神社巡り、宝塚市

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宝塚市、八王子神社(はちおうじじんじゃ)のご紹介です。


御  鎮  座  地


当社は、宝塚市の南東部、中筋の住宅地の中に鎮座されております。

昔の「摂津国川辺郡長尾村の大字中筋」で、源頼光四天王の一人、渡辺綱(わたなべつな)の所領地だったそうです。


御  由  緒


当神社の創建については、元弘年間(1331〜1334)一寺院あり、その後社が存在したと伝えられ

ていましたが、大震災で倒壊した際見付かった本殿の棟札に”延元元年(1336)氏子家内安全息災延

命”と記されており、はっきりとしたそうです。

御祭神は、蛭 子 命(ひるこのみこと)です。


社 殿(拝殿、幣殿、本殿覆い屋)と ご 本 殿


平成七年の阪神淡路大震災で、社殿は全倒壊、ご本殿は半壊いたしました。

この周囲の住宅なども、約九割の建物が全半壊し、二人が亡くなるなど大きな被害に見舞われました。

その後、ご神体は拝殿に隣接する“仮本殿”の「小宮」に移設。

総工費約一億円の寄付金により、平成14年6月に拝殿が完成、本殿も見事な極彩色に修復されました。
 

ご 神 体 の 遷 座 際 の 様 子(神戸新聞)


平成14年7月5日、夜のとばりが下りた午後9時より八王子神社では遷座祭が厳かに行われた。正装に身を正した氏子が見守る中、青竹の松明(たいまつ)に照らし出されて、御神体の蛭子命(ひるこのみこと)大神の遷座の行列が新社殿に進んだ。              
  
阪神・淡路大震災で、本殿が半壊、拝殿が倒壊し、このたび新社殿が再建された。「感無量です」と八王子神社再建委員会会長の今里忠夫さん。

「再興できるか不安でしたが、氏子の皆さんの多額の寄進に、氏神さんに対する思い入れの強さがわかりました。遷座祭では身の引き締まる思いでした」と総代長の今里康夫さん。  
  
再建にあたり発見された本殿の棟札(むなふだ)には”延元元年(1336年)氏子家内安全息災延命”などと記されており、七百年近くも中筋の鎮守であったのか・・・と思われる。  
  
宮守(宮当番)に当たると、一年間、毎月一日と春夏秋冬の大祭には羽織袴で宮司の代行で、祝詞奏上をし、その間は妻とも寝室を別にしなければならない厳しい規律を守ることや、氏子は順番で家族の人数に合わせて毎日境内の掃除をすることも代々伝えられている神社である。  
  

境 内 の「板  碑」


社殿の右脇には、鎌倉時代の正応三年(1290)に子供が両親のためにつくった流紋岩の板碑があります。

年代が記されている石造品の中では市内最古のものとされています。(宝塚市指定文化財)

このあたりの石造美術品には中山産出の花崗岩(かこうがん)材を用いるものが多いが、宝塚北部にある波豆(はず)産の流紋岩を用いたものは珍しく貴重な遺品とされています。

            (波豆産の流紋岩は、後日、波豆八幡神社でご紹介します。)



ご参考  :宝塚市中筋6丁目8−2
      JR宝塚線 中山寺駅  南東に10分

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宝塚市、口谷(くつたに)春日神社(かすがじんじゃ)のご紹介です。



御  鎮  座  地


当神社は、宝塚市の東部、川西市と接する口谷(くつたに)地区の春日の森に鎮座されております。

この地は、昔の川辺郡山本村で、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)の後裔、坂上党の本拠地でも

あります。


御  由  緒


当社の創建は、中臣大田連(なかとみのおおたのむらじ)がこの地に居住を始めた頃の

飛鳥時代(600年前後)と考えられていますが、定かではありません。

祭神は、中臣氏の太祖である「天之児屋根命(あめのこやねのみこと)」をはじめとして、

「武甕槌命(たけみかつちのみこと)」、「経津主命(ふつぬしのみこと)」、「玉依姫命(たまよりひ

めのみこと)」の四柱で、これを春日大明神と称しております。



境内社 白 太 夫 社(しらたゆうしゃ)



白太夫社は、もともとこの地の西北の入り口にあったのを、ここに遷されました。

白太夫は、「松本春彦命」といって、伊勢豊受大神宮の神官であったそうですが、生まれつき頭髪が白く、人々から「白太夫さん」と呼ばれていたそうです。

菅原道真の知遇を受けた人で、天満宮の末社に祀られております。

社殿の前の 「砂 盛 り」



社殿の前には、砂盛りがあります。

これはお正月を迎えるためのお清め砂で、毎年12月28日に当番によって盛られております。

阪神地区で、これまでに砂盛りが確認されたのは、西宮市の厄神天神社と、宝塚市の長谷素盞鳴神社、と

当社の3社です。




ご参考 : 宝塚市口谷西三丁目28番
      阪急宝塚線 山本駅 南東に18分

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宝塚市、小浜(こはま)皇太神社(こうたいじんじゃ)のご紹介です。



御  鎮  座  地


当社は、宝塚市の中ほど、小浜の宿の西端に鎮座されています。

昔の、攝津國川邊郡小濱村で、かつて「海の堺、陸の小濱」と呼ばれ、有馬・西宮・京伏見各街道の交差

点、宿駅として大変栄えていたそうです。

また、2〜3世紀頃は、地名の「小浜」が示す通り、武庫の海が深く入込んだ小さな浜であったそうです。



御  由  緒


御由緒について、当社の伝えによると次の通りです。
当社の創建は、嘉吉元年(1441)と伝えられている。

古い社で、伊勢神宮の御靈を御招授し神社名も皇大神社と称し氏神となられた。

『身佐神社(美座神社)』:身佐呉公が奈良県高市郡春日香村の牟佐坐神社とある地より集落を築き、天武天皇側に付き、軍を指揮した。

敵軍に当る近江軍と戦い勝利に導いた為に天武天皇のお気に入りとなり、天皇を生靈の神として祀る。

日本書紀に、「春日香の見佐と小濱の見佐二社に天皇生靈の神に祀る」と記入されている。
 

大正元年(1912)、美座地区で大洪水が発生し、身佐神社は大破する。

それにより小濱皇太神社と身佐神社は合祀される。

この時、小濱住民全員の外出禁止・全棟の消灯が勧告され、その中、身佐神社御神体が小濱皇太神社に移送された。

身佐神社と合祀された事により、小濱皇太神社は、伊勢神宮の御靈を御招授し村社となり、現在の小濱皇大神社と名を変える。


御  本  殿

本殿は、覆い屋の中に納められており、見ることが出来ません。

最後の写真の新聞記事の通り、2006年(平成18年)に創設された『兵庫県登録有形文化財』の基準に合致し

たとして、に同年12月23日、同文化財創設後初の登録建造物となりました。


大  鳥  居


この大鳥居は、2006年10月の台風で倒壊し、再建されたもので、一見木造の神明鳥居ですが、材質は、「硬質プラスチック」で製作されています。

今後、この様な鳥居がふえてくるのでしょうか。



ご参考   :宝塚市小浜5丁目4−4
       阪急宝塚線  清荒神駅  南東へ15分

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宝塚市、売布神社(めふじんじゃ)のご紹介です。



御 鎮 座 地


当社は、宝塚市の中央の売布山手町に鎮座されております。

この地は、旧米谷(まいたに)村で、伝説の中に、売布神社(めふじんじゃ)は、米谷村の北部、長尾山山麓の突き出た所、猪名野を一望できる丘陵にあって、神の座す神奈備山に鎮まっています。とあります。


御  由  緒


境内の由来書きには次の様に書かれております。

今から約1380年前の推古天皇十八年の御創建で、御祭神は下照姫神(したてるひめ)(大国主命の姫君)とその夫君の天稚彦神(あめのわかひこ)をお祀りしています。

当地に来られた下照姫神(したてるひめ)は、飢えと寒さで困窮している人々を見て、稲作りの技術を伝え、麻を植えて布を織ることを教えました。

その後豊かな生活を送ることが出来た里人は、その御神徳を慕い、ここにお祀りしました。

社 号 標 石(しゃごうひょうせき)


説明書きに

八代将軍徳川吉宗のとき、並河誠所(なみかわせいしょ)は寺社奉行大岡越前守忠相より畿内の地誌編集を命じられた。

彼は宝塚市域内の調査の際、地元で「貴船大明神」と呼ばれていたこの神社が、延喜式の神名帳に記される売布神社であることを明らかにした。

そこで元文元年(1736)、この神社の社号を正す為にこの標石が立てられた。
と書かれています。




ご参考   :宝塚市売布山手町1−1
       阪急宝塚線 売布神社駅 西に300m 5分

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宝塚市、川面(かわも)皇太神社(こうたいじんじゃ)のご紹介です。


鎮  座  地

当社は宝塚市の市街、中心地の阪急・JR駅から北東に800mの御殿山の裾に鎮座されております。

旧川辺郡安場村で、現、川面町の住宅地の中に広い鎮守の森が残されております。


御  由  緒


当社の由緒については文献その他によって様々で、「宝塚市川面 皇太神社沿革史」(前田武治氏著作1982)には次の様に書かれております。
由 緒、 

御由緒については、謎の多いところで、その謎を理解するために、この本即ち「皇太神社沿革史」

を書いたのであります。

それ故に皆さんはこの沿革史を読んで、読者自身が御由緒を心の中に体得して形成して頂きたい。

そして私達の祖先から受継いだ守護神・皇太神社を心から御信奉頂いて、平和な住みよい郷土を

つくって頂きますことを最大の念願と致します。


この「皇太神社沿革史」は233ページあり、全部読みましたが、結局系統立ててまとめることが出来ません。

参道石段入り口の、由緒書き(最後の写真)をご参照ください。


本  殿


本殿は角パイプ鉄骨造りの覆い屋に納められているので全容は見えません。

兵庫県神社誌によりますと、「桧皮葺き春日造り」で享保六年(1721)再建、寛延四年(1751)に修復とされています。

阪神大震災で破損、棟木などを取替え原形通り修復し、覆い屋を新築されたました。


皇太神社(祭神:天照皇大神)であるのに、本殿が「神明造り」ではなく、「春日造り」なのは、元は明城大明神であったり、多田神社或いは赤白神社(八幡神)が前身であったからのようです。


石  鳥  居


この鳥居は「明神鳥居(みょうじょうとりい)」で(鳥居のいろいろ参照)皇太神社(祭神:天照皇大神)の「神明鳥居(しんめいとりい)」ではありません。

これも本殿と同じいきさつですが、この鳥居は年代不詳ですが、隣の伊丹市中野の神社から譲り受け、村人総出して6kmの道のりを運んだそうです。


境  内  社


境内には9社の摂社・末社がお祀りされていますが、その中で「明城神社」と「多田神社」は明治維新の際に、皇太神社(天照皇大神)を勧請するにあたり、本殿から出されて境内社としてお祀りされております。


狛犬の台座に盃状穴


全国的に狛犬の台には盃状穴が見付かっていないと云われておりますが、当社に穿がかれています。

兵庫県阪神地区周辺の神社約500社の調査の中で、芦屋神社に次ぐ2例目です。


ご参考  :宝塚市川面四丁目7−6
      JR・阪急 宝塚駅  北東に800m 

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