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宝塚市、小浜御坊(こはまごぼう)、毫攝寺(ごうしょうじ)です。



小 浜 の 宿


この小浜(こはま)の地は、小浜皇太神社(http://blogs.yahoo.co.jp/dekunobou36/42981252.html)で
ご紹介しましたが、

16世紀前半には、真宗寺内町(じないまち)として発展してきましたが、

それには、東には上池・下池があり、北から西にかけては、大堀川が流れ、外堀の役目をはたし、

町は高台となっており、防御がしやすい地形であったからでした。


江戸時代には有馬街道や、西国街道に合流して、京・伏見に至る、京・伏見街道、と小浜から西宮に至る

西宮街道などが出会う交通の要衝の宿場町として繁栄してきました。


毫  攝   寺 (ごうしょうじ)


毫攝寺は大和24ヶ寺、丹波・丹後10ヶ寺の末寺を持つ大寺院でありましたが、現在も、毫攝寺の外壁には

高い位を示す5本のラインが入っています。

毫攝寺は「乘専」の開いた寺で、

乘専は、南北朝の初期、丹波国六人部の城主・高橋刑部大輔の次男として生まれ、出家して禅や法華の修

業に励みました。

そして、 本願寺第3代覚如上人に帰依し、京都出雲路(現・福知山市)にある天台宗寺院「俊春庵」を改

宗して覚如の別号「毫攝」を載いて寺号としました。


応仁の乱で京都の町が焼けた時、加茂川畔にあった毫攝寺も焼失。善入の末裔の善秀は兄の高橋氏の旧領

地である、現在の小濱に毫攝寺を移設しました。

徳川時代には、御門跡の兼帯所として十六菊花の紋章を許されて十万石の格式を誇っていて、当時の格式

が土塀に5本の線が入っていることで、今もって表わされております。

明治に入り浄土真宗本願寺派に属することとなったそうです。


== 哀 話・亀 姫 の 伝 説 ==  


豊臣秀次が北政所を伴って有馬に入湯の際、途中この寺で宿泊し、美貌の寺娘(亀姫)を見染め無理やり

京都の舘へ連れ帰ってしまいました。

この寺娘を「小濱の局(つぼね)」と云われました。

ところが、淀君に秀頼が産まれると「豊臣家お家騒動」により、秀次切腹・30人もあったという秀次の妻

妄達を三条河原で殺害(小濱の局殺害)という惨劇がありました。

享年16歳でした。

一方、小浜の局の生家であるこの毫摂寺も全堂に火が放たれ、寺領までも没収されました。


このお話は、この次に、詳しくご紹介します。



写真 ー 1・2・3 は6月13日撮影。

写真 ー 4・5 は4月3日、小浜まつりの撮影。

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