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可能性の獣…その名は「ユニコーン」。

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戦国群雄伝・蘆名盛氏

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画像は桓武平氏良文流蘆名氏家紋・三つ引両と蘆名盛氏肖像。




蘆名盛氏(あしな・もりうじ)


生年1521年(大永元年)〜没年1580年(天正8年)。岩代会津の戦国大名。


父は蘆名盛舜(あしな・もりきよ)


母は金上盛興(かながみ・もりおき)娘


正室は伊達稙宗(だて・たねむね)の次女


子に蘆名盛興(あしな・もりおき)、養子に蘆名盛隆(あしな・もりたか=二階堂盛義の子)


会津蘆名氏を戦国大名として発展させた英主として有名である。



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会津蘆名氏は桓武平氏良文流・三浦氏の分流で、相模の豪族である三浦義明の子・佐原義連が祖とされる。三浦氏は世にいう「坂東八平氏」の一として有名である。

三浦宗家は1247年の「宝治合戦」で滅亡したが、三浦佐原氏は北条氏に加担して没落を免れ、三浦氏の名跡を継ぐことを許された。佐原盛連には多くの男子があり、四男の光盛が相模蘆名に住して初めて蘆名氏を名乗ったという。

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1521年、会津蘆名氏15代当主・蘆名盛舜の長男として生まれた男子は四郎丸と名づけられた。のちの蘆名盛氏である。嫡子として育てられた四郎丸は1537年に桑折伊達郡の大勢力・伊達稙宗の娘を娶って同盟を結んでいる。

この時期、三春郡の勢力・田村隆顕と同盟を結ぶ旨の誓紙を交わしていることから、1537年以前に父から家督を譲られていると推測されている。

父の後を継いで「会津守護」を自称した盛氏は、1542年に敵対勢力である山内氏を討ち、1550年頃には会津から中通りにかけての一帯を制圧した。一方、白河結城氏の家督継承問題に介入したり、1542年に終息した伊達稙宗・伊達晴宗親子の対立抗争である「伊達家天文の大乱」に参加したりしている。


蘆名盛氏は乱の当初は稙宗側に与していたが、対立勢力との兼ね合いで晴宗側に寝返り、最終的な晴宗側の勝利に大きく貢献した。

1541年には信夫郡で戦っていた晴宗を助けるために磐城の岩城重隆とともに安積郡に兵を出し、ついで出羽長井に出兵している。

天文の大乱終息後に晴宗が最上領内に出兵した際にも盛氏は援兵を送っている。

このように盛氏は合戦に明け合戦に暮れ、二本松の畠山義継・須賀川の二階堂盛義などを片っ端から斬り従えて配下としていった。


1550年、田村隆顕の三春郡に侵攻を開始するが、田村氏を支援する常陸佐竹氏の妨害もあって苦戦を強いられ、戦線は遅々として進まなかった。このため佐竹氏と敵対する北条氏康や武田信玄と結んで対抗し、1574年に田村隆顕が死去すると、後を継いだ田村清顕をついに従属させることに成功した。


一方、強敵である伊達氏や白河結城氏には婚姻政策をとり、磐城小高の相馬盛胤とは烏帽子親となって親子の交わりを結んだ。さらに遠方の北条氏康・武田信玄・上杉謙信とは同盟を結び、遠交近攻の策を実践している。

そして常陸の佐竹義重とは覇権を競って何度も戦ったが決着がつかず、ついには上杉謙信の仲介で和睦した。


この蘆名盛氏の代で会津蘆名氏の版図は最大となり、全盛期を誇るに至ったのである。


1563年、室町幕府は「大名在国衆」として53人の名前を記録している。
その中に、北条氏康・今川氏真・武田信玄・上杉謙信・織田信長らにまじって「蘆名修理大夫盛氏」と「伊達左京大夫晴宗」の名がある。この時期、遠く離れた上方の幕府は居並ぶ奥州の勢力の中で、蘆名氏と伊達氏を大名として認めていた証拠である。


1567年頃には会津地方で永楽銭が用いられるようになり、貨幣経済の浸透がみられる。

一方で盛氏は会津領内にしばしば徳政令(借金の帳消し命令)を出している。表面的には天災に対する領民への救済であるが、実のところは遠征につぐ遠征で借金に窮した家臣団への救済措置だったという。


盛氏には寛容な面があり、家臣の多少の失敗には目をつむった。当然家臣からは慕われたが、領民に対しては容赦なく課税したため、一般庶民からは恨まれたという。そういう面をみると「治世の名君」とは言いがたいところである。



その後、盛氏は隠居して止々斎(ししさい)と号し、家督を嫡男の蘆名盛興へと譲った。

ところがその盛興は1575年、父盛氏に先立って急死してしまった。盛興には正室である伊達輝宗娘に女子が、側室に男子がいたがともにまだ幼児でありとても政務を執れるものではなかった。

そこで盛氏は二階堂氏から人質として会津に来ていた盛隆を未亡人伊達御前と結婚させ、当主に据えたのである。



家督を継いでから40数年、蘆名氏の全盛時代を築き東北の雄となった盛氏であったが、蘆名氏の行く末を案じながら1580年に没した。享年60歳。


英主・盛氏の死後、蘆名氏は独眼竜・伊達政宗の侵攻によって衰退の一途を辿り、盛氏の死後わずか9年で蘆名氏は滅亡の憂き目をみることになるのである。





蘆名盛氏は文武に秀でた武将であったが、過重な兵役や税を領民に課したため、死後に領民や家臣の不満が爆発し、蘆名氏は家中の統率を得られぬままに摺上原で伊達政宗に敗れて滅亡した。

主君自らの才のみでのし上がってきた大名の末路とは、こんなものなのであろうか。

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どうもです。FC版信長の野望では、よく伊達を選んでいたけど、真っ先に潰しまくった記憶が…。
逆に8人プレイで北関東・東北を選ぶとなると、貧しい土地がキツイのなんの。

2009/9/21(月) 午後 8:54 riu**8jp

りゅうさん…どうもですwFC版信長とはまたマニアックなw
蘆名は他地方の一流大名から比べたら小粒ですが、当主の盛氏はその中でもぬきんでた存在ですよw覚えておいてくださいw

2009/9/25(金) 午後 9:27 デンヂマン


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