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可能性の獣…その名は「ユニコーン」。

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大名家伝・常陸佐竹氏

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画像は清和源氏義光流佐竹氏家紋・五本骨扇に月丸。



■常陸佐竹氏の出自

戦国期、「鬼義重」「坂東太郎」の異名で知られる名将・佐竹義重(さたけ・よししげ)を輩出した佐竹氏は清和源氏義光流で、源義光の孫・源昌義(みなもとの・まさよし)に始まる。義光は「後三年の役」に際して、左衛門尉の官位を投げうって奥州へ赴き、兄である源義家(みなもとの・よしいえ)を助けた。後三年の役平定後、その功績を認められ常陸介・甲斐守などの官職を得て陸奥や常陸に所領を賜り、常陸では佐竹郷を領した。



源義光には数人の男子があったが、源義業(みなもとの・よしなり)が佐竹郷を領有し下向してきたという。常陸の大勢力であった平繁幹(たいらの・しげもと)の娘を娶り、常陸平氏と婚姻同盟を結ぶことで常陸での勢力を拡大する基礎を築き上げた。

当時の常陸は南部に常陸平氏が大勢力を築いていたことから、義業の領国拡大は北部のみに限られた。義業の子・義昌の代になると常陸の奥七郡をほぼ支配下に収め、義昌は久慈郡佐竹郷に本拠を置いて「佐竹冠者」を名乗り、佐竹氏初代となって佐竹義昌(さたけ・よしまさ)と称した。



義昌の三男・佐竹隆義(さたけ・たかよし)の代になると、世は源平合戦の只中にあった。

佐竹隆義は常陸平氏の仲介を経て中央の平氏と結び、1180年に源頼朝が伊豆で挙兵すると明確に反頼朝の立場をとったのである。頼朝は同年10月、富士川の合戦で平氏の軍勢を破ったが、そのまま京都に攻め上がらなかったのは反頼朝勢力である常陸佐竹氏の動向が気がかりであったからであろう。さらに常陸平氏も日和見を決め込んでいたことが、頼朝を東国は鎌倉に留まらせた原因である。

常陸佐竹氏討伐を決定した頼朝は、兵を常陸に進めた。佐竹隆義をはじめ佐竹軍は源氏軍を相手に善戦したが、金砂山での決戦に敗れ、佐竹氏は奥七郡及びほとんどの所領を没収され佐竹勢力は壊滅したのである。


旧佐竹領には頼朝の腹心が配されたが、佐竹氏には御家人の地位すら与えられず、逼塞を余儀なくされた。没落した佐竹氏の一大転機となったのが頼朝による奥州藤原氏征伐で、佐竹隆義の後を継いだ佐竹秀義(さたけ・ひでよし)は頼朝に帰順する意思を固め、宇都宮で頼朝に拝謁し臣下の礼をとって忠誠を誓った。頼朝も秀義を許し、佐竹秀義は失った名誉や所領を回復するため頼朝に従って奥州へと出陣した。しかし奥州征伐での秀義への論功行賞の内容は全く不明である。


佐竹秀義は一応その地位を回復し常陸介に任じられた。以後、佐竹氏は鎌倉御家人として行動することになる。しかし常陸守護は八田知家(はった・ともいえ)であり、鎌倉期の佐竹氏は小田氏や大掾氏などの勢力に押されがちであった。




■佐竹氏の台頭・南北朝期

時代は下って室町初期、南北朝の騒乱が始まると、当時の佐竹氏当主・佐竹貞義(さたけ・さだよし)は足利尊氏に属して各地を転戦し戦功を挙げ、ついには悲願であった常陸守護に任じられて佐竹氏発展の基礎を築き上げた。

足利氏の被官となった佐竹氏の軍事行動の意味は大きかった。1335年、北条時行が鎌倉を攻める「中先代の乱」が勃発し、佐竹貞義は鎌倉を守備する足利直義(あしかが・ただよし=尊氏の弟)を支援するために鎌倉へ向かった。しかし北条軍の士気高く、足利直義は敗れて鎌倉を脱出し、佐竹貞義も武蔵の鶴見で敗れて子の佐竹義直をはじめとする多くの家臣を失った。のち尊氏の軍が京都を発し、鎌倉の北条軍を破って鎌倉へ入ると、尊氏は主君である後醍醐天皇の勅命を無視して政務を執った。このとき、尊氏は佐竹貞義の功績に報いて正式に常陸守護職に任ぜられたのである。


京都の建武政権は足利尊氏の討伐を決し、新田義貞(にった・よしさだ)に軍勢を授けて出陣させた。対する足利尊氏は箱根・竹之下でこれを迎え撃ち、佐竹義篤(さたけ・よしあつ)は足利勢に属して奮戦した。新田勢を破った尊氏は敗走する敵を追って京都へと進撃を開始、この軍勢に佐竹氏の一門や家臣らが従った。

京都を制圧し、天皇を吉野へと追った尊氏であったが、奥州から軍勢を率いて下向してきた北畠顕家に大敗し、九州へと逃げ落ちていった。このとき佐竹義篤は常陸北部にて南朝方と戦っているため、尊氏一行と離れて常陸へと帰ったようだ。ただ、義篤の弟・佐竹師義(さたけ・もろよし)は尊氏に従い、尊氏が京都を奪回すると師義は京都に滞在し佐竹一門を代表するように尊氏政権に仕えた。師義はのちに「観応の擾乱」で尊氏に従い直義軍に敗れて戦死し、尊氏は勲功に報いて子孫に山入・小田野・松平などの地を与えた。このため子孫は山入氏を称し、佐竹宗家に対抗する力をつけることとなる。



一方、常陸に戻った佐竹貞義は西金砂山城に拠って南朝方と対峙していた。南朝方は常陸に楠木正成の甥・楠木正家を配して常陸の南朝勢力を強化した。1336年、楠木正家は西金砂山城に攻撃をかけ、佐竹貞義は激戦の末に敗退し、このとき貞義の子・佐竹義冬が戦死したという。

のち、尊氏に従って上方にあった貞義の嫡子・佐竹義篤らが帰国したことにより佐竹勢が次第に優勢となり、楠木正家の本拠・瓜連城を攻撃した。しかし小田氏らが楠木軍を支援したことにより佐竹勢は再び敗北、山間地へと撤退した。佐竹勢はこの後も北朝方として奮戦し、ついには瓜連城を落とし南朝方の那珂通辰を討ち取っている。

のち常陸の南朝方は内部分裂もあって衰退が決定的となり、終始北朝方として活躍した佐竹氏が常陸の雄として台頭していくこととなった。佐竹義篤は南朝方の小田治久を破って常陸北部の支配権を不動のものとし、所領の拡大とともに佐竹一門から分出した庶子家を各地に配置して佐竹氏の惣領制を形成していった。これらがのちの佐竹氏発展の大きな要因となったのである。






■佐竹氏の内訌・山入氏との抗争

佐竹宗家を継いだ佐竹義盛(さたけ・よしもり)は1407年に嗣子がないまま没した。佐竹重臣は談合し、一門の山入与義の反対を押し切って関東管領・山内上杉氏の一門である上杉義憲を迎えて佐竹氏惣領と常陸守護を継がせた。上杉義憲は佐竹義人と名乗り、鎌倉公方寄りの姿勢を表したことで山入氏や同じく佐竹一門の長倉氏は激しく反発、彼らは佐竹氏内で「山入党」と呼ばれるようになった。

このように山入氏は佐竹氏の一門ながら宗家に匹敵する勢力を保ち、山入与義は反佐竹義人の急先鋒となって活躍したのである。


そのころ鎌倉府では、鎌倉公方・足利持氏(あしかが・もちうじ)と関東管領・上杉氏憲(うえすぎ・うじのり=上杉禅秀)が対立し、1416年に世にいう「上杉禅秀の乱」が勃発した。佐竹宗家と対立する山入党は上杉方に加担し、関東を二分する大騒乱となっていった。翌年に上杉禅秀は敗れて自刃し、乱は鎮圧された。山入与義は足利持氏に降ったが、佐竹一門の稲木義信(いなぎ・よしのぶ)は反抗を続け、さらに長倉義景の反乱、豪族山県氏の参加をみるにいたった。

足利持氏は佐竹義人に反乱鎮圧を命じ、佐竹勢は長倉義景を降して稲木義信を殺害。常陸の騒乱は収まったかにみえたが、山入与義の佐竹義人に対する反感は根強く残っていた。

1418年、山入与義は室町将軍・足利義持から常陸守護に任ぜられた。これは上杉禅秀の乱以後、室町中央政権に敵対を続ける鎌倉公方に対する幕府の対抗策であった。山入党は佐竹義人に対する反発から甲斐武田氏と結んで挙兵し、山入与義は鎌倉の屋敷で殺害されてしまったのである。与義の後は義郷が、義郷の没後は山入祐義が継いだ。

幕府の後ろ盾を得ている山入祐義は幕府から常陸守護に補任され、佐竹義人は憤慨して公方足利持氏に不当を訴えたが解決には至らなかった。常陸守護には佐竹義人と山入祐義が半国守護として並び立つことになったのである。



のち鎌倉公方と幕府の対立が激化して「永享の乱」が起こり、敗れた公方足利持氏は自害した。持氏方の重鎮として活躍してきた佐竹義人は、家督を子の佐竹義従(さたけ・よしつぐ)に譲って隠居した。この状況で台頭してきたのが江戸氏であり、山入氏も佐竹宗家に対して優勢となっていった。

以後、佐竹宗家と山入氏との衝突が長年にわたり繰り返された。1490年、佐竹氏当主の佐竹義治(さたけ・よしはる)が死去し、後を佐竹義舜(さたけ・よしきよ)が継いだ。そのわずか4ヶ月後、山入義藤・氏義親子をはじめとする山入党の一門が一斉に太田城を攻撃、若い義舜は敗れて孫根城へと逃亡した。ここに山入氏は佐竹氏に代わって佐竹氏本拠である太田城の城主となったのである。

1492年、山入義藤が死去すると磐城の岩城親隆・岩城常隆親子の仲介で山入氏義と佐竹義舜の間に和議の話がまとまった。和議では山入氏義は小野崎・江戸両氏との関係を絶ち、佐竹義舜と岩城親隆親子に与することを誓った。しかし和議にも関わらず山入氏義は太田城を明け渡さず、さらに義舜を攻めて孫根城を落とし、義舜は東金砂山城に追い込まれた。

しかし今度は小野崎・江戸両氏が佐竹義舜に味方したことで、山入軍は佐竹氏を壊滅させられぬままに敗戦を蒙った。のちに義舜は態勢を整えて山入氏を孤立させ、1504年にはついに太田城の奪還に成功した。山入氏義は本拠に逃げたがそこでも敗れ、逃亡中に殺害された。かくして1世紀にわたった佐竹氏と山入氏の抗争は終結したのである。

佐竹義舜は「佐竹氏中興の名君」とされ、一世紀にわたった山入氏との抗争を克服し、家臣団を再編成して軍事力を充実するとともに、失われた所領の回復を図り、一族による支配体制の再整備を実施するなど、佐竹氏が戦国大名として雄飛する基礎を固めた人物であった。





■戦国大名へ

名君・義舜の死後、嫡子の徳寿丸が11歳で家督を継いだ。幼い当主に対して叔父の佐竹義言・佐竹政義らが補佐することとなった。のちに元服した徳寿丸は佐竹義篤(さたけ・よしあつ=2代目)と名乗り、家臣団の対する所領宛行や官途・受領の付与を本格的に始めることとなる。

外政では白河結城氏の支配下である陸奥南方への進出を企て、小野崎氏や大山氏と起請文を交わして相互の結束を強化、常陸中央に勢力を拡大する江戸氏とも協調して佐竹は北、江戸は南へと進出方向を定めている。
義篤の施策は着々と進んでいるかにみえたが、弟である部垂城主・佐竹義元との抗争が起こった。1529年から1540年まで断続的に抗争が続き、最後は佐竹義篤が部垂城を総攻撃、佐竹義元とその一族を滅亡させた。この乱を克服したことで、佐竹宗家の権力はさらに強化されたといえるだろう。


義篤は弟の義隣(のちの義里)に佐竹南家を興させ、従兄弟の佐竹北義廉、佐竹東義堅とともに佐竹宗家の藩塀とし、佐竹一門による支配体制を確立して1545年に死去した。





ここまでが鎌倉〜戦国初期の常陸佐竹氏の歴史である。

こののち、鬼義重こと佐竹義重が登場して常陸一国を平定、豊臣政権・徳川幕府を生き延びることになるが、佐竹氏は本拠地である常陸太田から出羽久保田へと移封を余儀なくされた。

他の大多数の武家が改易・滅亡している中、家名を存続できただけでも良しとするかはこれを読む貴方の心次第である。

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ふぅ〜。こんなにたくさんの漢字を読んだのは久しぶりでござるよ。
しかもヨミが怪しい漢字もたくさんあったでござるよ。
ラスカル眼鏡かけて真剣に熟読させていただきました。

2009/9/6(日) 午後 7:50 [ - ]

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・・・すまぬ。
佐竹氏の台頭・南北朝期あたりから・・・
超斜めに見てしまったでござるよ。。。

2009/9/7(月) 午前 7:45 星|∀・)チラッ

ラスカルさん…漢字多くてすみませんw
中世以前の記事はどうしても漢字が多くなってしまうのです。
でも読んでいただいてありがとうございますw

2009/9/15(火) 午後 7:24 デンヂマン

星さん…斜め読みでも結構ですよ。逆に興味があまりない記事を読んでいただいて恐縮です。
みなさんがもっと源平〜戦国に興味を持っていただけるようがんばります♪

2009/9/15(火) 午後 7:25 デンヂマン


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