神社巡り、宝塚市

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宝塚市、大梵天王宮(だいぼんてんのうぐう)、川面神社(かわもじんじゃ)のご紹介です。



御 鎮 座 地


当社は宝塚市の市街、中心地の阪急・JR駅から東に900mの宮の町に鎮座されております。

旧武庫郡川面村で、武庫川左岸の辺にしたところから川面(かわも)村の地名となったようです。

御  由  緒

当社の創始は明らかではありませんが、伝承として次の様にいわれています。
当社は延暦十三年(794)三月の創建で、高皇産霊(たかみむすび)、神皇産霊(かみむすび)の
二柱を祭神としてあがめ、祭祀しました。

寿永年間(1182〜1184)社名を大梵天王宮(だいぼんてんのうぐう)と称して、神弁山・法楽寺を建立して、社僧別当をはべらせ、当社の勢力を誇りました。

明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、法楽寺を廃寺して、祭神に天照大神を正殿に祀り
社名も皇大神宮と改称しました。

その後、大正四年(1915)に地名をとり、川面神社(かわもじんじゃ)とされました。

当 社 は 出 世 神 社


当社の西方には、宝塚歌劇などが近くにあり、宝塚歌劇生や音楽学校の生徒には出世神社と言われており、参拝も多いそうです。

木 製 の 消 防 ポ ン プ

拝殿の右側の壁際に、ケヤキ材で作られた手押し式の消防ポンプが吊り下げられています。

側面に明治十六年(1883)十月吉日と書かれています。

どのくらい水が飛んだのでしょうか。


ご参考  :宝塚市宮の町11−7
      阪急宝塚駅・JR宝塚駅  東に12分

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宝塚市、安倉(あくら)住吉神社のご紹介です。


御 鎮 座 地

本神社は、宝塚市の南部、旧武庫郡安倉村、「誉田別安倉(ほんだわけあくら)の森」に鎮座されております。

昔この辺りまで大阪湾の入り江が入り込んでいて、船の出入りがありました。
当社の境内は一段と高い丘で岸辺に位置していました。

現在は、市福祉センター、ペイント工場、住宅団地などが混在しています。


御  由  緒

当社の創建は不詳ですが、境内の説明書きには次の様に書かれています。
住吉大神は先史時代、猪名野(いなの)に現れ荒ふる神々を鎮めて、この地に宮柱をたてられました。

大神は国家鎮護の神、航海守護の神、和歌の神として崇敬されています。

第15代応神天皇(誉田別命・ほんだわけのかみ)が、この地で狩猟され住吉神社の森にて馬の鞍を
休められた故事により「地名を安鞍(あくら)誉田別安鞍住吉神社と称する」と伝承されています。

上古、武庫の水門(みなと)には諸国の船があい宿り、大変賑わいました。

この水門の奥に位置する安倉の郷も、早くから開け大陸との交流により、高い文化が創造され発展し
ました。

船が最高の交通手段であった時代、軍事、交易の基地としてこの地が重んじられ、航海する人たちの
安全守護の祈願の神社として尊敬されたことが、現存する安倉高塚古墳や出土遺品、当地諸守院の
故事伝承等によりうかがうことができます。


ご参考 :宝塚市安倉中二丁目10−10
     阪急宝塚駅  阪急バス 総合福祉センター前 東に2分

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宝塚市、鹿塩(かしお)熊野神社(くまのじんじゃ)のご紹介です。


御  鎮  座  地


当神社は、宝塚市の南部、西宮市との境界の武庫川の支流、仁川(にかわ)北600mに鎮座されております。

境内のすぐ東側には阪急今津線が走っています。

この地の昔しの地名は、「武庫郡 良元(りょうげん)村、大字鹿塩(かしお)字宮ノ西」で、鹿塩の由来は今も伝説として語り継がれております。

後出の、[当社の地名「鹿塩の里」の伝説]をご覧ください。
 

ご  由  緒


当社の創建は不詳ですが、平安時代末期頃かと考えられています。

神社誌には、創立年月不詳明治六年八月村社に列せられる。

祭神、伊邪那美之命(いざなみのみこと)、火迦具土之命(ひのかぐつちのみこと)と記されています。


当神社の地名「鹿塩の里」の伝説

奈良時代のころのことです。都のある奈良の春日大社には、各地域から鹿が神の使いの手伝いをする
ために集まっていました。

この鹿塩の里にも鹿がたくさん住んでいて、そのうちの一頭の雄鹿(おじか)が春日大社へかけつけ
ていきました。

この年もまた、里の熊野神社のお祭りの日が来ました。お祭りの日には毎年、春日大社の使いが、
お供物を持って来るならわしになっています。

祭り太鼓がなりだすと、太鼓の音に呼び寄せられたように、雄鹿と雌鹿(めじか)がやってきました。 

背中にいっぱいのお供物を積んでいます。雄鹿はこの里の鹿で、春日大社の神様の使いを受け、雌鹿を
連れて 久しぶりの里帰りです。
 
熊野神社の神様にお供物を渡すと、二頭の鹿は祭りの輪に加わりました。里の人たちは労をねぎらい、
珍しいものを たくさんごちそうしました。

里の人々の歓迎を受け、謡(うた)い踊っているうちに雌鹿は旅の疲れが出たのでしょう。眠ってしま
いました。
雄鹿は、寝ている雌鹿を起こすのはかわいそうと、そのままにして、昔の友達に 逢いに出かけました。

しばらくして目を覚ました雌鹿は、雄鹿がいないのでびっくりして、あちこち探しましたが、いくら探
しても雄鹿は 見つかりません。

知らない土地です。心細く、かなしい思いで神社の裏山まで来ると井戸がありました。のどのかわきを
覚えた 雌鹿は、かけよって井戸を覗きました。

するとなんと、そこに雄鹿がいるではありませんか。!!

喜びの声を一声あげると雌鹿は井戸に飛び込んでしまいました。 水面に写った自分の姿を、探していた雄鹿と見間違えたのです。 疲れていた雌鹿はおぼれて死んでしまいました。

そのことを知った里の人たちは大変悲しみ、雌鹿のしかばねを丁寧に塩で包んで、

 「か な し く も  み る や 雄 鹿 の  み ず か が み」

という歌を添えて、春日大社へ送り返しました。

それからしばらくして、帰ってきた雄鹿は、雌鹿のことを聞いて大変悲しみ、自分のおろかさを悔や
みましたが、雌鹿は帰ってきません。食べ物も食べず、井戸の回りをウロウロするばかりです。

ある朝、里の人が行って見ると、井戸を抱くようにして雄鹿は死んでいました。
里の人たちは二頭の鹿の愛情の深さを思い、塚を建てて霊を弔いました。

その塚を「鹿の一里塚」と言います。そして雌鹿を思い、お祭りには塩を一切 使わなくなったことから、このお祭りを「しおたち」・「しおたち祭り」と呼ぶようになりました。

そして雌鹿の覗き込んだ 井戸を「鹿の鏡井戸」として今に伝えています。

また「鹿塩(かしお)」の地名も鹿を塩付けにしたところから、付けられた名であるとされています。


ご参考 :宝塚市仁川台1番7
     阪急今津線  仁川駅 北に10分

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宝塚市、蔵人(くらんど)素盞鳴神社(すさのおじんじゃ)のご紹介です。


御 鎮 座 地

当神社は、宝塚市の南部、西宮市との境界の仁川から、1kmほど北の旧蔵人村(くらんどむら)地区、現在の、高司(たかつかさ)町に鎮座されております。

南には阪神競馬場があり、東には武庫川が流れ広々とした平地となっております。

御  由  緒

当社の創建は不詳ですが、説明書きには次の通り書かれております。
かっては蔵人村(くらんどむら)は、武庫川のたび重なる決壊で、多大な被害を受け、古老達が集まり、
氏神として、素盞鳴命(すさのおのみこと)を奉斎し祈願したのが縁起といわれています。

当神社地は、孝徳天皇の御行座所の近くにあったことから、今でも美幸とか高司、御所の前等の地名が 残っています。
 

御 本 殿 は 1 7 世 紀 初 頭 の 建 立

本殿は覆い屋の中に納められており、外部からは見ることが出来ませんが、説明板には次の様に書かれております。
享保七年(1722)「蔵人村寺社改帳(くらんどむら、じしゃあらためちょう)」に

「本社表四尺五寸 御拝有 杮葺(こけらぶき)」と記されて、その寸法が現在のものと

合うことから、当時すでにこの本殿が存在していたことが確かめられる。

様式からみると江戸時代初期(17世紀初頭)の建立と推定できる。

細部手法にも桃山時代(16世紀末)のすぐれた手法がみられ、保存状態も良好である。

また本殿の左右にある相殿も17〜18世紀のもので、本殿を含め江戸時代の各時期の建築様式が見られる点でも貴重なものである。
「兵庫県指定重要有形文化財」


檻 の 中 の 狛 犬

本殿の裏側に、境内社が祀られておりますが、その並びに、狛犬が檻の中に入れられています。

これは、新しい狛犬に拝殿前の座をとられ、裏に追いやられた古い狛犬が、その恨みから毎夜毎夜、

境内を練り歩き、うなり声をあげるため、近隣の住民からの苦情が絶えず、やむおうえずオリを作り

収監したそうです。(NORIの独断と偏見の推察です)

この狛犬は砂岩で作られており、年代は不詳ですが、いい形をしておりますが、震災で破損したため接着修復がされたもので、風化破損を防ぐために屋根がつけられ、囲いの中に保存されています。

当社の氏子の方々の、暖かみのある心つくしが伝わってきます。


境 内 の 石 祠 に 丸 石 神

本殿の裏に石積みされた台の上に、石祠(いしほこら)があり、その中には大小の丸石があります。

丸石信仰は甲府盆地、山梨県が中心とされていますが、この関西地方にも稀に見られます。

神戸の神社では4社、芦屋・西宮で1社、そして宝塚でこの1社が確認されていますが、まだ他にあるかも知れません。



ご参考 :宝塚市高司二丁目160
     阪急今津線 小林駅下車  東に12分

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宝塚市、宝塚神社(たからづかじんじゃ)のご紹介です。


御 鎮 座 地

当神社は宝塚市の南部、旧大字小林地区の中心地、現、社町(やしろちょう)に鎮座されております。

南北に走る県道337号線より西に向かっての参道入り口から400m入った所に阪急今津線がありその線路沿いを上がったところが行者山で、当神社の境内と北隣に平林寺があります。


御  由  緒

当社の創建は不詳ですが、元は日吉神社(ひよしじんじゃ)で、「山王権現」と呼ばれ広く村人に崇敬されてきました。

かっては北隣の「平林寺(へいりんじ)」と境内が一体で、創建も同じ頃(用明天皇の御代585〜587)とも云われています。

東下に、素盞鳴神社がありましたが、日吉神社(山王権現)と素盞鳴神社を合祀し、昭和40年(1965)に宝塚神社となりました。


北 隣 の 平 林 寺(へいりんじ)


平林寺は、用命天皇(山法585〜587年)の命により聖徳太子が建てたと伝えられている真言宗のお寺で、山号を武庫山といい、花山天皇(かざんてんのう)によって始められたとされる摂津国三十三所観音霊場の2番札所や、摂津国八十八所の第73番札所として知られており、4ケ寺の塔頭があります。

本尊は十一面観音菩薩立像で、薬師如来や釈迦如来座像(宝塚市指定有形文化財)も有名です。

境 内 社、 宝 塚 恵 比 須 社 (たからづかえびすしゃ)


当社は素盞鳴神社の末社で、昭和40年の合祀の際に、商工会、商店街の人々によって、宝塚えびすと称されて当地に移転されました。

この立派な社殿は、宝塚市の清荒神清澄寺の三宝大荒神の祀られていた社殿を移築復元されたものです。

(清荒神清澄寺は後日ご紹介します)

夫 婦 和 合 ・ 子 授 け の 石


正保二年(1645)一月に奉納された石柱(男の形)と、ハートの形の女石が置かれています。

これを、「夫婦和合・子授けの石」とされています。

ハートの形の女石には、子供を授けてほしい願いを込めて祈願したと思われる、盃状穴が穿かれています。

多 数 の 盃 状 穴

当社にはこの地方では少ない盃状穴が数多く穿かれております。

参道入り口の灯籠、北入り口の灯籠、社務所前の古い手水鉢、子授けの女石、など多くの盃状穴があります。


ご参考 :宝塚市社町4番8号
     阪急今津線 逆瀬川駅下車  南へ徒歩約8分

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