神社巡り、西宮市

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

西宮市、神呪(かんのう)厳島神社(いつくしまじんじゃ)のご紹介です。


御 鎮 座 地

当神社は、西宮市の東北部、甲東園の台地の迫り出した高台に鎮座されております。

西側には県立西宮高校があり、周辺は高級住宅地で囲まれています。

また、当社境内地と甲山(かぶとやま)中腹の「神呪寺」の墓地とが接しています。

御  由  緒

当社の創建は、文永年間(1264〜1275)に甲山(かぶとやま)の麓に住む者が、

同山、神呪寺(かんのうじ)境内の厳島神社を奉遷したといわれています。

そしてこの地は、神呪寺の里坊として拓かれたそうで、本殿の裏には大きな神呪寺の墓地が広がって
おります。

社  殿

阪神大震災までは、入母屋瓦葺の拝殿と流造りの本殿が納まった瓦葺の覆い屋、でしたが、震災にて倒壊しました。

現在はまず本殿のみが再建され、元の社殿跡がフェンスで囲まれ、有刺鉄線が張り巡らされております。

神  呪  寺

当山は、甲山(カブトに似た形をしている山)の麓にある真言宗の古刹で、天長五年(828)
淳和天皇の妃、真井御前(まないごぜん)がこの地で出家し、弘法大師に帰依して如意尼(にょいに)
となって開基したとされています。


ご参考 :西宮市神呪町中谷25番地
     阪急今津線 甲東園駅  西に700m 10分

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

西宮市、上ヶ原八幡神社(うえがはらはちまんじんじゃ)のご紹介です。


御 鎮 座 地

当神社は、西宮市の北部、甲山(かぶとやま)の裾野、上ヶ原山田町に鎮座されております。

関西学院大学上ヶ原キャンパスの中の道を上ったところで、北側の裏には大きな神戸市の上水道貯水池があり、西裏から南側にかけては、関西学院の野球場・アメリカンフットボール競技場・馬術場などで取り囲まれています。
前に流れる清流は、貯水池からの六甲の流水で、脇の小路はアメリカンフットボール・野球の学生たちの通り道となっており、哲学の小径を思わせる風情となっています。

御  由  緒

境内の由緒碑には次のように書かれています。
当社は寛文三年(1663)徳川家綱の命により、廣田神社の改築が行われた砌り同神社の五殿の内、
第二殿の神を鎮守の神として当地に祭られたのが八幡宮である

境 内 末 社

参道の北側小高いところには、「稲荷社」「愛宕社」そして、「県(あがた)社」が祀られております。

県社とは、子授けの神様とされ、男根に幼児が抱きついている姿が彫られております。

また、本殿の南側には、「須佐之男神社」「金比羅社」「春日社」の他に、天照皇大神碑と「雄飛之碑」
が立てられています。

太平洋戦争の末期、関西学院に海軍が入り、甲飛第十四期生1200名の学校に転用されていた時、校門を入った所に神明造りの社が祀られていましたが、敗戦後ミッションスクールですから当然放り出されたそうで、それを当社の境内にお祀りしたそうです。

そして、元の西宮海軍航空隊の隊員たちによって、「雄飛之碑」が建てられました。
さらに、当時の97式戦闘機のプロペラと、爆沈特設掃海艇のイカリが飾られており、平和の尊さと重みを訴えております。


当社の宮司は神戸市西区押部谷住吉神社の兼務で、権禰宜さんが常駐されていますが、この方が「御宝山秘伝大祓太鼓」の継承者だそうです。

ご参考 :西宮市上ヶ原山田町4−93
     JR西宮駅 阪急バス 甲陽園行き 上ヶ原下車 西に7分

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

西宮市、神明八幡神社(しんめいはちまんじんじゃ)のご紹介です。


御 鎮 座 地

本神社は、西宮市の市街地のほぼ中央、神明町(しんめいちょう)、山手幹線沿いに鎮座されております。
この地は、旧、芝村(しばむら)字吹田(すいた)といい、昭和8年に西宮市に合併し、区画整理が行われ昭和13年に新しく神明町となりました。

御  由  緒

当社の創建は不詳ですが、天保年間(1830〜1844)の創建とも伝えられています。

創建当時の社地は、現在地から約200m南の、西福寺の西隣に鎮座されていましたが、境内が20坪とあまりのも小さく、幸いにも御手洗川の改修工事に伴い河川敷の埋立地450坪に社地が出来、昭和九年七月に本社移転が許可され、昭和十一年五月竣功、遷座されました。

ところが昭和20年、戦災にて焼失し、瓦木小学校の奉安殿を本殿とし祀られていましたが、昭和25年に総檜造りで現在の神明造りの本殿と、入母屋造りの拝殿が再建されました。

元の社地、飛地境内地と西福寺

浄土真宗、西福寺(さいふくじ)の西隣に、飛地境内地があり、ここが元の神明八幡神社の鎮座されていた所ですが、「四良右衛門供養碑」が残されています。

この碑文は、下から2枚目の画像ですが、西福寺の副住職より戴き、現場にてご説明を戴きました。

当山、西福寺の住職(豊原大成氏)は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の総長を務められており、阪神淡路大震災の際、書院、庫裏が倒壊し、父で元総長の大潤さん(当時86歳)、と奥様、娘様の家族全員を亡くされております。

現在の鎮座地、神明町のいわれ

神社誌を調べる中で、旧地名は、芝村(しばむら)字吹田(すいた)といい、昭和8年に西宮市に合併し、その後の区画整理で昭和13年に新しく西宮市神明町となったそうです。

この周辺に「神明」なる地名は太古より見当たらず、突如として現れたことに興味を持ち調べたところ、
この時期に新たに移って来た八幡神社に因んで神明町となった。(町名の話、山下忠男著)とありますが、当社の創建時は、「神明社」でなかったのかと思われます。

現在の本殿も棟柱のある神明造りなのが納得されます。

特殊信仰の「もどりの神さん」

この神社には、「もどりの神さん」という信仰があるそうで、もどりとは、ここの神様にお祈りすると、家出とか、行方不明の人とかが帰って来るといわれています。

また勝負の神様とも知られていて、戦時中は出征した夫、縁者が武運に恵まれて無事帰還するようにと多くの人々が祈願に訪れたそうです。

その際に、下駄の鼻緒をとって狛犬の足元に結び付けるといっそうよくききとどけられると云われております。

飛地境内の手水鉢の盃状穴

飛地境内に、慶応二年(1866)の刻銘がある手水鉢があり、その上面の四隅を主体に盃状穴が穿かれています。その他にも多くの小さい盃状穴がありますが、四隅のものには油で焦げた痕があり、灯明皿として使われていたと考えられます。

また、西福寺の境内、東側の十三重塔の隣に置かれた手水鉢にも同じ様な径は大きくて浅い盃状穴があります。


ご参考 :西宮市神明町3−21
     JR西宮駅 北へ5分 山手幹線道路沿い

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

西宮市、高木八幡神社(たかぎはちまんじんじゃ)のご紹介です。


御  鎮  座  地

当神社は、西宮市の阪急西宮北口駅の北東、高木西町の新しい奇麗な住宅が立ち並ぶ中に、鎮座されております。

この高木地区は、大正から昭和にかけて阪急鉄道が開通し西宮北口駅が出来、駅の東北は、北口市場などの商店街が形成され、商業地として発展しました。

ところが阪神大震災で大きな被害を受け、平成13(2001)年、複合施設「アクタ西宮」として生まれ変わりました。

また、大震災の教訓を踏まえ、安全市街地形成土地区画整理事業などのまちづくり総合支援事業が発足して大規模な区画整理が行われ、当神社の境内もその対象となり、西側が住宅地に、東側に境内が広がるなどとなり、合わせて境内整備が行われました。

御  由  緒

境内に改築記念碑があり、これに由緒として次の通り記載されています。
当神社がいつごろ創建されたかについては詳らかでないが、元禄5年(1692)の古文書に「此宮古来より
鎮守、勧請、由来、年歴相知不申候」とあり、往古より熊野神社とともに当地の産土神として厚く
尊崇されて来た。

元禄13年(1699)及び文政11年(1828)には神殿の御改築が行われたが、爾来社殿の破損荒廃が著るしく、
この度神社有不動産の処分を機に本格的大改築を計画、現在の荘厳華麗な御社殿並に付属建物の御造
営と併せて境内の整美を行った。                    昭和50年6月吉日 記

震災前、昭和のこの辺りの姿 は



  喜志邦三 作詞
  内田 元 作曲


ラララ 紅い花束 車に積んで
春が来た来た 丘から町へ
すみれ買いましょ あの花売りの
可愛い瞳に 春のゆめ


ラララ 青い野菜も 市場について
春が来た来た 村から町へ
朝の買物 あの新妻の
籠にあふれた 春の色

この詩は西宮に住んでいた、喜志邦三さんが阪急の西宮北口駅前にある市場の印象を歌ったのだそうである。

このこころよい歌を口ずさみつつ、高木の旧邑を流れる小川に沿ってゆくと、軒端の小鉢に咲きほこるアジサイや、土塀ごしに小枝をのぞかせている黒松の若芽などが送り迎えしてくれる。

このあたりは旧家が軒をつらねて、新しがり屋のマチともいいうる北口界隈とはまた趣を異にしている。

それがすぐ近くにあって判然と別れているのも妙である。

高木の八幡さんは、その旧村の床の間のような姿で鎮座していた。
                          「吉井貞俊氏著、西宮・芦屋の社より抜粋させていただきました」

この情景は、震災で全てが無くなり、新しい街に生まれ変わっています。

古い灯籠と狛犬さん

境内の片隅には、フェンスの中に文政十二年(1829)刻銘の灯籠と狛犬が保存されています。
また、震災で倒壊した鳥居の柱の一部が立てられております。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

西宮市、瓦木・厳島神社(かわらぎ・いつくしまじんじゃ)のご紹介です。


御 鎮 座 地

当神社は、西宮市の東部、武庫川の西沿いの上之町に鎮座されております。

昔の地名は摂州武庫郡上瓦林村で、「氏神弁才天女社」と称されていました。

幾度と無く武庫川の決壊により水災害をうけていたようです。なかでも、萬治元年(1658)の洪水は多大の被害があったようです。

現在は静かな住宅地となり、その中で約千坪の社叢に鎮座されております。

御  由  緒

当社の創建は不詳ですが、当地の上新田開発が寛永十四年(1637)に行われており、その時には
既に「氏神弁才天女社」として存在しており、かなり古い創建とされています。

また、石鳥居は享保八年(1723)三月に尼崎藩主、松平遠江守に「鳥居の新建願」が出されて
います                     (この項、「高木村史第四章」より抜粋)

御  社  殿

昔の当社の棟札が日野神社に保存されておりますが、再建が「弁財尊天、文政六年(1823)二月二十五日」とあります。

その後、昭和五十六年に屋根替えを主体とした、改築が行われ、維持されて来ましたが、阪神大震災で倒壊しました。

いち早く、平成10年7月に現在の鉄筋コンクリートで復興再建されました。

手 水 鉢 の 盃 状 穴

自然石の手水鉢ですが、上面に多くの盃状穴が穿かれております。

手水鉢には刻銘がなく時代は不詳です。
  

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
NORI
NORI
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事