神社巡り、宝塚市

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宝塚市、大原野(おおはらの)素盞鳴命神社(すさのおのみことじんじゃ)のご紹介です。



御 鎮 座 地


当社は、宝塚市の北部、西谷地区の中央部の 大原野 に鎮座されております。

大原野の中部には、西谷サービスセンター、郵便局、消防署などがあり、

このすぐ西隣が当神社の境内となっています。


西谷地区 大原野は京都西山大原野から移ってきた



昭和30年代、西谷の児童・生徒の身長が市内平均より低く、その原因の調査が行われました。

まず、両親の身長を調べましたが、両親も皆低くまた、祖父母も曽祖父母も低いことが解かりました。

これは、殆どが西谷地区内での縁組であったからでした。

外部の地区とも交流は少なく、昔の西谷は、隠里(かくれさと)と呼ばれていました。

この隠里の本拠地が、大原野であったといわれています。


古老の話として、「私たちの先祖は、京都西山大原野より移って来た」といわれています。

京都西山大原野は、平安京遷都の前、長岡京の築かれたところです。

延暦三年(784)奈良平城京より移されましたが、

この長岡を進言した藤原種継が暗殺され、未完成に終わり、

早良皇太子、大伴氏、佐伯氏の氏族や部民達は、それぞれ安住の地を求めて去りました。


ここ大原野にはこの何れかの氏族が來住したと考えられております。


訪ねる家々で感じる、人情的で親切な知的な人柄など、そして

奥ゆかしい行事、立派な文化財の遺産などは、大伴、佐伯氏族を偲ばせます。


御  由  緒


当社の創建は不詳ですが、神社誌には、

創立年月不詳 明治六年八月村社に列せられる。また、

明治四十二年十月に、文明四年(1472)に上梁とされている天神社と合祀

とされています。


社   殿


当社の社殿は前にご紹介の「境野天満神社」と同じく、この地区の共有林がうまく売却され、

その収益で立派に再建されました。


ご本殿は、新しい覆い屋におさめられており、

立派な一間社流造り杮葺きの一部をのぞかせています。


社 叢 と ご 神 木


当社の社叢は、市の天然記念物に指定されていますが、

中でも、樹齢400年以上と推定される杉の巨木が2本あり、

樹高はそれぞれ40m近くあり、まさにご神木の風格を感じさせる老杉です。


手水鉢の盃状穴


当社の手水鉢の上面には4個の盃状穴が穿かれていまが、

浅い上に風化が進んでおり、分かり難い状態です。

当社には他にも盃状穴が穿かれているように思われましたが、

発見することが出来ませんでした。



ご参考  :宝塚市大原野字南宮1番地

      JR宝塚線 武田尾駅 阪急田園バス 西谷支所前下車 西にすぐ

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宝塚市、境野(さかいの)天満神社(てんまんじんじゃ)のご紹介です。



御 鎮 座 地


当神社は、宝塚市、西谷地区の大字境野 字米山の普門寺と同じ境内に鎮座されております。

この「境野」は前に紹介の「玉瀬」と次回紹介の「大原野」の境目に、

後から出来た字なので、「境野」と呼ばれるようになったと云われております。

ここから西に少し入った所に、兵庫県西谷の森公園が先月27日にオープンしました。

さらに南の山に入り込むと、丸山湿原があります。(http://blogs.yahoo.co.jp/dekunobou36/43535025.html)


御  由  緒


平安時代に、花山法皇が、西国札所ご巡幸の際の寛弘年間(1004〜1012)に、

この地に草庵を建て訪迎国柱拝したあと、鎌倉時代に北条時頼が巡遊して、ここに休み

西海野と名付け、祭神 菅原道真公を米山山腹に祀ったのが創始といわれております。


境 内 と 社 殿


真新しい玉垣に囲まれた境内は、きれいな砂利が敷きつめられて、樹木は全くありません。

社殿も全て新築されています。

山の斜面と裏に数本の梅が植えられておりますが、昔の鎮守の森の面影は全くありません。

隣の普門寺も同じく本堂、護摩堂、鐘楼その他新築されました。

これ等は、共有林が売却された収益と氏子52戸の平等な負担で完成されたそうです。

鳥 居 の 前 の 灯 籠 に 盃 状 穴


鳥居の前の石灯籠(万延元年1860)には多数の盃状穴が穿かれております。

参道の舗装工事で下の基壇は埋められていますが、かろうじて盃状穴の部分は露出していました。

この西谷地区では、当社より奥地に盃状穴が多く見かけることが出来ます。

逐次ご紹介するにしたがい、この盃状穴の意味する事がだんだんお解かり頂けることと思います。


境 内 社、 境 野 稲 荷 神 社


神社誌によりますと、境内社として

愛宕神社(伊弉冊命)   稲荷神社(稲蒼魂神) と記されておりますが、見当たりません。

少し南の山腹に、境野稲荷神社があります。

愛宕神社は、本殿覆い屋に祀られているのだとおもわれます。



ご参考  :宝塚市境野 字米山1番地

      JR宝塚線 武田尾駅 阪急田園バス  境野切畑口下車 北・東に5分

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宝塚市、玉瀬(たませ)素盞鳴神社(すさのおじんじゃ)のご紹介です。


宝塚市市街地から、長尾連山を越えて、西谷地区に入って、2つ目の神社です。

御 鎮 座 地


当神社は、宝塚市の北部、西谷地区の玉瀬(たませ)に鎮座されております。(地図をご参照)


玉瀬は、ご紹介済みの「丸山湿原」があり、往古 六つ瀬荘 の一部で、猪名川の水源とされていました。

この地域の川は、岩間をぬって流れる谷川で、上流に珍しい石を産出します。

白い石で 「瓢文石(ひょうもんせき)」 と呼ばれています。

幾片に砕いても、瓢文(瓢箪の模様)が出て来るので、瓢文石といわれています。

これは、豊臣秀吉が名付けたと言われていますが、それ以前には、 「玉石」 と言われていました。

この玉石の瀬、玉瀬が川の名前になり、流域の集落が 玉瀬村 となったそうです。


御  由  緒


当神社の創建は不詳ですが、神社誌には次の通り記されております。

御祭神は、素盞鳴命(すさのおのみこと)、大己貴命(おおむなちのみこと)で、

創立年代は不詳、明治以前は牛頭天王と称す。

明治六年八月に村社に列せられる。

大正十四年五月十日、同村の無各社、大己貴神社を合祀。


境内地は、文禄三年(1560)古檢の時、除地となり、

延宝七年(1679)古檢の時、又、除地となる。

(除地=領主より年貢免除の特権を与えられた土地のこと)


境  内  社


境内社として、


山 神 社 (大山祗命)、 天満神社 (菅原道真)、 太神神社 (天照皇大神)

の各社が祀られております。



拝殿前の狛犬は、嘉永六年(1853)の刻銘がありますが、

砂岩(?)にしては、保存状態はすこぶる良好です。


ご参考  :宝塚市玉瀬字前田1番

      JR宝塚線 武田尾  阪急田園バス  前田橋下車 すぐ東

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宝塚市(西谷地区)、切畑(きりはた)素盞鳴神社(すさのおじんじゃ)のご紹介です。


いよいよ宝塚市の北部、 西谷地区の神社巡りに入りました。


宝塚市は前にもご紹介しました通り、長尾連山を境にして、南部が華やかな市街地であるのに対して、

北部は旧西谷村で、自然が豊富なのどかな山村地帯となっております。


この地区には、宗教法人格(神社庁登録)の神社が7社と、その他が5社鎮座されております。

本日は、一番南に鎮座されています、切畑素盞鳴神社からご紹介させて戴きます。


御 鎮 座 地


当社は、宝塚市の西谷地区、旧、大字切畑に鎮座されております。(地図参照)


この切畑(きりはた)は、長尾連山の大半をも含む大きな広い字(あざ)ですが、

切り開かれた畑、すなわち「開墾の畑の村」と云われていますが、標高250m前後の山村です。

この村の中を南北に走る県道33号線の道沿いの小高い山に当社は鎮座されております。


御  由  緒


当社の創建は不詳ですが、神社誌には、

祭神  素盞鳴命(すさのおのみこと) 天照大神(あまてらすおおみかみ)
    
    菅原道真(すがわらみちざね) 愛宕大神(あたごおおみかみ)


創立年月不詳 明治六年八月村社に列せられる。

同字 無格社天満神社を大正五年三月六日、合祀する。

と記載されております。

詳しくは解かりませんが、この地を開拓した当時の村人の守護神であったのでしょう。


社   殿


本殿は、茅葺き入母屋造り、拝殿も茅葺き入母屋造りで、建築年代は不詳。

幸いにも、阪神淡路大震災にも倒壊せず、現在に至っております。


ところで、

拝殿の前の玉垣沿いに、お地蔵さんが6体並んでおります。

まさか「六地蔵」ではないと思うのですが、意味が解かりません。




ご参考  :宝塚市切畑字堂山33−1

      阪急田園バス  切畑口 下車  北に3分 

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宝塚市、清荒神(きよしこうじん)八坂神社(やさかじんじゃ)のご紹介です。


御 鎮 座 地


当神社は、宝塚市の市街中心地の近く、清荒神(きよしこうじん)に鎮座されております。


この地は、清荒神 清澄寺(せいちょうじ)一般に三宝荒神さんと呼ばれるかまどの神様の参道近くで、

当社の前の道は、古代の有馬街道、義経道(よしつねみち)と昔から言い伝えられております。

西は有馬、東は、中山、山本、池田、箕面に通じていました。

須磨、一の谷の源平の合戦に通じた道であります。


御  由  緒


当社の創建は不詳ですが、

御祭神の牛頭天王(ごずてんのう)は古くに、清荒神清澄寺(きよしこうじん せいちょうじ)の
==
境内の一部であったが、寿永年間(1182〜1185)の頃、源平両軍が摂津の昆陽野(こやの)(現・

伊丹市)での戦いのあおりを受けて焼失しましたが、建久元年(1190)に源頼朝によって、再建され

たと伝えられています。

その後、天正七年(1579)伊丹城主、荒木摂津守村重が、織田信長にそむき、戦いとなり村重が

逃げる際にこの辺りを焼き払い、当社も再び焼失しました。


その後、寛文四年(1664)に現在の義経道沿いに、牛頭天王を祀る社殿を新築し、

京都、八坂神社を勧請したとされています。


当 社 の 社 殿 は


当社は、何度と無く被災、焼失と再建を繰り返して」きましたが、

平成7年1月17日、阪神淡路大震災にて、全壊しました。

その後、覆い屋に納められていた、ご本殿は修復されましたが、

いまだに拝殿などは再建のめどはたっていないそうです。

プレハブ材の仮設の覆い屋には、パイプシャッターで本殿の保護がなされていますが、

哀れな姿をしております。


この他に、境内の右側に、境内社の愛宕神社があります。

また境内の狛犬は、嘉永五年(1852)九月に奉納の刻銘があります。



ご参考   :宝塚市清荒神二丁目21−6
       阪急宝塚線 清荒神駅  北へ4分












 

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