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映画『オーケストラ!』のDVDが11月4日に発売されます!
お楽しみに!!
いろいろ特典がついて2枚組のDVDで4,179円。
ブルーレイが、1枚組で4,935円。
どちらも税込み。
う〜ん、ちょっと、高い・・・
おこづかい貯めて買うけどね。
★『オーケストラ!』DVD リリース情報(公式サイトより)
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こんにちは、ゲストさん
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映画『オーケストラ!』のDVDが11月4日に発売されます!
お楽しみに!!
いろいろ特典がついて2枚組のDVDで4,179円。
ブルーレイが、1枚組で4,935円。
どちらも税込み。
う〜ん、ちょっと、高い・・・
おこづかい貯めて買うけどね。
★『オーケストラ!』DVD リリース情報(公式サイトより)
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アレクセイ・グシュコブとミエレアニュ監督のインタビュー、いかがでしたか?
彼らの芸術家としての思想を強く感じられるお話でしたね。
この映画は、一見、おおざっぱな演出にみえるかもしれませんが、実は、綿密に計算されていることが監督のインタビューからうかがえます。
わたしは、以前『映画の設定としては、偽のオーケストラが演奏する曲は、協奏曲でなく、交響曲でもよかったでしょうし、ロシアの作曲家なら、チャイコフスキーでも、ラフマニノフでも、ストラヴィンスキーでもよかったでしょうし、ソリストも、ヴァイオリニストでなく、ピアニストでもよかっただろうと思います。』と書きましたが、それは間違った推測で、監督が『チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲』を選んだのは、必然的なことだったことが、特に5番目の質問でわかりましたね。
14番目の質問も非常に興味深いですよね。バーチャルな価値観が現実の世界、現実の生活を駆逐していると危惧しています。たとえば、これは、リーマンショックでも明らかになったように、架空経済の暴走が実質経済を崩壊の危機に陥れた事実にもつながりますよね。しかし、そのような混乱した世界だからこそ、ひとりひとりの個人が共同体との関係性を求めていると。非常に現代社会の問題を本質的にとらえ、映画の中でさまざまな方法をとって、彼のいう『友情なくしては、他文化との出会いの旅なくしては、幸福へは到達できないということ』に関する提案や答えが表現されていることがわかります。
とにかく、素晴らしく深い内容で、監督のいうところは哲学的で、咀嚼するのになかなか時間がかかりますが、日本にいては得られない価値観を読むことができて、本当によかったです。
あと、ブレジネフ体制や旧ソ連については、お若い方は、なかなかイメージできないかもしれませんが、もし、ご興味があるなら、おすすめの映画があります。
『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』という映画です。
『オーケストラ!』の劇中で、ブレジネフがユダヤ人とアンドレイ達を排斥したのは1980年という設定でしたが、それと同時期の80年代初頭、KGB(ソ連国家保安委員会)の高級官僚でありながら、旧ソ連を崩壊に導く情報を西側に流し続けた実在したひとりのスパイの物語です。実は、私は観てませんし、当地では上映予定がないのでDVD化を待つしかないのですが、ご覧になった方のレビューを読むと、すごく良い内容の映画のようです。
★『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』オフィシャルサイト
さいごに、わたしは、本当に田舎者で、今も、夫の両親の介護をしてるんで、実際の生活というのは、非常に小さな閉じられた世界で生きてるんですね。でも、ブログを通して知り合った友人たちやcoucouさまのような方から、自分が見ることの出来ない広い世界を見せていただいて、本当に有り難いことだと感謝しています。
バーチャルな世界は、批判的に受け止められることが多いですが、ときに、生身の暖かみを感じることもあるというのも、ひとつの事実だと思います。
coucouさま、本当にありがとうございました。
(おわり)
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18.メラニー・ロランは?
―彼女が過去に演じた全ての映画、とくにフィリップ・リオレの作品での、彼女が好きだった。そして、この映画で自分は一番重要な大役割を果たす女性なのだということを彼女が理解したと、確信している。まさに、私たちは、真の意味で解放された女性の役柄を構築しようとした。彼女が私に与えてくれたもの全てについて、感謝しなければならない。彼女はまったくシンプルに崇高であるから。
19.撮影はどのように進みましたか?
―ルーマニアでおよそ3週間撮影した。そこで(の撮影で)、映画でのロシアのほぼほとんどの部分を再構成した。なぜならば、ロシアでの撮影は非常に難しかったから。にもかかわらず、街の外側と「赤の広場」の撮影計画が必要だったので、モスクワで2日撮影をした。この点について述べると、6ヶ月間にわたって(撮影許可の)申請をしたが、撮影の前日でも認可はまったく下りていなかった。奇跡的に、アンドレイ役のグシュコフの援助のおかげで、全てが解決した。私たちのためだけに、「赤の広場」を使ったのだ。それは本当に望外のことだった。ジェームス・ボンドの一団のように(スパイのように外国を)撮影して、楽しんだよ。
20.パリでは?
―パリでの撮影は、最初の長期の撮影だった。パリでは、全てで8週間撮影をした。まず、シャトレ劇場での、支配人から機械装置技術者にまで、素晴らしく受け入れてもらったこと、大きな尊敬の念を示してくれたことも言わなければならない。この映画が、劇場に恩恵をもたらし、この素晴らしい場所の再発見に貢献できること、そうしたオマージュを与えることを期待している。
21.コンサートの撮影は、端的に言って、印象強い名人芸の撮影ですよね。どのように準備しましたか?
―6ヶ月間の悪夢だった。映画がこのコンサートで完成するので、したがって観客の精神に刻印されるものなので、このシーン(の撮影)は本当に本当に恐怖だった。どんなことが起こっても、このシークエンスの失敗はできなかった。かつてはクラシック音楽のコンサートを撮影するなんて考えたこともなかった。(撮影に当たって)まず初めに、音楽を題材にした全ての映画を見ることからはじめた。沢山の、クラシック・ロックなどのコンサートをキャッチしたDVDから。その「言語」が何であっても、重要な楽器が何であっても、撮影しなければならないどの瞬間でも、ドラマチックに有効であるためにどのような方法がとられていても、全ての(音楽)映画を見た。(この映画の)挑戦は以下の点である。少しでもよりスペクタクルなものにし、キャッチする際に、(音楽の)ドラマチックさや役柄の人物に熱くひかれさせながらも、過剰に魅せられすぎないようにする、そのようにモダン(なスタイル)にしようと試みたことである。私たちはすぐに(音楽)コーチと協同して、俳優が信頼できる(確かな腕を持った)音楽家になるようにした。計画に計画を重ねて、カットを準備した。いつも各人の音楽的尺度と比例した、役を示す表をいっぱい所持していた。撮影の時には、演奏者と、(楽器)セクションなどに画像位置を正しくできるようにするため、3つのカメラで作業した。撮影のために4日間しかないだけに、そして非常に緊張感のなかにある俳優たちを最大限に守らなければならないだけに、難しい作業だった。結果、撮影に入り、私は、音楽のアクセントにも従いながら、近くで、瞬時のモンタージュに入れなければならないないフラッシュバックについて考えなければならなかった。
22.作曲家アルマン・アマルとは2度目の共作でしたね
ー私にとって、音楽は本当に映画の魂である。イメージにおいて出現しない、見えない部分である。映画「コンサート」において、一方では映画の欲求のために適応させなければならない、現存のクラシック音楽があるし、他方では(新しく作られた)オリジナル音楽がある。アルマンは、私のように他の文化に好奇心がある。音楽の役割としてスラブの精神を、絶対的に入れなければならないと感じていた。私たちは、ロシア音楽、典礼音楽・ソビエトの音楽・現代音楽、をいっぱい聴いた。最終的に、オリジナル楽曲は、過去と現在の関係といった時間の広がりを示すシンフォニック音楽・コーラス、そして現代音楽・ジプシー音楽からなった。くわえて、映画のリズムでさえも音楽的になった。この映画が、各人が憩うために、音楽への道を見つけるような誘いにになればいいと思う。そして子どもたちが、クラシック音楽に、他の(ジャンルの)音楽も愛し続けながら、恐れを感じなくなるようになればいいな、と。
<出典>
★『LE CONCERT』フランス版オフィシャルサイト
※トップページの『LE FILM』をクリックすると監督や出演者のインタビューが表れます。 ★Entretien avec Radu Mihaileau, réalisateur du Concert
http://www.commeaucinema.com/notes-de-prod/le-concert,117343-note-71795 (『Comme Au Cinema (http://www.commeaucinema.com)』より) coucouさまからのコメントです。
coucouさま、沢山の翻訳と細やかなお気遣い、本当にありがとうございます。なんとお礼を申したらよいのか、感謝の気持ちでいっぱいです。何度もいいますが、これだけ翻訳するのがどれだけ大変なことか!
居座るだなんて、とんでもない!本当に嬉しいですし、有り難く思っていますし、何より、楽しい!です。こんな弱小ブログにこれだけの貴重な情報を、惜しげもなく公開して下さって感謝感激です!貴重なインタビューを沢山の方に読んでもらえるように、なんとか来訪者を増やせるようにしたいなあと思っています。
coucouさまのコメントにあるように、フランス版オフィシャルサイトの「VIDEOS」をクリックすると、予告編、プレミア上映の様子や監督インタビューなどの動画をみることができます。わたしも、全く気がついてなかったので、全部はみてないのですが、あとで、ゆっくり観ようと思います。
また、次のエントリーで感想などを書きたいと思いますが、取り急ぎ、御礼まで。
(インタビュー集10へつづく)
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(ラデュ・ミエレアニュ監督のインタビューの続き)
11.ロシア人がフランス語に適応しようとする、やり方は笑いを誘います!
―ここでも私は自分の個人的経験にインスパイヤーされた。幼いときに、70歳のフランスを出自とする婦人にフランス語を習った。彼女は、恋に落ちたルーマニア人と暮らすためにフランスを出たのだ。ずっと昔に自国から離れたために、もはやフランスでは話されていない言葉で表現していた。その上、習ったのは文語の、つまり流行遅れのフランス語だった。それで、フランスに来たときは、私自身が、この映画のロシア人が使っている、時代錯誤な表現をほぼ使っていた。また、入国ビザの取得を助けてくれたご婦人にお礼を言いたいと思い、こう言ったのだ。「あなたと熱烈にセックスをしたい」(訳者注:昔ならば<キスを送ります>の意味)と! 本当に沢山の本を読んだが、本では「口づけ」は本当に尊敬を表す言葉だった…。私が作った役柄たちのロシア人は、自分たちは完全なフランス語を話していると思っているが、ほとんど理解不能なフランス語である。(想像と実際の)この齟齬は、私には非常に有効なコミック表現にうつった。同時に、フランス文化にあこがれた、そして今や消え行くジェネレーションへのオマージュを示す方法でもあった。
12.ところで、ロシア人の主役たちはそれぞれが、彼ら独自のフランス語の知識をもっていますね。
―ウィ、そうですよ。私たちがシナリオを執筆中に、大変面白がらせた異なった3つの言語レベルがある。まず、イヴァンだが、最も訓練された言語能力者と考えている。1950年代にフランスの老婦人にフランス語を習ったはずである。大げさなフレーズを作りあげて、器用ではないが切り抜ける。統辞法(構文法)では多くの間違いを犯すにしても、何とか切り抜ける。次にアンドレイの会話はイヴァンよりも少しばかりうまくなく、ある種のもったいぶった時代的な表現を身に着けている。状況の端々で「そうでしょう?(ネ・ス・パ?)」のフレーズを挿入している。アンドレイの親友である、サーシャは、非常に狭いボキャブラリーしかなく、「黒人の子どものようなフランス語」(訳者注:まずいフランス語への慣用的使用)を話し、(フランス語をしゃべっているときも)いくつかのロシア語の言葉に助けを求める。
13.この映画は、ブレジネフ政権下での知識人と芸術家の状況を描いている。
―多少の自由化の風が、ペレストロイカ以前の10年間で吹き始めたとしても、権力は再度知識人を沈黙させようとした。なぜならば、どんな全体主義体制も、知識人の見方は大衆に普及され、大衆は立ち上がるのではないかという恐怖をもっている。ブレジネフはユダヤ人に、鋭敏な問題について話し、また外国に親族をもっており、彼らの見方をつなげることができる、ユダヤ人を特に警戒した。同じように、ブレジネフはボリショイ劇場のユダヤ人音楽家を排除し、彼らを守ったロシア人もそうした。同時に体制側は、ジタン(ロマ人)、その他のマイノリティも、権力に従わないのではないかと疑った。事実、ジタンはどのような国でも、秩序に決して従属しなかった。彼らは世界で最も自由な人々なのだ。私は透かし模様のように、この事実を示したいと思った。(透かし模様で示す表現とは)逆に、本来的にはくだらない態度・行為―オーケストラの指揮者やユダヤの追放という行為は、(追放された)彼らが立ち上がるまでに30年かかるという、一世代(という時)の全てに渡るトラウマを与えるということをはっきり示したかった。これは、東側諸国の普通の人々の傷つけられた多くの運命のケースなのだ。
14.伝達の問題を通じて、価値の意味について、自問もしますか
ー20世紀末から、人々は新しいコミュニケーション手段がひきおこした事態に十分注意しなくなったと感じている。バーチャルなものの誕生(に注意しないの)である。私にとっては、現代の危機を生じさせているのは、このバーチャルである。つまり、より多くの(以下のような)バーチャルな価値、貨幣・情報・過度の速度(リズム)・コミュニケーション・道具の確保に適応しようとして、現実の価値、(すなわち)労働・出会い・時間・友情・愛情・知識を脇に置いた(片づけた)。それでも、今日人間は、真の価値に戻りたいという印象を私は持っている。また、他者の問題とは、本当の豊かさであると分かっている。そして、個人と共同体(コミュニティ)の関係のバランスを再び構築しようとしている。この見地から、私の映画は、友情なくしては、他文化との出会いの旅なくしては、幸福へは到達できないということを語っている。
15.あなたのなかに、慣習を混乱させる破壊的意欲も、また感じているのですが。
ー新しい土地に出かけ、それを試すためには、人生を、規則と、同時に規則を混乱させなければならない瞬間、その双方から組み立てられないのだろうか、と自問している。私の映画の人たちは、半浮浪者の境遇に置かれ、失うものはなにもない、切り開く(切り抜ける)以外には選択肢はない人々である。そこから出発してこそ、それが現存の法規に背くことを意味しても、全てが可能になる。自分自身でパスポートを製作して、リハーサルができなくて、その結果としていろんな手段で自由になる。―端的に言えば、生きのびる為に、彼らは大工仕事(手で仕事)をして、自らで状況を切り開く。私の映画の人々はすべて、ポエジー(詩)のなかの人々であるー大地を足であるく、そして雲の中に頭を置いている。なぜならば、人は現実を想像から完全に切り離すことはできないと考えているからである。
16.いつものように、多様な出身国の俳優たちに助けを求めました。
―ウィ、そうした。まず、母国での大スターであるロシアの賞賛すべき俳優の5人、アンナ・カメンコヴァ(アンドレイの妻役)、A.グシュコフ、V.バリノフ、D.ナザロフ、アレキサンダー・コミサロフ(ヴィクトル・ヴィキッチ役)である。内面と外面双方での彼らの説明能力、全身を使って演ずる能力に驚嘆した。次に、例外的な(すばらしい)フランスの俳優たちとの協同作業のチャンスを得た。とりわけ素晴らしかったのは、2つの派(グループ:ロシアとフランス)の出会い、彼らは徐々に、そして最後には交互理解にまで到達した点である。そして、ルーマニアの俳優の友人たちのことも忘れてはいない。だから(撮影現場は)すばらしい「(民族の)るつぼ」だった。
17.俳優の方向性はどのように進めましたか?
―私は撮影の冒頭部分を繰り返すので(何度も取り直す)、準備期間で適応する時間が必要なのだ。最初に特に、自分の優位さーそして信じがたい(演劇の)伝統ーに確信をもった、そして私が彼らの意志に従うことを大きく望んでいたロシア人(俳優)との協同作業では、強靭な意志をもって望んだ。ただ、これはゲームでしかなく、私をためす、一つの方法であった。だから、すぐに、私が少しばかり自分が欲していることを知っている、そして私が東側の人間であること、(俳優の)昇華(向上)を助けるためにそこにいる、ということを彼らは分かってくれた。そこから、非常に建設的な方法で協力できた。第二の力関係は、F.ベルレアンと、彼にある種の影響力を駆使したいロシアの3人の俳優の対面である。最初、フランソワはどうしてよいのか分からなかったが、すぐに自分を取り戻し、そしてユーモアを介して、ロシア人たちに大俳優のすべての手の内を見せた。彼は輝いている、そして(雷のような)電撃的な人である。こうした点は、ロシア人を驚かせ、彼らはフランソワをすぐに尊敬し、他方でフランソワもまた彼らを尊敬した。
(監督編3へつづく) |
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ラデュ・ミエレアニュ監督のインタビューは、大変な量ですが、読み応えのある内容で、監督の演出意図や思想的背景をたっぷりと語ってます。インタビュー内容は、3回に分けてお送りします。
RADU MIHAILEANU ラデュ・ミエレアニュ/監督1.「コンサート」の企画はどのようにして生まれましたか?
―まず、プロデューサーから、2人の若い作家によって書かれた(ストーリーの)概要を見せられた。そのテーマは、パリに降り立った、偽のボリショイ交響楽団についてだった。基本的な考えはとても好きだったが、それ以上ではなかった。だから、プロデューサーに、出発点から自分自身のシナリオが書けるかどうかを尋ね、そして彼の同意を得た。
2.どのように「コンサート」(シナリオ)を執筆しましたか? ―仲間のアラン=ミシェル・ブランとともに、まずロシアに2週間出かけ、次次とシナリオの役柄をインスパイヤーしてくれる人々に、彼らと全員会った。これは、シナリオの本体を完成させるダイヤローグ(会話)、シーン、アイデアに大いに役立った。「Va, Vis Et Deviens(行け。そして生きて<なにものかに>なれ):日本タイトル「約束の旅路」の撮影前の、2002年のことだった。Trésor(会社)のプロデューサーたちが、「コンサート」の企画に再着手したときには、私たちはアメリカの俳優を使って英語の映画を撮影するのだと思っていた。幸運にも、運命は他の方向を決めて、物語でのオリジナルな言語、つまりフランス語とロシア語に戻ることができた。シナリオが2つの言語によってどのようなものだったとしても(内容のいかんにかかわらず)、結成された、この新しいトリオ、すなわちA.アタル、A=M・ブランそして私の3人によって書かれ固めた。
3.「コンサート」において、私たちはポジティブなペテン(うそ)を見出していますが? ―私においても、自分を支配するのはテーマである。テーマは、過去にBuchmanという名前だった、父が第二次大戦を生きのびる為に改名しなければならなかったという事実に多分、結びついている。ミエレアニュとなって、ナチス体制、そして次にはスターリン体制に立ち向かった。父が新しい名前でポジティブに生きたとしても、(息子の)私には2つのアイデンティティの葛藤がある。他方で、居住地であるフランスあるいはルーマニア、まあたしかに他国でも、「外国人」として見られることは長年苦痛であった。今では、こうした経験を宝物として見ているし、いたるところで(社会の)内部と外部の双方に同時にいることは喜びである。だから、私の性格(人格:複数)は出発点では大きな困難をもったが、時の流れとともにそうではなくなった。性格自身を解放し、他者との間の橋を広げようとしている。
4.映画では、直ちに、現在もそのメンバーである古い共産主義者たちのデモが登場し、アイロニーのタッチがスタートする… ―ロシアにブランと出かけたとき、モスクワで日曜日ごとに繰り広げられる、こうしたデモに驚いた。それは新しいロシア社会のパラドックスを透明に(如実に)示している。つまり、一方で、ノスタルジーを感じている古い共産主義者、デモのメンバーや旅行者に商品をさばいている商売人たち、そしてもう一方では、まじりっけなしで、冷酷な(耐えがたい)新しい資本主義者たち(というパラドックスである)。大勢の真ん中で、逮捕される人々もいる。悲劇であると同時に可笑しなコントラストを見つけたのだ。
5.「コンサート」のメタファー(暗喩)を通して、個人と社会(共同体)の基本的(本質的)な関係について語っている。 ―(最後の場面のコンチェルトの)同時録音のときに、次のことが分かった。メタファーは、コンサートにおいてさえも、その選択のなかにあったと。すなわちチャイコフスキーのヴァイオリン・コンチェルトを選んだことだ(このコンチェルトを選択したことも、2つの間の本質的な関係性というメタファーだった)。私にとって、今日の(経済・社会的)危機において、個人と社会(共同体)の関係(という問題)が再び出現するのは自明のことなんだ。現在、人々は巨大な個人主義に至っていると確信し、われわれの世界との関係において、不安定な位置にいると感じていることは確かだ。つまり、彼らは、少しだけだがより連帯的な社会に戻ろうとして、個人の基本的人権を守ることを欲している。そして私は、このチャイコフスキーのコンチェルトにおいて、ヴァイオリンとオーケストラが互いに補わなければ、ハーモニーは崩れると確信している。ヴァイオリンがうまく演奏されないないならば、オーケストラは行き詰り、その逆もしかり。2つは必要不可欠(不可分)のものなのだ。(今日の)危機は、暴力によって、両者の関係性を解体しているように思える。個人と社会の絆は、非常に強いものでなければならない。そしてハーモニーあるいは幸福を見つけるために、可能なかぎりユニゾンで(全員一致して)演じようと努力しなければならない。
6.このハーモニーは、異なった世界に近づこうとしているロシア人、ジタン(ロマ人)、フランス人との交流を通して、強くなっている… ―それは現在「知的な対話」と呼ぶものである。どのような社会でも、フランスを含めて、文化の交雑(混血)は、移民の流れと結びついているが、困難の負荷から免れていないとしても、交雑は非常に鮮明で、とても豊かになっている。この現象はわれわれの現社会(のもの)だが、将来はもっと進むであろう。モスクワから来た半浮浪者たちの集団(アンドレイのオーケストラ集団)、ロシア人、ジタン(ロマ人)、ユダヤ人から構成された楽団が、パリの地に降り立ったという映画なのだ。したがって、東方スラブ文化が、西欧文化、(後者のシンボルである)豊かさとデカルト主義(訳者注:明晰が最上される哲学学派)との出会いの映画なのだ。最初は、ショックで爆発する。自分もそこに属するが、東側の「野蛮人」が、既得権ゆえに恐れを感じている「文明人」、自分たちが定義したように秩序・法規が尊重されないのではないかと疑っている「文明人」の国に来たのである。最後には、フィクションにもかかわらず、両者の出会いから、美と光が突然放たれる。「コンサート」は文化の衝突(訳者注:文字通り「カルチャーショック」ですが、この日本語は陳腐で軽くなっているので…)から生まれたハーモニーを説明しているのだ。
7.さあ、アンドレイが映画の中で再三言う「究極のハーモニー」とはどのように定義しますか? ―社会の崩壊に直面した、私が映画で描いたロシア人たちが、到達したいと切望している夢である。人々は皆、与えられた時において、人生に憔悴し、「台(訳者注:「オートメーションのベルト」の意味もある)に運ばれ」、箱に入れられたように、存在している。再び立ち上がることは非常に困難であるが、それは明らかに、私が描いた役柄がやろうとしていることである。彼らはまず、自分自身の認可を見つけようとして、次には、立つこと、そして尊厳ある人間に再度なることを模索している。「究極のハーモニー」を再発見するために、それは時間―1つのコンサートの時(に起こること)なのだ。そして自分自身に自分を証明するために、再び夢みる力と立ち上がる力を得るのである。われわれが極限において待ち焦がれているのは、死に対する1つの小さな勝利なのだ。しかし、問題は、決して悲劇的な方法で苦痛を(現在は)感じていない人々においても存在するといえよう。彼らが、夢を見たり、そして自分たちの「究極のハーモニー」に達成したいと欲することが可能なのだろうか? 彼らは動く(変わる)ことができるだろうか?
8.映画のユーモアをどのように定義しますか? ―好みのユーモアは、苦痛と困難に対処するユーモアである。私にとっては、ユーモアとは、野蛮と死に抗する、楽しい、遊戯的な、そして知的な魂―一つの精神の体操―、それとは双子の姉妹のような悲劇の亀裂である。この事実から、ユーモアは、映画では30年間にブレジネフ時代のソ連で作られた、一つの精神的痛手(キズ)から発している。この時代、(役柄の)人々は苦痛にゆがみ、大地に置かれた(打ちつけられた)。彼らの、立ち上がろう、尊厳を取り戻そうとする意志は、ユーモアを通して展開される。「コンサート」の主役たちはユーモアと自分へのアイロニー(皮肉)のおかげで、彼らの悲劇を乗り越えて、夢の頂点まで登りつめる力を得る。ユーモアは私にとっても生きるエネルギーの最も美しい表現(発露)なのだ。
9.ロシア人とフランス人の出会いから生まれる、悪漢(冒険?)小説のようなユーモアのスタイルもありますよね… ―われわれの(フランス)社会においてさえも、映画のロシア人のような人柄は欠点とされ、社会の周辺でしか生きられなかった(訳者注:ここは過去の習慣の時制です)。ロシア人がフランスに着いたとき、コントラストは再度さらに際立ち、私が非常に可笑しいと思う、対立関係を引き起こす。だから、少しばかり遠く(外国)からフランス社会を見るときに、モノトーンで洗練されたように見えるフランス人の世界に、いくつかのエキゾチックな「色」、スラブの遊牧民に特有のカラーをもたらそうとした。
10.ロシアとフランスの装飾(インテリア)の相違でも、両者のコントラスト(対立)が見受けられますよね。 ―全くその通り。装飾(インテリア)、衣装、光、シーンの展開を通じて、2つの社会への異なった処理を試みた。ロシアではインテリアと衣服は多彩な色があり、「(ワニスを塗ったような)ツヤがあり」、古めかしいし、ラインはしばしば複雑である。他方、パリではもっと鮮明で、金色で彩られることが多く、コントラストがあり、輪郭は直線と四角である。たとえば、ロシア人たちがシャトレ劇場の支配人に電話をするとき、前者は、ボリショイ劇場の地下にある、乱雑な状況と(雑多な)物が置かれた、みすぼらしい物置部屋にいて、騒がしい雑音の環境である。それに対して、電話相手のパリの部屋は、デザイン的で、ほぼ真っ白で、清潔、静寂そして完全に直線からなっている。ロシア人たちがまったく不完全の中にいるならば、ベルレアンが演じるフランス人は、ある意味完璧に近づこうとしている。また、ロシア人たちは、いつも動き回っているので、すなわち「枠に収まりきれない」ので、カメラを肩で担って撮影されることが多かったが、デュプレシス支配人と同僚たちはむしろ、固定カメラか、統制されたカメラの動きで、シンメトリック(左右対称)に撮影された。自分はまた、アンドレイとアンヌ=マリーのレストランでのシーンが大変に気に入っている。コスチュームの対照は、私がパリに来たときのことを思い出させる。アンドレイは新しい背広を着ているが、大きすぎるし流行おくれだ。彼はこのディナーでその任に堪えうるようにしたいと考えているので、きちんとしているが。アンヌーマリーは、銀色の、シンプルな、モダンで控えめな、美しいブラウスをまとっている。彼女の宝石は、彼女の目のように、そして(レストランの)内部と外部で彼らを取り囲んでいる光と同じように、控えめに輝いている。
(監督編2へつづく)
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