正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現

嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!日本国民党を応援します。

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

イメージ 2

写真(上)
当時の上海バンド(埠頭近く中心街)。上海は人口300万人で米、英、日などの共同租界とフランス租界があった。
1937年8月、支那軍は、共同租界(国際租界)の日本人居留区を包囲攻撃し、更にホテルやデパートを爆撃した。

写真(下)
日本海軍航空隊の九六式陸上攻撃機
1937年8月、台湾や九州から、南京や上海や杭州へ、世界初の長距離「渡洋爆撃」を敢行した。



蒋介石は、西安事件でソ連に降伏して対日戦に合意し、上海郊外の非武装地帯に多数のトーチカを建設し始めた。

これは盧溝橋事件よりも、かなり以前から始めていたことだ。

盧溝橋事件が起こると、蒋介石は戦争準備を本格化させ、ドイツ軍将校指導の下、7万のトーチカからなる巨大要塞を建設し、上海から南京に至る途中にはヒンデンブルクラインなる防御線を完成させた。

その上で、上海の外側に、遠巻きに保安隊を配置し、徐々に包囲網を狭めていった。

その頃、保安隊の進出で戦争を察知した住民は外国租界へと避難を始めていた。

これを裏付ける物として、毎日新聞社刊『大日本帝国の戦争2太平洋戦争』に8月6日の日付けで"住民が外国租界へ避難している"写真がある。



一方、そんな事とは知らない日本は、通州で日本人居留民約260人が大虐殺されてから10日も経っていないのに、支那へ和平を持ちかけた。

しかも、その条件は信じられないほど大幅に譲歩したものだった。


この時の日本側の和平案は以下のとおり。

――――――――
(日本の和平案)
・塘沽協定の解消
・梅津−何應欽協定の解消
・土肥原−秦徳純協定の解消
・冀察政権の解消
・冀東特殊貿易の廃止
・非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
・華北における自由飛行の廃止
・支那側が要求すれば上海停戦協定をも解消
――――――――


日本が如何に戦争をやめたがっていたかは、この大幅に譲歩した和平案を見れば明白である。


ところが、8月9日に予定されていた和平会談は、当日、支那が海軍陸戦隊の大山中尉を上海の虹橋飛行場近くで惨殺してぶち壊した。



実は、この日は、揚子江の奥地から居留民が陸戦隊ともども上海に引揚げて来ていた日だった。

大山中尉は、周辺地区の巡回に行き、虹橋飛行場近くで、進出中の保安隊に遭遇して殺された。

日本側は支那に抗議したが、日本に責任をなすりつけて取り合わなかった。


支那いわく「大山中尉が支那兵が止めるのも聞かず、衛兵を拳銃で撃ち殺して飛行場に押し入ったので射殺した」。

大山中尉は拳銃を持っておらず、運転手の斉藤水兵は持ってはいたがホルスターに入ったままで殺されていたのに。

大山中尉と運転手の斉藤水兵の車は機関銃で蜂の巣にされ、中尉は車から引きずり出され、銃剣で胸を刺され、かつ大刀で頭を割られていた。

大山中尉惨殺事件と、その後の支那側の態度に危険を感じた海軍は、警備のために陸軍の応援を要請したが、不拡大方針を頑なに貫こうとする参謀本部の石原完爾少将は「上海に陸軍を出すと戦火が拡大するので出せない」と断った。



仕方がないので海軍は、陸戦隊を1,200名程増派したが、追加の陸戦隊が上海に着いた8月11日には、既に国際租界の日本人居留区は支那の保安隊に包囲されていた。

その夜のうちに支那軍は上海付近の鉄道の民間使用を禁じて軍用に切り換えて国際租界に向けて12万の大軍を送り込んだ。

8月12日、上海に送り込まれた支那の大軍は、日本人居留区を包囲していた保安隊に取って代わった。

当時、上海にいたのは海軍陸戦隊4,000名のみで、とても支那の大軍を相手に出来なかったため、海軍は改めて陸軍の派遣を要請した。


緊迫した情勢の中、8月13日、日本政府はやっと陸軍の派遣を決めたが、これから準備するために到着するのに約20日は掛かる。

したがって、海軍陸戦隊には、「絶対に先に手を出すな」と指令したが、この日に支那軍は上海への攻撃を開始した。


翌14日には支那軍が上海市街を爆撃し、キャセイホテルやパレスホテルにも落ち、支那人や外国人に大量の死傷者を出した。



あまりの暴虐さに日本政府は「暴支膺懲」を宣言し、海軍は台風の中、日本から直接爆撃機を飛ばして南京などにある支那軍の飛行場や前線基地を叩き、上海などに居た日本人の命を永らえさせた。

これが世に言う『渡洋爆撃』






8月9日、和平会談の予定だったが、海軍陸戦隊の大山中尉が惨殺される。
8月12日、蒋介石軍が上海の国際租界の日本人居留地区を包囲
8月13日、蒋介石軍が攻撃開始
8月14日、支那軍が上海市街のホテルなどを爆撃。この爆撃を日本軍の仕業と世界中に宣伝
8月23日、支那軍が上海のデパートを爆撃。この爆撃も日本軍の仕業と世界中に宣伝

8月〜11月、【上海戦】(支那事変最大の激戦)




これが「第二次上海事変」と言われる上海戦の始まりであり、その後も長く長く続く戦争の始まりだった。







8月13日追加

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070813-00000001-scn-cn

【中国】【今日は何の日】1937年:第二次上海事変が起きる
8月13日8時16分配信 サーチナ・中国情報局

 1937年8月13日、第二次上海事変が始まった。

 同年7月7日に起きた盧溝橋事件をきっかけに、華北では日本軍と中国軍(国民政府軍)が衝突。上海でも緊張が続いていた。

 8月9日、日本海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉と、運転手の斉藤要蔵一等水兵が車に乗って中国の軍用空港だった上海虹橋飛行場に向かったところ、共同租界用の自由通行路上で中国保安隊隊員との間で銃撃戦が発生。日本側は大山中隊長と斉藤一等水兵が死亡、中国側は保安隊の隊員1一人が死亡した。

 これを受け、日本総領事は上海市長に対し、国際租界とフランス特権区域の隣接区域からの中国保安軍の一時撤退を提案。しかし12日、中国正規軍が上海国際共同租界の日本人居住区域を包囲した。

 英米仏政府は上海での戦闘を避けるため、日中政府に対して直接交渉を勧め、事態の打開策を提案した。しかし13日、現地上海で国民党軍と日本軍の衝突が発生。黄埔江の日本艦隊は中国軍を砲撃した。

 15日、日本側は正式に松井石根大将を司令官とする上海派遣軍を編成。これにより、日中戦争は本格的に華中にまで拡大した。

 以降、日中両軍は3カ月にわたり激戦を展開。兵力は中国側が上回っていたが、日本側が制空権、制海権を握り、10月26日、上海近郊の要所である大場鎮が陥落。国民党軍は南京方面に撤退し、11月、上海は日本軍によって占領された。

 なお、「第二次上海事変」とは、1932年に上海で起きた日本人僧侶襲撃事件を発端とする日中の衝突を「第一次上海事変」と呼ぶのに対し、区別して「第二次」と呼ぶ。9日に虹橋飛行場で発生した銃撃戦をもって「第二次上海事変」の始まりとする場合もある。
(編集担当:梅本可奈子・如月隼人)







人気ブログランキング
https://blog.with2.net/in.php?671525

くつろぐブログランキング
http://kutsulog.net/index.php?id=66431

1日(0:00〜24:00)1回以上クリックよろしくお願いします


  ∧_∧
 ( ・∀・) よろしく ↑
 ( ∪ ∪
 と__)__)

閉じる コメント(29)

顔アイコン

侵略を受けた側が譲歩的な提案をするというなんとも不思議な外交ですね。
今で言うなら紅の傭兵得意の土下座外交を見ているようです。
これで「日本に勝てるんじゃないか」と蒋介石は間違った判断をしたのでしょうね。ポキ

2007/8/13(月) 午前 10:32 [ - ] 返信する

[ 平和主義者 ]君。

学べ!

民衆を虐殺する支那軍・民衆を救出する日本軍
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12624238.html

支那の「極悪暴虐・大虐殺」と「卑怯な逆宣伝」のまとめ
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12704324.html

2007/8/13(月) 午後 0:19 coffee 返信する

[ ESW ]さん。鳥越俊太郎の731部隊ネタオナニー番組は見逃しました。
731部隊については、こちら↓にまとめてます。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/13578503.html

2007/8/13(月) 午後 0:22 coffee 返信する

[ 平和主愚者をぶち殺す! ]さん。同感です。

2007/8/13(月) 午後 0:24 coffee 返信する

[ 天馬 ]さん。同感です。

2007/8/13(月) 午後 0:25 coffee 返信する

顔アイコン

こんにちわ 僕もちょうど同じテーマで書こうとしていましたが、選挙が気になって記事が書けませんでした 通州時件は上海事変の陽動作戦だったとの仮説 論評下さい[http://blogs.yahoo.co.jp/ureeruhiroshi/folder/1591617.html

2007/8/13(月) 午後 2:29 ure*ruh**oshi 返信する

顔アイコン

改めてじっくり読ませていただきました 資料もふんだんにもちいられ大変参考になりました これはしてやられたと思って日付をみたら一日遅れでしたか 言い訳になりますが、基本的に親中派の僕としては気が進まなくて記事にするのが遅れてしまいました

2007/8/13(月) 午後 2:38 ure*ruh**oshi 返信する

[ greenthub232 ]さん。コメント欄への投稿でエラーが出るときには、いったん、一番下の「この記事のURL」をクリックしてからコメントし直すと行けることが多いようです。

歴史検証ですが、先ほど、東京裁判に関する「NHKスペシャル」を観て怒り心頭に発しています。
NHKに抗議文を書いて郵送する予定です。

2007/8/14(火) 午前 0:19 coffee 返信する

[ kanazawa_sanetoki2004 ]さん。日本は昔から大幅譲歩が外交の基本政策だったようです。
傑作のポキありがとうございます。

2007/8/14(火) 午前 3:37 coffee 返信する

勉強になります★ぽち!

2007/8/19(日) 午後 8:53 naomi_shararan 返信する

顔アイコン

日本がシナと朝鮮に施した恩恵を思えば、シナ人も朝鮮人も恥ずかしくて何も言えないだろう。 削除

2007/8/22(水) 午後 9:03 [ mistynippon ] 返信する

日本人が半島にしてやったコトを思えば、韓人は黙って
ケツを出すしかないと思う。

www僕もやってみましたwww

2007/8/22(水) 午後 9:39 [ ぷーすけ ] 返信する

[ mistynippon ]さん。正論です。

2007/8/26(日) 午前 2:31 coffee 返信する

顔アイコン

こんにちは(^o^)丿
トラックバックさせていただきました。

2007/8/26(日) 午後 0:18 sakurazake 返信する

歴史の真実をお届けします。
http://blogs.yahoo.co.jp/tctbx135/11301294.html

2008/5/7(水) 午後 8:13 パパイヤ 返信する

顔アイコン

ご苦労様です。以下の点を訂正願います。
蒋介石は西安事件でソ連に降伏して対日戦に合意、上海の郊外に半年かけて7万のトーチカからなる巨大要塞の建設を始めた。これは盧溝橋事件の後ではない(時間がないから)。盧溝橋は陽動作戦に過ぎなった。参考HP:http://www3.plala.or.jp/tkyokinken/ 削除

2008/10/4(土) 午前 11:17 [ 近代史家 ] 返信する

顔アイコン

[ 近代史家 ]さん
同じ見解でしたので、その辺の部分を修正しておきました。
ありがとうございました。

2008/10/11(土) 午後 0:05 coffee 返信する

顔アイコン

>大山中尉は拳銃を持っておらず、運転手の斉藤水兵は持ってはいたがホルスターに入ったままで殺されていたのに。

とあるが、ではなぜ中国側の人間にも被害がでているのか?
それを説明していない時点でこの記事は信憑性がないことがわかる。

2009/1/1(木) 午後 5:32 [ mik*ste** ] 返信する

顔アイコン

1937年8月14日
中国軍爆撃機から2つの爆弾がチベット通りが国際共同租界とフランス租界との境界線であるエドワード7世大通りと交差する場所に落とされる。
直ちに巨大な炎が起こり、激しい爆発となり、5人の外国人を含む850人が負傷し、450人が死亡、12台の自動車が破壊。
さらにもう一対の爆弾がキャセイホテルとパレスホテルの間に落とされる。爆発で12人の外国人を含む数百人以上が死傷。

およそ1,000ポンドの重さだったと見られる爆弾が半径50メートルの範囲を壊滅させた。犠牲者の大部分は、その服は完全に引き剥がされ、体はバラバラにちぎれた。

その31分後には、婦女子の避難所となっていた大世界娯楽センターに2発の爆弾が落とされ、1,012人が死亡し、1,007人が負傷。
この一連の爆撃で海外要人が多数犠牲となった

2017/2/18(土) 午後 2:26 [ 日中国交正常化45年南京80年に学ぶ ] 返信する

顔アイコン

日本を激怒させ国民党政府軍と戦争をさせる為に、同年七月二十九日、中国保安隊によって日本人婦女子を含む二百二十三人が残虐に虐殺された「通州事件」や、同年八月九日に起こった「大山大尉惨殺事件」、更には、1937年八月十三日、国民党政府軍に潜入していたコミンテルンのスパイである南京上海防衛隊司令官の張治中(ちょうじちゅう)の謀略によって、上海に合法的に駐留していた日本海軍陸戦隊四千二百人に対して、三万人の国民党政府軍が総攻撃を仕掛けた第二次上海事変を起こすなど、中国は日本に対して次々に挑発を繰り返し、それまで自重し冷静な対応を取っていた日本も、中国との全面戦争を余儀なくされたのであり、不当に日本が中国を侵略したわけではない。

上海事変で勝利した日本軍は、敗走する国民党政府軍を追撃し、国民党政府の首都であった南京を攻略し、同年十二月十三日に南京占領。このとき敗残兵が住民に対して略奪、虐殺を行なった。
それらの敗残兵が民間人の衣服を奪って便衣兵(ゲリラ)となったことから、日本軍は便衣兵の掃討作戦を行った。
『本当の日本の歴史 理論近現代史学』より引用

2017/2/26(日) 午前 8:41 [ 環境や正義の友達 ] 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(1)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事