田城は廃城となります
 
                            【朝来市観光協会HPより】
 
 
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竹田城は山頂に築かれた石垣がとても美しいので天空の城とも言われています。
 
特に、秋から冬にかけて早朝に霧に囲まれた幻想的な景色を見る事が出来るのですが、今回は夏なので少し残念ですが一度行ってみたい城なので期待が高まります。
 
 
 
運が良ければ隣の山からこんな景色が見えるのです。
イメージ 1
                                 画像はイメージ
 
 
 
 
 
 
そんな事を少し期待して、早朝に竹田城へ向かいます。
 
この山の頂上に石垣が築かれているのが見えます。
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駐車場が城跡近くにあるので山を登って行くと・・・・・
突然、スコールのような大雨! 前が見えないほど凄い。
 
駐車場に着くと雨が止んだので登城開始です。 (先客の車が2台)
 
 
登り始めると主格周辺に出ました。
 
 
 
二の丸から本丸方面
城自体が細長いので本丸を中心に南北へ細長く二の丸が築かれています。
一段高くなっている左側が天主台です。
北の二の丸から本丸を撮影。 この頃から雨が降り出しました。
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天主台から二の丸と下界を望む
天主台からは高い木が無いので下界が良く見えます。
ココに立つと天空の城を実感できますよ。
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大手門
大手門周辺は石垣で囲まれて城らしい雰囲気だったのですが・・・・・
遂に、強風を伴なった大雨で石垣と木の間へ避難
レンズに水滴が・・・・・
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雨風を避ける所が無いので困りました。
しばらくして雨が止むと城跡全体からガス(霧)が立ち上って
なんか、良い雰囲気になってきました。
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南千畳方面
この風景が竹田城最大の見所です。
下界をバックに石垣の調和が美しいですね。晴れてきたので良い画像が撮れました。  本丸より撮影
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北千畳と三の丸方面
上の画像と似てますが、よ〜く見ると違います。
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大手門跡から竹田駅へ続く道に竹田城築城前の旧城があるので向かおうとしたら
突然、雷と豪雨に遭遇!!
ピカピカ・ゴロゴロ〜〜ドカーン!凄い雷で地響きが・・・・・・
天空の城、隠れる所が無いのです。 死ぬかな?人生初めて思った。
 
横殴りの雨に傘を差していても意味も無く・・・・・・全身ずぶ濡れ。
傘が避雷針になったらどうするんじゃい!
 
 
来た道を戻るには本丸を通らないと帰れない。
コレは雷の中では自殺行為。
 
地図を確認すると今居る所からアスファルトの道で城を迂回して駐車場に戻れるらしい。
 
豪雨と雷の鳴る中、雷が直撃しない事を祈りつつ撤退しました。
 
その時の緊迫した画像はないの?と思っている方
緊急事態では、そんな余裕は無いのですね。
 
 
 
何とか駐車場に無事着いたのですが
全身ずぶ濡れで車内に入ることが出来ないのです。
大手門を再現した所で雨宿りして止むのを待ちます。
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少し小降りになってきましたが雨の様子が分かりますか?
2台あった車も私の車だけになっていた。
 
雨が止むのを待って濡れた服を着替えます。
 
 
この後、竹田駅へ『100名城スタンプ』を押しに・・・・
 
駅には資料館があって竹田城の再現模型が置いてありました。
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こう見ると、凄い城だったのだなと思えます。
 
駅長さんは気さくな人で少し長話して楽しかった。
 
 
最後に竹田駅と竹田城のツーショット
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頂上に石垣が見えるんですが・・・・
 
 
一生、忘れる事のない城訪問になりました。
 
夏は天気が急変するので危険です。
 
 
 
この後も・・・いろいろありました。
 
では、お楽しみに。
赤穂城 (あこうじょう)
 
兵庫県赤穂市上仮屋
 
訪問日 2009年7月24日
古くは仮屋城(かりや)と呼ばれていた。戦国時代に宇喜多秀家が着工した城である。
後に、姫路城池田輝政の持城となり、その子輝輿が城主となった。
しかし、輝輿が病んで改易、1645年に浅野長直が移封されてきた。
浅野長直は、10数年をついやして旧城を改造、1661年に完成させる。
浅野氏は長矩の代に断絶。以後、城主は永井氏が1代、森氏が12代続いて明治維新となった。
                                               
 
 
 
大手門
修復中らしく門内は工事中な所が多かった。
近くの土産屋さんの『赤穂塩饅頭』が美味しかった。
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本丸門
真新しい門と石垣で、いかにも修復が終わった・・・そんな感じです。
ココの門内に『100名城のスタンプ』が置いてあったのですが
水で薄めたようなインクでスタンプ帳の裏までインクが滲んでしまった。
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本丸
本丸内には明治時代から昭和まで洋館の学校が建っていたそうですが今は無く
元々建っていた本丸御殿の間取りがコンクリートで再現されてます。
中央に写る人と比較すると大きさが分かります。
天守台から撮影
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天守台
以外にも大きな天守台ですが幕府への配慮から天守閣が建つことは無かったそうです。
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厩口門
ココも本丸へつながる門で掘り内には水草が生えて芝生のようです。
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大石神社
城内の大石内蔵助邸跡地には赤穂浪士を祀る神社が建ってます。
参道には赤穂浪士四十七士の石像が並ぶ。
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境内には赤穂浪士資料館があったんですが入らなかった。
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大石邸長屋門
元禄時代から保存されてきた貴重な建物です。
かつては、浅野家筆頭家老大石内蔵助と主税の親子が朝夕出入りし、元禄十四年三月の主君が切腹した江戸の悲報を伝える早打ちがたたいた門です。
「大石様、殿が・・・・・・」
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赤穂浪士(忠臣蔵)で有名な城で100名城にも指定されていますが、明治時代に入り城が破壊されてしまったようで再建修復工事が至る所で行われていました。
 
ココへ来る前に寄った姫路城に比べ見学者の少なさに驚きました。
国宝と比べたら可哀想ですね。
 
 
 

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前回の姫路城訪問記の続きです。


今回記事にするのに2回データーが飛んでしまったので

書き直す気力がなくなりました。


すみません。。



なので・・・・・

画像だけ掲載しますので見てやってくださいね。

姫路城 (ひめじじょう)


訪問日2009年7月24日

兵庫県姫路市本町

詳しい地図で見る

天正八年(1580)織田信長に中国平定を命じられた羽柴秀吉が、播磨守護赤松氏の支城だった姫山城を
三層の天守をもつ城に修築し、名を姫路城と改めた。
関が原合戦後は徳川家康の娘婿、池田輝政が入封。大阪城の豊臣秀頼を牽制するため、五層の天守を
擁する実践的な城に改修した。今日残る姫路城は、その時に完成された。


今回の兵庫県訪問の最大の目的が姫路城なのです。

来年の3月頃から天守の修理のため櫓で覆われる前に見ておきたかったのです。

今回は修学旅行以来の再訪問で2回目です。




さて

有料駐車場に車を停めて堀の横を歩きます。デカイです堀が・・・・・・
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大手門をくぐると
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世界遺産 姫路城天守閣が現る。カッコいいですね。
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菱の門を過ぎると
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池越しに天守閣が聳え立っていて記念写真を撮る人が多かった。(私もその一人)
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ココから左に曲がって西の丸へ行きます。(天守から見た西の丸風景)
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西の丸には御殿が建っていて(現在は無い)その周りを囲むように西の丸長屋が建っています。

この長屋は300mにもおよぶ建物で、百間廊下(ひゃっけんろうか)と呼ばれていて

千姫に従っていた侍女たちが住んでいた所です。
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そして千姫が暮らしていた化粧櫓内で当時の暮らしが再現されていました。
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更に天守へ向かっていくと・・・・・・
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本丸脇の建物内に井戸が2ヶ所あり、その1つが井戸郭櫓です。
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遂に本丸に到着!!
天守閣を近くで見ると、その大きさに圧倒されます。しかも美しい!
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別の角度からもう一度
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天守閣の矢狭間から鉄砲で敵を狙えぇぇ〜〜!!(笑)
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天守閣内部です。何階かは忘れました。
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そして天守(最上階)には数々の伝説が残る、お菊神社が祀られていました。(チョット怖いですね)
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そして天守からの風景は殿様気分!!
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天守閣を降りて本丸南下に「お皿が一枚〜二枚〜三枚・・・・」で有名な、お菊井戸です。
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これで見学コースは終わったのですが

世界遺産姫路城の立派な石垣にはこんな石が使われています。


姥が石
羽柴秀吉が姫路城を築くとき石集めに苦労していたところ、城下で餅を売っていた貧しいお婆さんが
その事を聞いて使っていた石臼を寄付したところ、秀吉は大変喜び石垣に使用したら、この評判が町中に
広がり国中から沢山の石が寄付されたそうです。
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墓石も所々見掛けかした。
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古墳の石棺が使われた石垣
矢印の所が刳り貫かれているのが分かりますか? 凹部で石棺です。
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そして、真新しい長方形の石が入った石垣は・・・秘密兵器大砲の発射口の扉????
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実はココには↓の古墳の石棺が入っていたそうです。
学術調査で石垣から外されて、同サイズの石で入れなおしたそうです。 (本丸・池田輝政屋敷跡下)
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明治初期の姫路城再現図
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明治7年に軍隊が置かれていた陸軍歩兵第十連隊碑
猫が昼寝していて平和を象徴していますね。近寄っても逃げず無視されました。
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姫路城築城に際して建築資材を北に10キロ離れた置塩城から運んだそうです。

搦め手側の『と』の門は置塩城の大手門を移築したそうです。





築城から400年ですが戦いの場になることも無く明治になって軍隊が置かれても天守閣が解体されることが無く、むしろ陸軍が修復を行い太平洋戦争では奇跡的に空襲から免れ現代に残る姿は貴重な世界遺産です。

しかしながら残念なことに白壁や板塀に落書きが目立っていることです。
この日も外国人観光客が沢山いて、日本人より多かったのに(目立っている)
日本の恥ですね。文化財の価値が分からない者は行かない(連れて行かない)のがよいです。




来年から3年間ぐらい修復工事が始まります。

工事用櫓の展望台から解体される天守閣を上から見ることが出来るそうなので

その頃また再訪問したいと思っています。




更に、姫路城訪問記パート2に続く予定

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置塩城 (兵庫県)

置塩城 (おきしおじょう)


訪問日2009年7月24日

兵庫県姫路市夢前町宮置

詳しい地図で見る

室町時代に播磨守護職であった赤松氏の居城。標高370mの城山の山頂部に位置する播磨最大規模の山城跡である。遺構は東側の最高所にあたる伝本丸跡と、そこから鞍部を隔てた西側の伝二の丸跡を中心に広がり、曲輪・通路・石垣・土塁などが残っている。
一般的に置塩城は文明元年(1469)に赤松政則が築城したと伝わるが、この城が居城化し大規模に改修されたのは16世紀葉以降で、赤松政村(晴政)・義祐・則房が城主であった時期に相当する。
天正8年(1580)羽柴秀吉による城破令が出され廃城となった。    【現地案内板より抜粋】




手強そうな山城との情報を入手したので早朝の涼しい時間帯を狙って登城です。

とは言うものの、実は・・・・ある城の開城時間待ちも兼ねていたのであった。



姫路市街から北へ約10kmの所にある山城で現在の姫路城が築城される前の拠点だったそうです。
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現地案内図
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登城口には15台程停められる駐車場があり、こんな石碑が・・・・歴史的に凄そうな予感!
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さて、登城開始!!
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登山道は登っていくと一丁・二丁・・・・・十八丁と距離が表示してあり親切ですが

なかなか山頂に着かないので辛い!!

夜に雨が降ったらしく岩に生えたコケが滑ります。(スキー場では滑るの得意なのですが・・・・)
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登り始めて40分、やっと十八丁に着きました。

早速の石垣が登場!
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この周辺は南曲輪群で石垣が残っていて下に曲輪が続いていました。
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その上が茶室跡で石垣が残っていました。
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その先に案内板があり道が三方に分かれます。
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直進して二の丸北曲輪群(左)と二の丸(右)の間の堀切
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二の丸跡は大きく立地的に城の中央部なので本丸ではないかと思うぐらいです。
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二の丸北曲輪群
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三の丸跡
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本丸は少し離れた所にあって、詰所的存在なのでしょうか?

下部には大きな石垣があります。
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この横を更に進むと・・・・
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本丸跡に到着です。
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特にこの場所には発掘調査後のブルーシートや砂袋が無惨な姿で放置されていて残念!

しかし、ココからの眺めは格別で姫路城が見えるとの事ですが、今日は天気が悪いので見えません。
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大手門跡方面へ向かう途中に大石垣があり、この城では一番立派な石垣でした。
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更に進もうとしましたが道が分かりづらく断念!引き返すことにします。




帰りに油断していたのか?それとも体力の衰えか?

滑って転倒、もう少しで斜面を落ちるところでした。 汗・汗!!



それなりの覚悟を持って挑まないといけませんが、期待を裏切らない魅力がありました。




この城は姫路城築城の際に石垣・建築資材を持ち去ったので

当時の姿は立派な石垣を備えた城だったのでしょう。



姫路城の『と』門は置塩城の大手門が移築されたそうです。
姫路城『と』門の画像

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