神戸の史跡

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五色塚古墳・小壺古墳


JR垂水駅から西に700mほどの所に、明石海峡を眼下にした丘陵地に、県下最大の前方後円墳である 五色塚古墳 (ごしきつかこふん)があります。

四世紀から五世紀 にかけてつくられたといわれていますが、墓の主が誰であるかは不明です。
ただ瀬戸内海の海上交通の重要地点である明石海峡を望む高台につくられていることから、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力をもっていた 豪族の墓 ではないかと推察されています。

古墳の大きさは、全長194m、高さは前方部11.5m、後円部18mで、3段に築かれ周囲には空堀をめぐらしています。

斜面には、大・小の石で葺いてあり、石の総数は223万個、総重量は約2784tonと推定されています。

これらの葺き石は、淡路島の東側の海岸で産出するものであることが分析の結果解ったそうです。

各段の平坦面と頂上には、 ヒレ付円筒埴輪 が立て並べられており、4〜6本に1本の割合で、 ヒレ付朝顔形埴輪 がたてられていました。

これらの埴輪は10mに18本の割合で立てられており、全体で 2200本 ものあり、別名 千壺古墳 とも言われております。

この古墳の規模は、同じ時期のもので比べると、奈良県北部の大王墓(佐紀古墳群)と肩を並べる大きさでそうです。

(写真ー1は神戸市の絵葉書です)

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須磨の駅から少し西の所に、 一の谷 がある。 源平、一の谷の合戦場 である。ここから西に須磨浦公園が続き、その端に 敦盛塚 (あつもりつか)と呼ばれる 巨大な五輪塔 があります。

五輪塔は、花崗岩製で、その 高さ4m、 中世の五輪塔としては、 石清水八幡宮五輪塔 (京都、八幡市)に次ぐ 全国第2位の規模 だそうです。

平敦盛 は、清盛の弟、経盛(つねもり)の末子で、合戦当時16歳、笛の名手として知られていたが、この一の谷合戦で、源氏側の武将、 熊谷次郎直実 (くまがいじろうなおざね)によって討たれました。

     ?H1>伝 説、 須 磨 の 敦 盛

さて、 一の谷の合戦で義経の奇襲 によって、 総崩れになった平家の武士 たちは、船に乗って 四国方面へと落ち のびていった。

船に乗り遅れたらしい 一人の若武者 が、沖の船をめざして、須磨浦の波打ちぎわを馬で走っていた。
それは、清盛の弟、経盛(つねもり)の子でこの時16歳になる、 平敦盛(たいらのあつもり) であった。

彼の姿を認めたのは、 熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね) であった。

「敵に、うしろを見せるとは卑怯なり。返せ、返せ」


その呼び声に引き返してきた 敦盛 を、砂浜で組み敷いた 直実(なおざね) は、首を打とうと敦盛のかぶとをぬがせてみて驚いた。

まだどこかに幼さの残ったその 若武者の顔 を見ていて、ふと同じくらいの年の、自分の息子、 小次郎 のことが、胸の中をよぎったのだ。

そこで、直実は、

「御身一人ぐらいをお助けしたとて、この戦の大勢にさしたることもござるまい。お命お助け申そう。早く船に追いつき、逃れられよ」


と言った。しかし敦盛は、それを聞き入れようとはせず、

「私も武士のはしくれ、さっさと首をはねよ」


と引きさがらなかった。

そのうち、背後の松林に源氏の武士たちが、大勢近づいてくる。

「今はこれまで、それではごめん」


と、仕方なく直実は、敦盛の首をはねたのである。

戦いの後、直実は須磨寺あたりで休んでいた 義経 のところに、 敦盛の首 を持参して、 首実験 を行った。

須磨寺本堂のすぐ西に、この時の 「義経腰掛の松」 の切り杭と、その前に 敦盛首洗いの池 と言う泉が残っている。

検分された敦盛の首は、境内西方に埋められた。そこに今、 敦盛卿首塚 と呼ぶ五輪の石塔が立っています。
                 
                      (神戸の伝説、田辺眞人著 神戸新聞総合出版)より。          

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JR神戸駅より北へ2km 祇園神社 より東へ50mほどの所に、平家の供養塔と、勝海舟の寓居跡があります。

文久3年(1863)将軍家持が順動丸で摂津海岸を巡視した時、随行していた勝海舟が海防の必要性を説き、神戸村に海軍操練所の開設の内諾を得て、塾生は諸藩の俊英200名程集まり、塾長には土佐藩脱藩浪士坂本竜馬を任命し発足しました。
寓居は、神戸村の庄屋生島四郎太夫の配慮で、平野の祇園神社の東50mに位置する生島の別荘が提供され、乗馬で操練所まで通っていた。
幾度となく坂本竜馬が来訪したと伝わっております。
『平野の街あっちこっち』郷土史家、前田章賀氏より抜粋。

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JR兵庫駅から、東へ600mほどのところの、能福寺の境内に鎮座されています。

現在の大仏様は、二代目で、初代は、明治の初めに、兵庫の豪商南條荘兵門の発願により、建立されましたが、昭和19年、戦争時の金属回収令により、解体、供出されました。

この大仏様は、平成3年5月に、市民の強い要望により、有力企業の協賛で、再建されました。

奈良、鎌倉、と共に、日本三大仏とされています。

入口近くには、三宮神社で紹介しました、神戸事件で切腹した、砲隊長の滝善三郎の石碑があり、今もお花の絶えることはないそうです。

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JR兵庫駅から東南に700mのところに清盛塚と琵琶塚があります。
ここには、清盛塚と呼ばれる、石造十三重塔(兵庫県文化財)と、清盛の銅像、琵琶塚の石碑が建立されています。
十三重塔は、台石に弘安九年(1286)二月の刻銘があり、鎌倉期の石塔です。

清盛の銅像は、新しく昭和47年に地元の清盛講によって建てられたそうです。

琵琶塚の石碑は、琵琶の名人、平経正に結びつけて琵琶塚、つまり経正の塚といわれる様になった事が、延宝八年(1680)「福原びんかがみ」に記されているようです。

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