|
伊丹市には現在までの調査の結果で、7箇所の神社等で盃状穴が穿かれているのが見つかりました。 この他にもまだまだあるかも知れません。 この中で神社の石造物に穿かれているものは、すでに各神社のご紹介の際に写真を掲載いたしましたが、 その他、神社以外では、2箇所で盃状穴が見つかりました。 その一つが、伊丹市立博物館に展示されている「道標」と、 二つ目が、千僧2丁目の畑に保管されている、 石棺の石材と考えられる物に多くの盃状穴が穿かれたものがあります。 今回は、この二つの盃状穴をご紹介しますが、 その前に、「盃状穴とは」何かを簡単にご説明しましょう。 盃状穴(はいじょうけつ)とは、「盃(さかずき)の状態をした穴」という意味ですが、 「盃状穴」なる名称が生まれたのが、 昭和55年5月、山口市大内の神田山にある、神田山1号墳の石棺の蓋石に 人為的に穿かれた数多くの凹み穴が確認され、 国分直一博士(当時:梅光女学院大学教授)により命名されたのがわが国の最初とされています。 では、何故その様な凹み穴を作ったのでしょうか?。 先ほどの神田山古墳の石棺蓋は、死者の蘇生を願ったのではと考えられています。 それでは、神社仏閣で見られる盃状穴はどうしてでしょう?。 それらは主として、手水鉢、灯籠の台石、石段等に穿かれていますが、 年代はその奉納の刻銘から1700年代以降であり、 その穿った目的は、今もって謎が多く解明されておりませんが、 一般的には、子宝、安産、豊作、大漁、病気平癒、等々を願って 堅そうな握り易い石で、叩き擦り回して明けたのではないか、と推考されています。 それでは伊丹市の神社以外での2箇所の盃状穴を紹介しましょう。 伊丹市立博物館の所蔵品で現在展示されている道標(みちしるべ)の頂部に 盃状穴が穿かれています。 穴の内面は滑らかで、きれいな曲線でつながっております。 伊丹市立博物館所蔵品(写真撮影と当ブログ掲載の許可済。09.6.13) 09.06.23.伊丹市千僧2丁目付近の旧西国街道を走行中に、 畑の片隅に積まれた石に凸凹があるのに気付き、引き返して良く見たところ、 盃状穴であることを確認しました。 石材質は、凝灰岩の一種で高砂市産出の竜山石のようで、 他にもう一枚あり端部の割れが一致するように見える。 どうやら割れて2枚になったようである。 各々をスケッチしてCAD図を作成し、さらにこの2枚を結合させた想像図を作成したところ、 幅640mm、長さ1710mm、厚さ180mmの石板で、両端に18×60mmのインロー部がある ことが分かった。(2枚目と3枚目の図面画像をクリックで拡大してご覧下さい) これ等のことから、古墳時代後期の組立式石棺の側板であろうと考えられるそうです。 今後、これ以外にも盃状穴が発見される可能性はありますが、 若し見つかればその都度ご紹介をしていきます。 皆さんも、神社にお参りされたときには、石灯籠の台石とか 手水鉢、石段などに凹み穴が無いか、調べてみてください。 見つかれば、神社参りの楽しみが一つ増えたことになりますね。
|
盃状穴
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
|
この「神戸の盃状穴見学会」は当初5月27日に計画されていました。 折からの、新型インフルエンザの発症で、延期されていましたが、 一昨日17日と18日の二日間にわたって行われました。 街行く人々には、マスク姿も消え、元のお洒落なヤングの街にもどっています。 今、色々のところで、割引などがあり、お得な神戸の街巡りなどができます。 ぜひ〜〜ぜひ〜〜お越しください。 参加された方々は、四国の香川県、三重県の鳥羽、滋賀県の守山、 そして地元神戸の方々と各地から参加を戴きました。 神戸市には、約180箇所の石造物に盃状穴が穿かれたものが 残されています。 今回の見学会では、その中で代表的な所をご案内させて戴きました。 神戸市の最東端のお寺です。 古い手洗い鉢は、古墳時代の家形石棺の蓋と 思われる物が使われています。 その周囲に大小沢山の盃状穴があります。 一の谷合戦の跡地から少し西に「敦盛塚」と呼ばれる 大きな五輪塔があります。 平敦盛(たいらのあつもり)は16歳、笛の名手としても 知られていましたが、武運つたなく、この一の谷合戦で、 熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)に討たれました。 この若き武将の供養のために、大きな五輪塔が建立されたという 伝承から敦盛塚とよばれ、今も多くの方々の参詣がたえません。 この基壇に、多くの盃状穴が穿かれております。 この地は、平清盛が治承二年(1178)上陸した地でもあり古代の要津で あったとされ、外国人検問の役所(玄藩寮)の中に奉祭された神社が当神社の 創始で、足利尊氏が西国敗走の折、参詣し社前の浜から乗船したなどの謂れがあります。 年代不明の大きな手水鉢と、稲荷社前の手水鉢大きくてきれいな形の盃状穴が 穿かれています。 一個の盃状穴から、型取りをしてみました。 きれいな円錐状で表面も非常に滑らかです。 平清盛の遺骨を持ち帰った円実法眼が埋葬したお墓として 信じられて来た石造十三重塔ですが、道路工事に伴い少し移設したが、 その際に墳墓とは確認されなかったそうです。(県の文化財) この基壇に多数の盃状穴が穿かれています。 また、周囲が黒くなっている盃状穴があり、 灯明として使われた形跡がみられます。 第二次世界大戦で、神戸の街も度重なる空襲により1万人の 命が奪われました。 中でも、昭和20年3月17日のアメリカ軍B29爆撃機による 大空襲で雨嵐のごとく落下する焼夷弾で多くの人々が逃げ惑い焼死されました。 この大輪田橋からは、炎に巻かれ熱さから逃れるために多くの人が飛び込みました。 しかし、海水は熱水と化し、飛び込んだ全ての人が蒸し焼きになり、亡くなられました。 その数500人とも云われております。 今回の見学会で、もがき苦しんで亡くなられた方々の 霊安らかならんことをお祈りしつつ、この橋を渡りました。 神出町宝勢地区の上池堤防に地蔵堂があり、 大きな盃状穴が穿かれております。 神戸市の西端の「吉田郷土館」に保存されている家形石棺の棺身台 に沢山の盃状穴は穿かれています。 これは隣の「神本神社」の手水鉢に利用されていますた。 嶋姫神社の常夜燈、庚申塔、法華塔など、 下北古稲荷神社の手水鉢 宝勢地蔵堂の法華塔 宝勢大歳神社の古い手水鉢 蘇民神社の古い手水鉢 常纂寺の手水鉢 と次々と見学いたしました。 |
|
神本(こうもと)神社に長年使用されてきた、手水鉢は「家形石棺」だった事がわかり、昭和五十年の改築、境内整備の際に隣地の「吉田郷土館」に保存されることになった。 この地は、古墳、遺跡が数多くあり、出土した石棺を、手水鉢として利用されたようです。 石棺の大きさは、長さ189cm、幅88cm、高さ65cm。 屋根の形をした、「蓋」は無く、「身」だけですが、家形石棺と判断されたそうですが、上面には多くの盃状穴があり、過去の盃状穴の調査内容との適合性にそぐわないことが生じたため、少し調べています。
|
全1ページ
[1]





