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須磨の駅から少し西の所に、 一の谷 がある。 源平、一の谷の合戦場 である。ここから西に須磨浦公園が続き、その端に 敦盛塚 (あつもりつか)と呼ばれる 巨大な五輪塔 があります。

五輪塔は、花崗岩製で、その 高さ4m、 中世の五輪塔としては、 石清水八幡宮五輪塔 (京都、八幡市)に次ぐ 全国第2位の規模 だそうです。

平敦盛 は、清盛の弟、経盛(つねもり)の末子で、合戦当時16歳、笛の名手として知られていたが、この一の谷合戦で、源氏側の武将、 熊谷次郎直実 (くまがいじろうなおざね)によって討たれました。

     ?H1>伝 説、 須 磨 の 敦 盛

さて、 一の谷の合戦で義経の奇襲 によって、 総崩れになった平家の武士 たちは、船に乗って 四国方面へと落ち のびていった。

船に乗り遅れたらしい 一人の若武者 が、沖の船をめざして、須磨浦の波打ちぎわを馬で走っていた。
それは、清盛の弟、経盛(つねもり)の子でこの時16歳になる、 平敦盛(たいらのあつもり) であった。

彼の姿を認めたのは、 熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね) であった。

「敵に、うしろを見せるとは卑怯なり。返せ、返せ」


その呼び声に引き返してきた 敦盛 を、砂浜で組み敷いた 直実(なおざね) は、首を打とうと敦盛のかぶとをぬがせてみて驚いた。

まだどこかに幼さの残ったその 若武者の顔 を見ていて、ふと同じくらいの年の、自分の息子、 小次郎 のことが、胸の中をよぎったのだ。

そこで、直実は、

「御身一人ぐらいをお助けしたとて、この戦の大勢にさしたることもござるまい。お命お助け申そう。早く船に追いつき、逃れられよ」


と言った。しかし敦盛は、それを聞き入れようとはせず、

「私も武士のはしくれ、さっさと首をはねよ」


と引きさがらなかった。

そのうち、背後の松林に源氏の武士たちが、大勢近づいてくる。

「今はこれまで、それではごめん」


と、仕方なく直実は、敦盛の首をはねたのである。

戦いの後、直実は須磨寺あたりで休んでいた 義経 のところに、 敦盛の首 を持参して、 首実験 を行った。

須磨寺本堂のすぐ西に、この時の 「義経腰掛の松」 の切り杭と、その前に 敦盛首洗いの池 と言う泉が残っている。

検分された敦盛の首は、境内西方に埋められた。そこに今、 敦盛卿首塚 と呼ぶ五輪の石塔が立っています。
                 
                      (神戸の伝説、田辺眞人著 神戸新聞総合出版)より。          

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