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16世紀前半には、真宗寺内町(じないまち)として発展してきましたが、 それには、東には上池・下池があり、北から西にかけては、大堀川が流れ、外堀の役目をはたし、 町は高台となっており、防御がしやすい地形であったからでした。 江戸時代には有馬街道や、西国街道に合流して、京・伏見に至る、京・伏見街道、と小浜から西宮に至る 西宮街道などが出会う交通の要衝の宿場町として繁栄してきました。 毫攝寺は大和24ヶ寺、丹波・丹後10ヶ寺の末寺を持つ大寺院でありましたが、現在も、毫攝寺の外壁には 高い位を示す5本のラインが入っています。 毫攝寺は「乘専」の開いた寺で、 乘専は、南北朝の初期、丹波国六人部の城主・高橋刑部大輔の次男として生まれ、出家して禅や法華の修 業に励みました。 そして、 本願寺第3代覚如上人に帰依し、京都出雲路(現・福知山市)にある天台宗寺院「俊春庵」を改 宗して覚如の別号「毫攝」を載いて寺号としました。 応仁の乱で京都の町が焼けた時、加茂川畔にあった毫攝寺も焼失。善入の末裔の善秀は兄の高橋氏の旧領 地である、現在の小濱に毫攝寺を移設しました。 徳川時代には、御門跡の兼帯所として十六菊花の紋章を許されて十万石の格式を誇っていて、当時の格式 が土塀に5本の線が入っていることで、今もって表わされております。 明治に入り浄土真宗本願寺派に属することとなったそうです。 == 哀 話・亀 姫 の 伝 説 == 豊臣秀次が北政所を伴って有馬に入湯の際、途中この寺で宿泊し、美貌の寺娘(亀姫)を見染め無理やり 京都の舘へ連れ帰ってしまいました。 この寺娘を「小濱の局(つぼね)」と云われました。 ところが、淀君に秀頼が産まれると「豊臣家お家騒動」により、秀次切腹・30人もあったという秀次の妻 妄達を三条河原で殺害(小濱の局殺害)という惨劇がありました。 享年16歳でした。 一方、小浜の局の生家であるこの毫摂寺も全堂に火が放たれ、寺領までも没収されました。 写真 ー 1・2・3 は6月13日撮影。 写真 ー 4・5 は4月3日、小浜まつりの撮影。
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さすが御坊ですね。すごく立派です。塀の金網が気になります。落書きをされるのでしょうか。いい塀ですのにね。もったいないです。
2008/6/21(土) 午後 7:06
街道と同じように歴史も交差したのですね。この崩れそうな土塀はそれを見守ってきたのでしょうね。。。それにしても、妻妾が30人もいたとは!そういう時代だったのでしょうか。亀姫をはじめ、多くの悲話があったのでしょうね。傑作です。
2008/6/21(土) 午後 11:26
先日の旅行の帰路京都東寺の5本線で位が高くないとつけられないことを知りました。毫攝寺にそれが見えますね。宝塚の誇りですね。
2008/6/22(日) 午後 10:00
そんな、悲しい歴史があるのですね。合掌です。
2008/6/22(日) 午後 10:20
お寺なのに十万石ですか!スゴイですね〜
お城でも5万石しかない所もありますよね〜〜
お家騒動には悲話が付き物ですね。女性としては特に胸が痛みます。
ポチ♪
2008/6/23(月) 午前 11:17
右近さん、自然の地理を上手く利用していたようですね。
土塀の網は、工事中ではありません。
網で保護されている理由を、住職にききましたら、
隣の小学校の子供が雨降りの帰りに、傘で土塀を突き疵をつけることがあったので、その防護のために網を張ったのだそうです。
網の内側の線が5本あります。
ポチありがとうございます。
2008/6/25(水) 午後 5:06
Kyonさん、この小浜の宿は、休日になると沢山の人が散策されています。俳句を作ってみえる方も多いようです。
2008/6/25(水) 午後 5:09
あ〜きさん、春の桜はきれいでした。この台地の下の川沿いに桜並木があり、花見には最高でした。
2008/6/25(水) 午後 5:11
あ〜きさん、すみません。ポチありがとうございます。
2008/6/25(水) 午後 5:12
けんさん、土塀の網は、隣の小学校の子供が雨降りの帰りに、傘で土塀を突き疵をつけることがあったので、その防護のために網を張ったのだそうです。
網の内側の線が5本あります。
2008/6/25(水) 午後 5:13
きょうこさん、土塀の網は、↑にも書きましたが、
隣の小学校の子供が雨降りの帰りに、傘で土塀を突き疵をつけることがあったので、その防護のために網を張ったのだそうです。
亀姫は、可哀想でした〜〜〜。
ポチありがとうございます。
2008/6/25(水) 午後 5:16
グッドライフさん、私も毫攝寺は読めずに最初は困りました。
2008/6/25(水) 午後 5:22
TOSSYさん、小浜にいいところがあるのですね。
玉瀬の満福寺 に行かれましたか。となりが、素盞鳴神社ですね。
2008/6/25(水) 午後 5:24
親父さん、御坊の風格は残っています。
網で保護されている理由を、住職にききましたら、
隣の小学校の子供が雨降りの帰りに、傘で土塀を突き疵をつけることがあったので、その防護のために網を張ったのだそうです。
網の内側の線が5本あります。
2008/6/25(水) 午後 5:25
nobikitさん、秀次はとんでもない人物だったようですね。
沢山の犠牲をだしてしまい、可哀想な出来事でした。
傑作ありがとうございます。
2008/6/25(水) 午後 5:29
ヒロ爺さん、京都の東寺も5本線がありましたか〜〜。
東・西本願寺にもあるそうですね・。
2008/6/25(水) 午後 5:31
トロさん、戦国時代には惨いことがまかり通ったのですね〜〜。
可哀想な出来事でした。
2008/6/25(水) 午後 5:33
Kanonkamonさん、このお寺が10万石は凄いことだったのですね。
家康の岡崎城が5万石でしたね〜〜。
ポチありがとうございます。
2008/6/25(水) 午後 5:36
TBありがとうございました。
格式の高い事が文章と、写真の五本の筋で分かります。
小学生は何も知らずに傘を突き刺して遊んでしまうのでしょうね。
地域の文化財の大切さを教えていかなければなりませんね。
2010/8/15(日) 午後 0:45
まんまさん、
このお寺の記事を書くまで5本線は知りませんでした。
色々と勉強をさせていただきますね。
ありがとうございます。
2010/8/15(日) 午後 1:44