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当神社は、尼崎市の武庫平野の東部、藻川と庄下川に挟まれた小田地区の 久々知(くくち)に、鎮座されております。 久々知の地名の由来は、 摂津の国、皇別(こうべつ)大彦命(おおびこのみこと)の末裔の 久々智(くくち)氏が杣山(そまやま)を管理するためにこの地に 居住していたため、地名となったと言われています。 杣山(そまやま)とは、木材用に植林された山のことで、猪名川や武庫川で 運び出された木材が、この地で集積、加工が行われていたそうです。 昔、京都の石清水八幡宮用の建材も猪名川上流の杣山から、 この地に集められたのではないかと考えられています。 須 佐 男 命 (すさのお の みこと) 当社の創建は、鎌倉時代、天徳元年(957)源満仲が 勧請した、久々知宮と伝えられております。 元享三年(1323)赤松則村六波羅軍勢と当国の瀬川に 対陣するや、社傍に陣を構えて戦勝を祈りしも、戦後は境内が 荒廃してしまいました。 正徳四年(1714)社傍の廣済寺を再興され、 国常立尊(くにのとこたちのみこと)は北辰妙見宮の 垂迹として当社を「北辰堂」と称していました。 明治初年に称呼を現在社名に改められました。 隣接して廣済寺があります。 廣済寺境内には、近松門左衛門のお墓があります。 本殿、幣殿、拝殿は、元和二年(1616)に再建されましたが、 昭和六十年に大修復がされました。 ご本殿です。 本殿の覆屋 手水舎 社頭の狛犬、吽像 狛犬、阿像 源満仲が多田に向かって矢を射るのに 足をかけた「矢文石」といわれています。 隣接する「廣済寺」 近松門左衛門のお墓があります。 「神 馬 図」 法橋周圭充の画。宝暦年間(1751~1763)の奉納。 馬が神の乗り物として、神事や祈願・感謝の行事に当たって 神霊の降臨を願うため、馬を献上した風習を根源として、 絵馬画題の主流となったそうである。 その図柄も多種多様で白馬は日乞いに、黒馬は雨乞いに 奉納するとか、また裸馬・飾り馬・繋馬・牽馬・猿駒曳き 駒迎え・調馬図などがあるそうです。 (尼崎の絵馬、教育委員会)より。 「鯉 図」 法眼月岡 雪鼎の画。明和年間(1764~1771)の奉納。 スサノオ命が賊に追い詰められたとき、鯉が川岸に集まり 橋となって無事にスサノオを逃したという説話があります。 ご参考 :尼崎市 久々知 1丁目 3−28 市バス 近松公園停留所 すぐ西
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