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− 浮野合戦で岩倉織田家を破り尾張守護代の地位を確立した織田信長。 さらには尾張守護で主君の斯波義銀(しば・よしかね)が三河吉良氏と通じて信長排斥を画策していることが発覚すると、主君義銀を清洲城から追放した。 1559年(永禄2年)ごろには信長は尾張国内の統一を完了したものと思われる。 その目を国外へと向け始めた信長であったが、北の美濃(岐阜県南部)には父・道三を討って国主となった斎藤義龍(さいとう・よしたつ)、東の東海道には駿河・遠江・三河の三国を支配しようとする強大な勢力・今川義元(いまがわ・よしもと)の存在があった。 当時の織田氏は斎藤氏・今川氏の両方と激しく対立し、いつ戦火が起こってもおかしくない状態だった。 特に東海道の雄・今川氏とは父・織田信秀の代から三河の領有を巡って激しく争っている。 三河(愛知県東部)の有力勢力であった岡崎城の松平氏が、若い当主の相次ぐ死で弱体化し、そこに勢力を浸透させた今川氏が三河の実質的統治者であった。 当時の織田・今川の主戦場は三河国内で、1542年・1548年の2回にわたる両軍の大規模な衝突が起こっている。(第一次・第二次小豆坂合戦) 第一次には織田勢が勝利したものの、第二次では今川勢の総大将・太原雪斎(たいげん・せっさい)の巧みな戦術により織田勢は敗北を喫し、戦線は三河から後退して尾張国内の鳴海城・大高城・沓掛城一帯が今川氏の支配下に落ち、戦況は今川氏有利となっていた。 のちの織田勢は反攻作戦を展開、今川氏の対織田最前線である鳴海城の周囲に三つの砦を築いて牽制、さらには大高城と沓掛城・鳴海城の間に丸根・鷲津の両砦を築いて連絡を遮断、鳴海城を孤立させていったのである。 −−−−−−−−−− 1560年(永禄3年)、この三河の情勢を憂えた今川義元は自ら二万とも三万ともいわれる大軍を率いて居城の駿府今川館を出発、尾張を目指して東海道の進軍を開始した。 ■今までの説では、この今川義元の西進は「上洛して天下に号令をかけるため」とされてきたが、現在ではこの「三河の情勢を好転させ、さらには尾張を平定する」ことが目的であったというように説が変わってきている。ここまでの三河国内の状況と天下の動向(当時は三好氏が細川氏を追放して畿内・幕府の権力を掌握している)を鑑みても、この「三河・尾張平定説」が有力だと思われる。 旧暦5月17日、尾張の沓掛城に到着した今川勢は1日の休息をとったのち、夜半に松平元康(まつだいら・もとやす=のちの徳川家康)率いる西三河衆を大高城に先行させ、城内に武器食糧を届けさせた。 翌日5月19日から、松平元康・朝比奈泰朝(あさひな・やすとも)の二将は織田方の丸根・鷲津の砦への攻撃を開始、同日9時ごろには両砦を陥落させている。 一方、今川勢襲来の報告を聞いても動きを見せなかった清洲城の信長は、今川勢による丸根・鷲津砦への攻撃開始を知ると即座に行動を開始。幸若舞の一節「敦盛」を舞ったのち、腹ごしらえをして出陣の支度を完了。4時ごろには清洲城を出発して8時には熱田神宮に参拝し、軍勢の集結を待った。 五千余の軍勢を集結させた信長は熱田神宮に戦勝を祈願したという。 のちに神仏を恐れぬ大悪人と評された信長にしては珍しいことである。それほどこの戦の勝算は低かったといえるのではないだろうか。 大高城周辺の敵勢力を掃討した今川勢本隊は沓掛城を出発、大高城を目指して西進を開始した。 善照寺砦にて待機していた織田信長は、11時ごろに今川勢の動きを察知して鳴海城の東南方面にある「おけはざま」へと軍勢を進めることとなったのである。 1560年(永禄3年)旧暦5月19日の13時すぎ、この「おけはざま」周辺を突如として豪雨が襲った。 この豪雨による視界不良を好機として、織田勢は「おけはざま」に陣取る今川勢に肉薄したようである。 雨がやんだ14時ごろ、信長率いる二千〜五千の織田勢は今川義元の本隊に接触、攻撃を開始した。 突然の織田勢の出現に浮き足だった今川勢の雑兵は我先にと逃げ出し、両軍の大将は馬を下りて徒歩で刀槍を振るって戦う乱戦へと展開。ここで織田勢は今川義元を守る旗本部隊へと突入する。 「信長公記」によると、ここで今川勢の総大将・義元の姿を見つけた信長の馬廻衆である服部小平太は義元に斬りかかるが、逆に義元に右ひざを斬られて負傷。その最中に迫ってきた織田方の毛利新助と組み合いになり、組み伏せられた義元は毛利新助によって首を取られたとされる。 さらに別の史料では、毛利新助が義元の首を取ろうとした時に義元の口に指を入れてしまい、義元の激しい抵抗の際に食いちぎられたという。 かくして海道一の弓取りと称された今川義元は織田信長によって討ち取られ、戦は織田勢の勝利に終わった。 ここまでがよく知られている「桶狭間合戦」である。 簡単にいうと「少数の織田勢が大軍の今川勢を奇襲で打ち破った」ということである。 しかし、この「奇襲説」は江戸時代に小瀬甫庵の書いた「信長記」の説である。「信長記」はいわば娯楽小説のようなもので、信長の実の家臣が書いた「信長公記」とは内容が大きく異なっている。 「信長記」では、今川本隊は窪地である「田楽狭間」で休息をとっており、信長は今川勢の正面を迂回して奇襲を仕掛け、大混乱となった今川勢は総崩れとなり義元が戦死する。 つまり、上記の説である。 では、「信長公記」ではどうだろうか。 織田信長は善照寺砦を出て鳴海城の南にある中嶋砦に入り、ここで今川勢が「おけはざま山」方面に進軍中であることを知る。豪雨で視界不良の最中に今川勢に気付かれずに接近、今川勢の正面から突撃を敢行した。今川勢の先鋒は突然の織田軍来襲に浮き足立ち、混乱が全軍に波及して義元が討ち取られた。 上記の「信長公記」を執筆したのは紛れもない織田家の家臣・太田牛一であることから、自分はこちらの正面攻撃説を支持する。小瀬甫庵は小説家であり、物語を面白くするために奇襲説にしたのでないだろうか。 さらに補説として、「信長記」には今川家臣で葛山信貞(かつらやま・のぶさだ)という武将が桶狭間周辺に布陣していたとあるが、当時の今川家臣に葛山信貞という名の者は存在していない。 武田信玄の子が葛山信貞を名乗るが、それは今川氏が没落・滅亡した後である。 そして、未だに「桶狭間」の古戦場は場所が確定されていない。 名古屋市内に大字で「桶狭間」という地名があるが、これは江戸時代の地名のようである。 今後の調査・論議の結果を期待したい。 なんにせよ織田信長は乾坤一擲の戦に勝利し、今川の大軍を撃退せしめた。 これにより今川の家督は義元の嫡子・今川氏真(いまがわ・うじざね)が継ぎ、今川家臣であった松平元康は三河岡崎城に拠って独立、三河松平家を再興する。 松平元康はのちに徳川家康と名乗り、織田信長の終生の盟友となるのである。 徳川家康との同盟によって東の脅威を廃した信長は、美濃制圧へと目を向けていくこととなる。
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桶狭間は諸説あるらしいですね。
奇襲をしたのは信長の判断ではなく、家臣の進言だったって話を、たしかこのブログでもしましたっけ?
2008/12/29(月) 午後 5:12 [ シキ ]
どうもです。まあ同様に異論は出るけど「センゴク」なんかは現実的な視点がありますね。
情報力が根本的に少ないこのご時世、昔の人だって頭ひねって作戦立てて、策略やって
実行してたんだからおバカ行動したようには思えんわなあ。
今年はどうにか相場で頭使って大当たりして、遠征したいですw
2009/1/2(金) 午前 11:27
志貴さん…桶狭間はまだ明らかになってない謎がたくさんあります。だからこそ我々の興味をひきつけるんですけどねw
奇襲の件は「信長記」の記述ですので、おそらくそれも小瀬甫庵の創作かと思います。
2009/1/10(土) 午後 11:54
りゅうさん…「センゴク」で語られる内容は非常に面白い観点で戦国時代を捉えていて、自分はかなり好きですw
過去の人々は頭を使って使って、戦での「定石」を作り上げていったんでしょうね。そしてそれが「兵法」として現在に伝わっているわけで…そう考えると人間ってのは歴史上、ずっと争いを続けてきたわけですが、それもなにか悲しいことです。
2009/1/10(土) 午後 11:57
はじめまして。信長がたまたま遭遇した敵部隊が今川本隊だったって説ですね。他に少数が大軍に勝利して総大将まで討ち取ったのは、毛利元就VS武田元繁くらいですかね?真田昌幸の上田城攻防戦も徳川を撃退しただけだったしw
2009/12/25(金) 午前 11:35 [ ちばどっく ]