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当神社は、明石市、東部、岬町の漁港から150mほど入った住宅地の中に鎮座されております。 当社の由緒書きには、次のように記されております。 当社は、延喜式神名帳には、明石郡岩屋の土産神、伊知都比売神社で、崇神天皇御代六年 (BC92年)九月十日に勧請された式内社だそうです。 49代、光仁天皇の御代、宝亀二年(771年)に境内地4町(432m)四方が赦免地となった。 その後、別所氏が三木城主の時、崇敬厚く社領50石を寄進して、祭典、営繕に当たったと云われて おります。 その後天正年間(1573〜1592)に減地となりましたが、東の境界地に小祠を建て御旅所と し(元の祇園さん)、西境界地にも小祠「賀(よろこび)神社」を建て、旧境内東西の境界の遺跡 とされました。 この頃の境内地域は、東西に連なる松林で「さなぎの森」と呼ばれていました。 嘉吉年間(1441〜1444)赤松氏の和阪の戦、天文年間(1532〜1555)の町野入道の 放火、羽柴氏の三木城攻め等の兵火に罹り、社殿、旧記をことごとく焼失したと伝えられています。 明治十二年(1879)七月二十日に県社に列せられました。 昭和二十年六月太平洋戦争の戦災にて、社殿、社務所一切の建物を焼失し、昭和三十七年に社殿等 再建されました。 境内の手水舎の隣に古い手水鉢がありますが、表に「牛頭天王社」と刻銘されております。 これは、当社の御祭神が、「伊弉冊大神」と、相殿神「素左之男大神」となっていますが、以前は 境内摂社として社殿が別にあったと思われます。 また、この手水鉢には大きな盃状穴が穿がかれています。 境内石灯籠にも、数個の盃状穴が見られます。 ご参考 :明石市岬町19−8 山陽電鉄 明石駅 南西1km 13分
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