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永遠の0

わたしの夫はプロペラ機のプラモデルをつくるのが大好きで、かなりのマニアなんですね。押し入れがプラモデルで一杯になるほど持ってるし、作り方も凝ってて、たとえば、一式陸攻(大日本帝国海軍一式陸上攻撃機)をつくるのも、どこからか、設計図を手に入れて、リベットの一個一個まで再現するマニアっぷり(笑)日本の飛行機だけでなく、海外の飛行機も作るんで、第二次世界大戦関係の資料が我が家にはけっこうあります。その上、わたしも、いろいろ思うところがあって、現代史関係の資料をつい集めちゃうたちで、二人あわせて、いろんな資料がごちゃごちゃとあるわけです。

以下の写真は、そのホンの一部(笑)『永遠の0』ということで、太平洋戦争、特攻、真珠湾攻撃関係を引っ張りだしてみました。


イメージ 1


『永遠の0』というのは百田尚樹さんの小説で、太平洋戦争末期に特攻で亡くなった祖父の足跡を、現代を生きる孫が、彼を知る証言者を探し出し、たどっていく物語。

イメージ 2


だいぶ前に出た本なんで、あらすじはアマゾンやネットの書評にまかせるとして、現代史に興味のない若い方などが読むのには、ぴったりの入門編だと思います。著者が膨大な資料を読んで得た知識を小説形式で伝授してくれるので、言葉も平易でわかりやすいし、ちょっとした謎解きもあるので、楽しめるし、私としては、『新感覚☆零戦エンターテインメント』って感じでした。

本音を言えば、ちょっと「軽いなあ」とは思いました。百田さんは、相当資料を調べてるのはわかるんですが、本文中の多くのエピソードがどこかの資料で読んだ気がする内容で、史実に忠実といえばそうなんですが、資料で調べた内容を証言者に語らせるという手法もちょっと安易だと思うし、歴史小説を書くなら、著者独自の斬新な見解や仮説などを盛り込まれたら面白いだろうにと思うのですが、そういうところもあまりないし。もう少し、掘り下げて欲しかった気もします。

例えば、本文中に、宣戦布告遅延についてあるのですが、当時の駐米大使館の対応について、大使館員の転任パーティーがあり、その影響で本国からの最後通牒の訓令を暗号解読し翻訳する作業が遅れ、米国務省への通達が真珠湾攻撃の30分前という予定にもかかわらず、実際には真珠湾攻撃の後に手交され、これによって真珠湾攻撃が宣戦布告なしの卑怯な奇襲攻撃(だまし討ち)といわれるのは、大使館員の怠慢のせいだという、よく知られている通説を書かれてますが、これも、最近は諸説あるんですよ。

私は、個人的な見解ですが、この通説は怪しいって思ってるんですけどね。どうしてかって、以前『日本人のシンドラー』と呼ばれる杉原千畝さんの資料を読んだことがあるのですが、当時の外務官僚ってものすごく優秀なんですよ。で、対米戦争を避けるべくギリギリの交渉をしている大使館員が、そんな間抜けなミスをするものかなあ?本当はなにか裏があるんじゃないの?って、そんな風に思うんですね。『永遠の0』が出たあとですが、当時の大使館員の子孫の方が、この通説に反論する本も出してるようなんで、こんど、読んでみようかなと思ってるんですが。

また、特攻と呼ばれる攻撃についても、単なる人命軽視の無謀な作戦でなく、真意は別のところにあって、戦況が悪化して、敗戦が濃厚になってきた状況下で、天皇陛下から講話のご聖断を引き出す狙いもあったという説もあるんですね。国民が体当たりの特攻をしなければならない最悪の状況に対して、慈悲深い陛下が「連合軍と講和しよう」と言い出す事を期待したと。当時の日本で「戦争を終わらせよう」と言える日本人は、天皇陛下しかいなかったんですね。もし、大臣クラスが言ったとしても、憲兵に捕まって殺されるだろうし、たとえ皇族でも命の保障はなかっただろうと思われるような世相だったそうです。

これについては、私は『図説 特攻』で読んだのですが、詳しく書いているサイトをみつけました。


★大西瀧治郎中将特攻作戦の真意
(『神風』様のサイトより http://www.geocities.jp/kamikazes_site/index2.html


そう言う訳で、定説が常に正しいとは限らないので、まあ、そういうところも表現されたら面白かったかなと思いました。ただ、知人が言うには『本書のテーマのひとつが「特攻隊員は狂信的な愛国者」というレッテルを外すこと』だそうなんで、そういうことなら、この本を読めば、かなり、レッテルは外されるのではないかと思います。

というか、今の世の中「特攻隊員は狂信的な愛国者」という風に思っている人が多いんですか?もしそうなら、そっちの方が、私としてはビックリです。

ただ、『9,11同時多発テロ』を『特攻<カミカゼ>』および『真珠湾攻撃<パールハーバー>』と同列に考える人は、世界に多くいるので、その誤解を解くためにも、日本人として、しっかりとした見解を持っておく事は重要だと考えます。

『永遠の0』を読んで、歴史に興味のない若い皆さんが戦争や死について考え、どうしてそんなことになったんだろうと、自分で歴史を掘り下げてみるという気持ちになってくれたらいいなあと思いました。

とにかく、ジュニア小説感覚で、本当に読みやすいので、ぜひ、若い方に読んで欲しいです。

わたしも、生意気なことを書きましたが、戦争を知らない世代なんで、もっと、勉強をしないといけないと思います。世の中、難しいことばっかりですが、がんばりましょうね。

★永遠の0 百田尚樹(amazon.comより)


<以下、12/21に追記>

このエントリーを書いた後、もう少し調べてみたら、日米開戦の宣戦布告遅延に関して、2006年12月30日付の産経新聞で『日米開戦最後通告 外務省が公電を改竄 大使館に責任転嫁?』という見出しで、大使館の怠慢で最後通告が遅れたとの通説に一石を投じる独自調査を報告する記事が掲載されたらしいです。古い話なので、ブロガーの方が記事を全文転載しているものはみつけましたが、記事原文はネット上にはないようです。でも、鈴木宗男前衆議院議員がこの件について、国会で質問をしているので、それをリンクしますので、おおよその内容はわかると思います。

平成十九年二月二日提出
質問第三二号
一九四一年の対米開戦通告の公電に関する質問主意書
提出者  鈴木宗男

真珠湾攻撃の宣戦布告遅延に関しては、これ以外にも、奥深い話があるようなんで、なんというか、歴史っていうのは見えないところに、意外な真実が隠されているので、物事は複眼的にみないといけないなあと思います。

この記事のことも、鈴木宗男さんが質問していたことも全く知らなかったのですが、彼は、外務省の隠蔽体質をあらゆる角度から糾弾していたのですね。鈴木さんは、ご存知のように服役中ですが、お身体に気をつけて、また復活してほしいなあと思います。

わたしを離さないで

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読む。

普段、あまり小説は読まないのですが、映画化されたそうで、予告編をみると面白そうなんで、原作を読んでおこうと思った次第。

★映画『わたしを離さないで』公式サイト
http://movies.foxjapan.com/watahana/

この映画を紹介している土井ゆみさんのブログ『サンフランシスコ・シネマライフ』より
★2010-10-13 運命を生きる
http://d.hatena.ne.jp/doiyumifilm/20101013

土井さんのブログは愛読していて、米国の映画情報を一足さきに手に入れることができるので、いつも楽しみにしています。

で、本を読んだ感想なんですが・・・

先入観なしに読みたかったので、ネットの書評も読まなかったのですが、本の折り返しにあらすじが少し書いてあって、それを読んだだけで、もうどんな話か見えちゃったんですね。で、読んでみると、やっぱり予想通りの展開で、一読したあとは「期待したほどでもなかったなあ」と落胆したのですが、だんだん、あとから、じんわり「いや、そうでもないぞ、この小説。文字で描かれている表層でなくて、その奥にあるものを描くことなくあぶりだすこの手法はなんなんだ!」って感じで驚きました。

描かれている少年少女の無垢な感性が、純粋であるほどに、人間社会の業の深さと、おぞましさがみえてくるという、カズオ・イシグロが、描くことなく描いた世界に目を向けるほどに、ホロコーストのような歴史上のいろんな人間の残酷な所行を思い起こしたり、身近に起るエゴイスティックな人間の姿を思い起こしたりして、そういう、今、自分が生きているこの世のいろんな現象のメタファーがたっぷり詰まってるんですよね。

そのことに驚きました。

また、人間の運命について、逆らうことなく淡々と生きている、一見、消極的な生の中に、人間が人間であるための純粋さや真理があるのではないかというある種の問いかけもあって、その辺が、わたしには、深くしみ込みました。

最後に、カズオ・イシグロのインタビューがあったので、ご紹介します。小説や映画の秘密に触れる部分があるので、まだ、知りたくない方は、読まない方がいいと思います。ただ、その秘密を知ったからといって、小説や映画の面白みがなくなるという恐れはないと思います。秘密はそれほど重要ではなく、秘密の向こう側がむしろ大事なのです。

でも、やはり、これから本を読む方は、このインタビューは読まない方がいいでしょう。本を読んでから、目を通す事をお勧めします。

★カズオ・イシグロ/Kazuo Ishiguro
『わたしを離さないで』 そして村上春樹のこと

一種のミステリーとも読める最新作の意図とは?
日本で育った幼年時代から作家としての作法、最も気になる現代作家・村上春樹まで旺盛に語る。
(文学界 2006年8月号)

http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/kazuoishiguro.html

夜と霧

お正月、ゴールデンウィーク、お盆に二泊三日で実家に帰省します。年に九日。これが、家族の世話から離れて、ゆっくりできるわたしの休暇。

でも、実際のところ、実家に帰っても、ゆっくりできないのがかなしい。

いわゆる本家なので、今年は特に身内に初盆があり、遠方からの親戚を接待しないといけなかったし、お正月はお年始にやってくる親戚の接待があるし、ゴールデンウィークも亡くなった友人や親戚の命日が近いということでお参りにいったりと、いろんな用事がある合間に、普段会えない旧友と会食をしたりして、バタバタしているうちに終わってしまいます。

せっかくの休暇なんだから、本当はひとりでじっくりと本を読もうと思って、何冊も持って帰るのですが、せいぜい一冊読めたら御の字という感じ。

それでも、今回は、頑張りました!

ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』(新版/池田香代子訳 みすず書房)を読破しました!

やったー!

ずっと、読みたかったのですが、なかなか、没頭して読める時間がなくて、早く読みたいと、気になっていたので、嬉しいです。

ヴィクトール・E・フランクルは以前すこし紹介した『それでも人生にイエスと言う』の著者でもあり、『夜と霧』の内容については、わたしが今更説明するまでもないですよね。

本の原題が『心理学者 強制収容所を体験する」ということからわかるように、ナチスドイツの強制収容所での過酷な経験を、フランクル氏が精神科医としての心理学的な見地から振り返り、分析した本です。

『分析』というと難しそうに聞こえますが、新訳なので読みやすく、内容も誰が読んでもわかるものになってます。文章もそれほど多くないので中学生ならすぐに読み終えると思います。

この本では、人間の残虐な本性の恐ろしさ、そして、身体的、精神的な苦痛の極限状態における人間の崇高さ、という両極端な人間性があらわになります。

これほどの本の感想をわたしがつらつら書いても仕方ないので、本文の中で、特に気に入った箇所、こころが癒された一文を紹介したいと思います。




収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び覚ますことにより、満たされることができるのだ。わたしは生まれてはじめて、たちどころに理解した。天使は永久(とわ)の栄光をかぎりない愛のまなざしにとらえているがゆえに至福である、という言葉の意味を……。

(中略)

そしてわたしは知り、学んだのだ。愛は生身(なまみ)の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「本質(ゾーザイン)」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「現存(ダーザイン)」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。愛する妻がまだ生きているのか、あるいはもう生きてはいないのか、まるでわからなかった。知るすべがなかった。(収容生活をとおして手紙は書くことも受け取ることもできなかった)。だが、そんなことはこの瞬間、なぜかどうでもよかった。愛する妻が生きているのか死んでいるのかは、わからなくてもまったくどうでもいい。それはいっこうに、わたしの愛の、愛する妻への思いの、愛する妻の姿を心のなかに見つめることの妨げにはならなかった。もしもあのとき、妻はとっくに死んでいると知っていたとしても、かまわず心の中でひたすら愛する妻を見つめていただろう。心のなかで会話することに、同じように熱心だっただろうし、それにより同じように満たされたことだろう。あの瞬間、わたしは真実を知ったのだ。

「われを汝(なんぢ)の心におきて印(おしで)のごとくとせよ……其(そ)は愛を強くして死のごとくなればなり」(「雅歌」第八章第六節)

(夜と霧 61頁から63頁より)



かつてドストエフスキーはこう言った。
「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」
この究極の、そしてけっして失われることのない人間の内なる自由を、収容所におけるふるまいや苦しみや死によって証していたあの殉教者のような人びとを知った者は、ドストエフスキーのこの言葉を繰り返し噛みしめることだろう。その人びとは、わたしはわたしの「苦悩に値する」人間だ、と言うことができただろう。彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけでももう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。
そこの唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。

(夜と霧 112頁113頁より)



ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。哲学用語を使えば、コぺル二クス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄(ろう)することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性がひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。だがすべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。
具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。
強制収容所にいたわたしたちにとって、こうしたすべてはけっして現実離れした思弁ではなかった。わたしたちにとってこのように考えることは、たったひとつ残された頼みの綱だった。それは、生き延びる見込みなど皆無のときにわたしたちを絶望から踏みとどまらせる、唯一の考えだったのだ。わたしたちは生きる意味というような素朴な問題からすでに遠く、なにか創造的なことをしてなんらかの目的を実現させようとなどとは一切考えていなかった。わたしたちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。この意味を求めて、わたしたちはもがいていた。

(夜と霧 129頁から132頁より)



そしてしめくくりとして、犠牲としてのわたしたちについて語った。いずれにしても、そのことに意味はあるのだ、と。犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空(むな)しい世界では、一見なにももたらさないという前提のもとになされるところにある、と。もちろん、わたしたちのなかの信仰をもっている者には、それは自明のことだろうし、わたしもそのひとりだ、と。

(夜と霧 139頁より)


141頁から、「収容所監視者の心理」と題して、収容所の監視者、カポーと呼ばれるユダヤ人看守も含めて、彼らの嗜虐的なふるまいについての分析や、監視者でありながら、サディストとは一線を画し、己の良心にしたがって、被収容者に親切な施しをした者もいたことも語られ、逆に被収容者が同じ境遇の被収容者に対して行う非人間的な振る舞いがあったことを語り、「収容所監視者」と「被収容者」という「くくり」で、人間についてすべてを語ることはできない、すべてはその人個人のモラルのなせるわざ、と語っています。これは、とても、大事なことです。どんな世界でも、善と悪は入り交じって存在するのです。


わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然(きぜん)として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。

(夜と霧 145頁より)


ぜひとも、多くのひとに読んでいただきたい本です。

家族の勝手でしょ!

『家族の勝手でしょ 〜写真274枚で見る食卓の喜劇〜』岩村暢子(新潮社 2010年)という本を読みました。

これは、『変わる家族 変わる食卓―真実に破壊されるマーケティング常識』『“現代家族”の誕生―幻想系家族論の死 』『普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓 』に続くシリーズ第四弾です。

東京近郊で任意に選んだ家族の1週間の食生活を記録したレポート集。
食卓からみえる現代家族の驚愕の実態!

実は、このシリーズのファンなのですが、今回はちょっと書き手のお説教臭いものを多分に感じました。

現代家庭の食生活の乱れは、その親世代に問題があると思うし『“現代家族”の誕生―幻想系家族論の死 』に親世代の詳しい調査結果が載ってますが、家庭で起っていることだけを取り上げて責めるのは酷だと思います。

わたしのお世話している義両親は昭和一桁生まれだけど、食生活の感性としては、『家族の勝手でしょ』に出てくる現代家族となんら変わりはありません。彼らは、戦後初の核家族の第一世代だと思うのですが、食卓の崩壊はここからすでに始まっていたのだと、私は確信しています。

彼らの勝手気ままな家族観生活観に、地縁血縁の情の濃い田舎育ちの私には、同居以来、驚きと困惑の連続でしたから、『変わる家族 変わる食卓』を読んだ時「えっ?そっちが普通な訳ですか??」と目から鱗でしたし、昭和一桁、戦中世代からイメージする「物や食べ物をを粗末にしない」などという質素倹約な世代観は通用しないのだと感じました。この世代だから、こうだろうという先入観は物事を見誤らせますので危険です。

ですが、義両親の世代を責めるのもまた違うと思います。

敗戦で、日本の主要都市は壊滅状態になって、焼け野原に放り出された人々を襲う食料難。生きて行くだけで精一杯だった人々に、占領軍である米国は、どのような政策をもって統治し、日本人の美徳を崩壊させていったか・・・。そして、そこにアメリカの大量消費大量廃棄社会の価値観が植え付けられていきました。

「ご飯よりパンを食べなさい」「母乳より粉ミルクを」「子供にはお肉を食べさせなさい」

沢山の食生活のプロパガンダが官民あわせて行われ、日本の伝統的な価値観は古くさいものとして捨て置かれ、ライトでクールな価値観が称賛され、湿った人情は嫌われました。

そして、戦後65年たって、アメリカ化した日本人はどこへ行くのか?

ニュースなどでは、拡大した浮遊する個人が、行き場もなくさまよっている様が映し出されています。

私感ですが、今や資本主義社会は劣化しはじめていると感じます。
大量消費大量廃棄社会では、もう地球がもちません。

これからどう生きるべきか?
それを考えるのに、この食卓調査のような現状把握も大事ですし、過去を振り返る事の重要性もことさらに感じます。

こうやって、食卓で起っている事を眺めてみますと、経済というものの有様も見えてくるのも面白いです。
今更ですが、五木寛之さんの小説「親鸞」が大人気だそうですね。

わたしも仏教や歎異抄に興味があって、いろんな本を読んできたのですが、これは、まだ、読んでないのですよ。

読みたい気持ちはあるのですが、最近、小説を読む気分になりませんで・・・とほほ。

そんな私に「五木さんがV6の岡田君とラジオで『親鸞』について対談してたよ〜」って友人が知らせてくれました。

地方在住なんで、岡田君のラジオ番組は聞けないのですが、リスナーの方がラジオの内容を書きおこしてくれているサイトを紹介してくれました。

★2010/05/16 on air  「仏教の教えって何ですか?」(guest)五木寛之さん

五木さんと岡田君の対談、よかったです。

五木さん、これまでに数々の著書で書いてきたことを、あっさりラジオで広めちゃうから「もう!今まで買った本代返せ〜〜!」ってかんじです。(←冗談ですよ)
それぐらい本ではだらだらと長〜く書いてあることを、このラジオ対談では、わかりやすく広めちゃったなあって感じです。難しくないところも良い。岡田君の直球勝負の質問が良かったのだと思います。

小説『親鸞』もラジオ小説をやってくれないかなあ。全国放送で。

親鸞は「和讃」という和歌の形で、庶民にわかりやすく教義を伝えました。五木さんもその領域に入っているのかなあと思いました。

最近、『歎異抄』を英訳して、日本人以外の人にも読んでもらいたいなあって思います。

ただ英訳しても、『歎異抄』が言わんとするところが伝わらないから、しっかり親鸞や他力について解説できる方にお願いしたい。

五木寛之さんや柳澤桂子先生だったら、素晴らしい内容になるんだろうなあと思います。

今の世の中って、とにかく『自分の力を信じて努力した先には必ず何かがある』って感じの『ポジティブ・シンキング』が流行りですが、私はその過大な自力信仰は、必ず行き詰まるって思ってて、うつ病の増加にも関係してるんじゃないかなあと思ってるんです。

現代では、自分で努力しないで他者を頼ってばかりなことを『他力本願』っていいますが、本来の意味の『他力』はもっと奥深い人生の教えがあるのです。

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