神社巡り、明石市

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明石市、休天神社(やすみてんじんしゃ)の春祭(雛形祭)です。



JR明石駅の一駅神戸寄り、人丸駅のすぐ東に鎮座する

休天神社で25日に春祭りの「雛形神事」「湯立神事」が

斎行されました。


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ご本殿の場所は、塀に囲まれて普段は中に入ることが出来ませんが

この日は許可をえて近寄らせていただきました。

本殿は、千鳥破風造りで向拝は唐破風となり、立派な建築です。

前柱に掲げられた板には、


  駅 長 驚 く な か れ 時 の 変 り 改 ま る を

  一 栄 一 落 こ れ 春 秋

と書かれています。


昌泰四年(901)、菅原道真公が大宰府に左遷の途すがら

明石の地を通られるとき、明石の駅長(うまおさ)が迎えられ、

従前のお姿と変っておられるのを、大そう嘆きました。


道真公は、その志を喜んで、楼の傍の石に休息されて、

駅長(うまおさ)に詩を賜われました。

それが記されております。


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板塀の外から眺めたご本殿です。

八重の紅梅がよく似合っておりました。


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境内の中ほどに、背丈5mほどの青竹が立てられ

その笹枝には、赤い「雛形」が結び付けられています。

雛形には、参拝者の家族の名前と歳が書かれています。


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宮司先頭に氏子総代の方々と最後に巫女さんです。

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お神楽の奉納


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湯立神事です。

この巫女さんは、慣れた手さばきで、舞もお上手です。

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いよいよ雛形神事の斎行です。

宮司の大祓詞奏上と共に、氏子総代によって火がつけられます。

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浄火でもって雛形は焼き払われ

わが身に降りかかる憂を払い除かれるという

故事により斎行されています。


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神事が終りお供えの餅が参拝者に配られます。

何度も何度も繰り返し行列に並び、沢山のお餅を

戴いておられました。


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小さいお子さんも、自転車の前カゴいっぱいに

お餅を入れての帰り道、前を走る国道2号線に撒き散らし

ての大騒動でした。

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この日の参拝者の皆さんは、大震災義援金の寄付を

なさってのことでした。

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明石市、伊弉冊神社(いざなみじんじゃ)のご紹介です。


当神社は、明石市、東部、岬町の漁港から150mほど入った住宅地の中に鎮座されております。

当社の由緒書きには、次のように記されております。

当社は、延喜式神名帳には、明石郡岩屋の土産神、伊知都比売神社で、崇神天皇御代六年

(BC92年)九月十日に勧請された式内社だそうです。

49代、光仁天皇の御代、宝亀二年(771年)に境内地4町(432m)四方が赦免地となった。

その後、別所氏が三木城主の時、崇敬厚く社領50石を寄進して、祭典、営繕に当たったと云われて

おります。

その後天正年間(1573〜1592)に減地となりましたが、東の境界地に小祠を建て御旅所と

し(元の祇園さん)、西境界地にも小祠「賀(よろこび)神社」を建て、旧境内東西の境界の遺跡

とされました。

この頃の境内地域は、東西に連なる松林で「さなぎの森」と呼ばれていました。

嘉吉年間(1441〜1444)赤松氏の和阪の戦、天文年間(1532〜1555)の町野入道の

放火、羽柴氏の三木城攻め等の兵火に罹り、社殿、旧記をことごとく焼失したと伝えられています。

明治十二年(1879)七月二十日に県社に列せられました。

昭和二十年六月太平洋戦争の戦災にて、社殿、社務所一切の建物を焼失し、昭和三十七年に社殿等

再建されました。

境内の手水舎の隣に古い手水鉢がありますが、表に「牛頭天王社」と刻銘されております。

これは、当社の御祭神が、「伊弉冊大神」と、相殿神「素左之男大神」となっていますが、以前は

境内摂社として社殿が別にあったと思われます。

また、この手水鉢には大きな盃状穴が穿がかれています。

境内石灯籠にも、数個の盃状穴が見られます。

ご参考 :明石市岬町19−8

     山陽電鉄 明石駅 南西1km 13分

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明石市、素盞鳴(すさのお)神社(天王神社)のご紹介です。


当神社は、明石市の西部、魚住町、西岡地区の播磨灘海岸より、200mの小さい山、天王山に鎮座されております。
当社の創建は、養和元年(1181)と伝えられております。

当境内は、天王山といわれており、神亀三年(726)聖武天皇が、邑美頓宮(おおみのかりみや)に

7日間行幸した跡だとも伝えられているそうです。

参道の石段は、幅も広く創建当時の立派なもので、段石と側石に多くの盃状穴があります。

社殿は本殿の前に、播磨地方特有の割拝殿が設けられています。

石段を上がった左側に、風化の激しい手水鉢がありますが、これにも大きな盃状穴が穿かれております。

割拝殿前の狛犬は、両前足で珠を抱える、この辺りでは珍しい物とされています。

社殿の西側には、境内社稲荷大明神が鎮座されています。

また、西隣は薬師院、通称ぼたん寺があります。


参考  :明石市魚住町西岡1637

     山陽電鉄 魚住駅 西北に700m
     JR 魚住駅 西に1km

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御厨神社(みくりやじんじゃ)と君貢神社(きみつぎじんじゃ)のご紹介です。



当二社は、明石市の西端二見町の東二見地区に鎮座されておりますが、君貢神社は二見漁港に面した岡に鎮座されており、御厨神社は、これより西北に約1km、海岸より500mの所に鎮座されております。

御厨(みくりや)神社の創建については、往年の火災により、社殿と共に記録文書を焼失し、年月は不詳のようですが、社伝は次の通りといわれております。

神功皇后が西征の際、この二見浦に船を泊めて船子を加え兵糧を集めた時、土地の者が食物を奉ったところという。その故事によって御厨(神饌を調進する所)の名が起った。

だが、この御厨という言葉は、主として伊勢神宮について使用されることから、伊勢神宮の荘園ではなかったかとの説もあるそうです。

貞観年間(859年〜877年)に八幡宮を勧請。延喜元年(901年)菅原道真が筑紫大宰府に左遷されて西行の途次、船をこの浦に寄せて社地に上陸した所縁により、寛和年中(985年〜987年)に天満宮を勧請されました。

この当時の社地は君貢神社(二見町東二見1番地)で、菅原道真が西下の時、一夜の宿とした岡を“仮の岡”といい、そこに手植えした松を「仮寝の松」と言い神木とされ、二見の名所でもありました。

松は枯れ、何度か植え替えをされておりますが、石碑も残されています。

この君貢神社に祀られた八幡宮と天満宮が「卯ノ花ノ森」に遷ったのは長暦年間(1037年〜1040年)と伝えられています。

「卯ノ花ノ森」は「常盤木の森」ともいい、付近一帯を御厨の岡と呼ばれていたそうです。

天正年中(1573年〜1591年)に池田輝政公が境外に社領40石を、元和4年(1618年)に徳川家光公が、御朱印地40石と山林を寄付されております。

本殿の前には拝殿とさらにその前には、中央が通れる、割拝殿(わりはいでん)があります。

この割拝殿は一般では珍しい様式ですが、播磨地方では多く見る事ができます。

この割拝殿では、子供達が自習?・まんが?・ゲーム?、に真剣に取り組んでいましたが、どんな形にせよ子供達が神社との関わりがある事に、少なからず安堵を感じました。

拝殿前の狛犬さんは台に文化六年(1809年)奉納の刻銘があり、石は砂岩ですが、風化も少なくきれいに保存されています。温暖な土地柄、雨水凍結が無いからでしょうか。

ご参考 :御厨神社  明石市二見町東二見1323
           
           山陽電車線・東二見駅・南出口10分
           
           明石市営バス宮前停留所・1分

     君貢神社  明石市二見町東二見一番地

           山陽電車線・東二見駅・南出口15分

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明石市、林神社(はやしじんじゃ)のご紹介です。



当神社は、明石市の東部、山陽電鉄「林崎松江海岸」駅より、東へ500mの丘の上に鎮座されております。

当社の由緒書きによりますと、
 いにしえ、当地海浜の巨大な赤石の上に少童海神(ワタツミノカミ)が顕れ給うが、その石は風波のため海中に没した。

よって翌、成務天皇9年、社を建ててこれを祀ったのが最初の創祀と伝えられる。

寛弘2年(1005)、彦火々出見命(ヒコホホデミノコト)、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、葺不合尊(フキアエズノミコト)、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)の四柱を合祀し、上宮五社大名神と号した。

明治十四年(1881)県社に列せられた。

昭和20年戦災で全焼、同年、船上御崎神社を合併した。
と記されております。

海を見下ろす高台から漁業の町明石の繁栄と、海上交通の難所、明石海峡を行き交う舟の安全を見守り続けてきた、明石で最も歴史ある神社だそうです。

当、「林神社」の宮司さんは、「林 宏昭」様で、社名と苗字が同じと云うのも珍しいようです。

鳥居の両脇の石灯籠には、盃状穴が見られます。

ご参考 :明石市宮の上5−1

     山陽電鉄「林崎松江海岸」駅 東へ 徒歩5分

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