神社巡り、西宮市

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西宮市、段上(だんじょう)若宮八幡神社(わかみやはちまんじんじゃ)のご紹介です。


御 鎮 座 地

当神社は、西宮市、東北部の段上町に鎮座されております。

山陽新幹線で、武庫川を西に越えてすぐ北側の、田畑と住宅の混在する静かな中に、当社の新しい社殿が目に入ります。

御  由  緒

当社の由緒について、境内にある「甲東文化財保存会」の説明板によりますと、
大日霊女尊が祀られてあり、大市八幡神社から延宝九年(1681)に分霊を勧請すると伝えられている。
鳥居(明神系八幡鳥居)の右柱に宝永四年(1707)とある。
南に広がる田畑は古墳時代の須恵器の出土した段上遺跡である。
この御祭神は、大市八幡神社から勧請されているので、当然「誉田別命」のはずなのだが、大日霊女尊となっております。
神社明細書には、延宝八年(1680)勧請で、祭神は誉田別命となっております。しかし、兵庫県神社誌(上巻)には、祭神は大日霊女尊と記載されています。

御祭神が、書かれているものによって異なるのはあまり例がないようです。

社  殿

美しい檜造りの社殿は、平成17年に再建されたもので、すぐ南に走る新幹線の窓からでもよく見えます。
当社も大震災による被害は大きく、瓦葺の本殿、拝殿、鳥居などの石造物全てが倒壊しました。

現在の美しい檜造りの社殿は、平成17年に再建されたもので、使われている木材は素晴らしい檜材で、手を触ると滑らかな優しさのある感触が伝わってきます。

実はこの社殿、1400年の歴史をもつ大阪の宮大工「金剛組」の手によるもので、平成17年12月、

竣工式を執り行なう当日、朝刊に「金剛組経営行詰まる」の記事が載り、式の最中に社員も驚いたといわれていました。

この社殿が、元金剛組の最後の作品とも云えるのではないでしょうか。

宝永四年の鳥居は

由緒説明板に書かれている明神鳥居は、震災で崩壊しましたが、境内に鳥居の一部分を利用した石ベンチ

があり、また石灯籠の竿部分が腰掛として保存されているなど、氏子の方々の心配りが感じられます。

ご参考 :西宮市段上町1丁目5番1号
     阪急今津線  甲東園駅 東に5分

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西宮市、甲子園八幡神社のご紹介です。

御 鎮 座 地

当神社は、西宮市の東部、甲子園球場の北1.5kmの上甲子園町に鎮座されております。
境内の前は、南北に走る中津浜線の道路で、車がひっきりなしに走っています。
 

御  由  緒

当社の創建は不詳ですが、拝殿両脇にある石灯籠には天和二年(1682年)の刻銘がありそれ以前
と考えられます。

本殿には、誉田別尊、天照皇大神、天児屋根命、中筒之男命が祀られており、別名「四社大神宮」と
も称されております。

また、殿内には大国神像が安置されているそうですが、これは地中より掘り出されたそうで、その後
御祀りされているそうです。

御  社  殿

当社の拝殿は、「八棟造り」と云い、珍しい構造になっていますが、これは昭和32年再建の際に、安政年間に建立された、元の拝殿の屋根をそのまま使って新しい拝殿の棟の上に上げたものだそうです。

その造営から30年経った機会に、瓦葺を銅板製の銅瓦葺に葺き替えられました。

これが後の阪神淡路大震災で倒壊を免れる結果となり、現在もその美しい姿を残しております。

制  札

鳥居の左側に、制札が立っています。

昭和二十二年神社本庁と墨書きされた制札には

「車馬を乗り入る事、魚鳥を捕る事、竹木を伐る事、右境内に於て禁ず」

と厳めしいものですが、立てられた時には占領下で、英語版も付いていたそうです。

この制札は他の神社では取り除かれたものか、見かけることがありません。

ご参考 :西宮市上甲子園四丁目4−11  TEL0798-34-1298
JR甲子園口 南西へ 12分

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西宮市、津門神社(つとじんじゃ)のご紹介です。


御 鎮 座 地

当神社は、西宮市津門(つと)地区、で前紹介の松原神社の東、300mの住宅地の中に鎮座されております。
北隣りには、浄土宗寺院「昌林寺」があります・

御  由  緒

漢織(あやは)、呉織(くれは)姫が渡来、わが国に初めて機織または染物などを教えた
場所に、彼らが外来渡来の神(大日如来)を勧請して創立したといわれています。

今から1600余年前(延喜元年)、菅原道真が大宰府に左遷の途次、美しい白砂青松の景勝を愛
でられ小祠の辺にご休憩になりました。

その祠が津門大明神と称されて里人が崇敬する津門の氏神です。

津門の氏神である祠を現神域に遷宮したのは宝暦四年(1754)年十一月ということが旧社殿
上棟札により明らかになっております。

当時は神仏混合の時代でもあったため毘沙門天神も祀りましたが、明治の代になり天照皇大神を
御祭神とされてきております。

社 号 碑 と 萬 度 石

拝殿の右側に立っている「津門神社」と刻まれた大きな石碑は、大塚古墳の石棺の蓋とされています。

大塚古墳は、古くは鬼塚と呼ばれ、源頼光が所持の貴重品をここに埋めたとの伝説があるようです。

また、境内入り口の標柱(注連柱)を入った右側に、大きな「萬度石」があります。

一般的には、お百度参りの「百度石」ですが、「萬度石」は初めてです。

「千度石」は神戸の長田神社などたまに見かけられます。

北 隣 の 昌 林 寺

昌林寺は、多田源氏の祖源満仲(みつなか)の子、源賢僧都の開基と伝えられています。

伝承によりますと、満仲の子・美女丸(源賢の幼名)が、宝塚の中山寺に預けられていましたが、
学問をせず、狩に出て殺生ばかりしているのに激怒して、家臣の藤原仲光に美女丸の首を持って
来いと命じました。

主の命令に苦しんでいる仲光を見て、一子の幸寿丸は、その身代わりを申し出て、父は涙ながら
に幸寿丸の首を切って、満仲に差し出します。

このことを知った美女丸は、深く改心して修行に励み、ついに比叡山の高僧となり、後に身代わ
りになった幸寿丸を弔うために、この寺を建てたといわれています。

明 星 池

当社の入り口と昌林寺の間に、明星池があります。

石とコンクリートに固められた小さな池で、干しあがって水はありません。

説明板には、この池で「幸寿丸」の首を洗ったとあります。

平安の昔(10世紀末)から伝わる悲しい物語です。


ご参考 :西宮市津門西口町14−15  TEL0798-33-1653
     JR西ノ宮駅 南へ 400m 6分

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西宮市、松原神社(まつばらじんじゃ)のご紹介です。


御 鎮 座 地

当神社は、西宮市の松原町、JR西宮駅から南に300mの住宅地の中に鎮座されています。

西隣には大きな建物の勤労福祉会館があり、道をへだてた前には、北向稲荷神社、そして「史蹟漢織呉織松、染殿池」があります。

御  由  緒

 
当神社の創建は不詳ですが、
延喜年間(901〜923)九州太宰府に流されることになった菅原道真が道中この美しい松原を眺め上陸して休息したことから菅原道真・天神様をおまつりするようになったと伝えられている。
  「万葉集」に「あまおとめ漁たく火のおほほしく都努の松原恩ほゆるかも」と歌われているように「都努の松原」であったことから神社の名も松原神社とつけられ、松原、津門の名もここからきたものとつたえられています。

境内社、「鎮 宅 霊 符 社」

本殿の右脇に朱色の鎮宅霊符社があります。

この社殿は旧本殿をそのまま移したもので、御祭神は玄武神といい「浄室に奉安して礼拝すれば火難及び一切の災難を免れ、福寿を延ばして子孫が栄えます」と説明板に書かれています。

本殿の前には狛犬がありませんが、この社には立派な狛犬と灯籠があります。

北向稲荷神社と「史蹟、漢織・呉織(はやはとり・くれはとり)松、染殿池」

当神社の道を挟んで前に北向稲荷神社と「史蹟、漢織・呉織(はやはとり・くれはとり)松、染殿池」があります。

日本書紀によりますと、応仁天皇の三十七年、呉の国に使いを出して縫工女(ぬりひめ)を求めたことが書かれています。

そして、来朝した4人の工女のうちの2人が漢織・呉織(はやはとり・くれはとり)で、武庫の水門に上陸した彼女たちは、当時松原であったこの付近で休息をとり、故郷を慕ってここに松を植えたと伝えられています。

松の傍らにあった池の水を使って初めて染色をしたので、この池を染殿池と呼ぶようになったそうですが、今では小さな池があり、松はその名残もとどめていません。

ご参考 :西宮市松原町2−26
     JR西宮駅 南へ300m 4分

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西宮市、福の宮・福應神社(ふくおうじんじゃ)のご紹介です。


御 鎮 座 地

当神社は、西宮市の今津地区、西宮インターのすぐ南側に隣接して鎮座されております。

このインターは、名神高速道路の西の起点となっておりますが、元の当社はこのインターのほぼ中央部に鎮座していましたが、昭和41年(1966)に現在地に遷りました。

この地は、また酒造の「灘五郷」の中、一番東部で有名酒造会社の本社工場等があります。

御  由  緒

当神社の由緒書きには、
創建年代は不詳ですが、かつてこの今津の浦に神霊が降臨し、「この浦のすがすがしき地に吾を
斎き祀れ。されば万人守護し諸願成就を得さしむ」という神託があった。

そこで浦人たちが浄地を勧請して奉斎したのが始まりと伝えられる。 

 下って第七十三代堀河天皇の嘉祥元年(1106)、仁和寺覚行法親王より代院室の格に列せ
られ、以後代々の祈願所となった。
 
 近世、文禄年間(1592〜1596)に後陽成天皇の名代の参拝があり、「福に應ずる宮」
すなわち福應神社の社号を賜わり、仁和寺の祈願所として別当真福寺を置くことになった。

こうして皇室の深い崇敬を受けて明治維新を迎えた。 
 
明治十四年(1881)、県社に昇格し、昭和十五年には紀元二千六百年祭を記念して社殿の造営を行なったが、
戦災により稲荷神社を残してすべてが灰燼に帰した。 
 
崇敬者の奉替により昭和二十六年に社殿を復興、名神高速道路建設に伴い昭和四十一年に現在地に
移転した。 

 現在、福の神として信仰を集め、西宮神社・越木岩神社とともに「三福神」と並び称されている。 
    
また、「兵庫縣神社誌」には、
光格天皇御宇仁和寺宮より鉾4本の御寄付あり、該鉾は真鍮製鑛金にて鉾先鉾先5寸(15cm)
柄一丈五尺(4.5m)全長二丈余(6m)のものにして当社の宝物として現存する
とあり、祭礼ごとにこれを飾りつけていたそうですが、昭和20年戦災にて焼失しました。

今 津 砲 台 記 念 石

今津海岸の砲台に使用されていた積み石が、当神社の鳥居を入った右側に、(現在の神輿楽車庫)記念碑として保存されていましたが、大震災の後、今津真砂町川沿いに移転されました。

この今津砲台は、香枦園浜にある西宮砲台と同時期に作られたもので、明治維新の後に、民間に払い下げられて、大正四年(1915)に取り壊されました。

その記念石が今津真砂町川沿いに、扇型の容姿を今に伝えています。

ご参考 :西宮市今津大東町1−28  TEL 0798-26-0769
     阪神電鉄 久寿川駅 南に 3分

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