|
何を恐れているのだろうか
どうして受け入れないのだろうか
なぜ避けているのだろうか
自分が傷つきたくないから?
これが自分だと言い続けている
これが私であると主張している
誰が何を言おうと
頑迷に
私は 私は 私は
私はこのようなものであると
聞き入れようともしない
素直に
受け入れようともしない
それでは、いけない
わがままな子供はよくない
素直な子供のように
のびのびと
仲良く
生きていこう
自分を主張し
我を張って生きることはおやめなさい
ということを
無我という
主は 語られた
「無我説」
「釈迦は、自我なるもの、アートマンなるものを否定した。自我なるものがないのであるから、死んだら終わりだ、それ以降の生存なるものがあるはずがない」こう考える人が出てきたわけです。
そうすると釈迦が説いた教えというものは、唯物論になってしまいます。そして、これが、現代までけっこう続いてきているわけです。
このような霊魂否定説につながる、無我説がそうとうにはびこっています
「あなたの自我、あなた自身というのは、常なる存在ではない。ずっと続いていく存在ではないということは、それはまた、死ねば終わりだということでもない。常なるということも正しくない。死んだらそこで消えてしまう、断絶があるという考えも間違えである。実は人間は変化し、変転しながら生きていく存在である」
これが正解なのです。
これがわからないゆえに、結局「人間は常ならず、自我なるものがない。無我が本当の真相だ」ということななれば「死ねば霊魂も無くなる。あの世も無くなる」という唯物論になるわけです。
その結果どうなるでしょうか。人間は霊的な生き方ができなくなり、この世のみの生き方になり、結局は快楽主義と同じものになり、悪魔のささやきに耳を傾ける存在にと変わっていくのです。ここが根本的な
間違いなのです
釈迦の説いた無我とは、次のようなことなのです。
「人間というものは、ひとりだけで生きていけるものではない。大勢が協力しながら生きていく存在なのだ。そのなかにいて、あなた一人が、牛や鹿のように角を出して生きていたら、その角がお互いにあたっ
て傷つけあうだろう。またその角ゆえに、いろいろのものに引っかかって、苦しみをつくるであろう。ゆえに他の人々と、社会的生活をしている人間であるならば、その角をよく矯(た)めなさい。それをよく切り取って、統御しなさい。自己というものを整えなさい」
これが無我の教えなのです
ところが、
その我ならず「『自分が自分が』という念いが執着をつくるから、それをなくせ」という教えが、物理的な自我、自分が無いという教えにいったわけです。知恵が足りないとこのような理解に行くことは皆さんもよくわかると思います。
これが仏教の歴史における最大の汚点の一つです。
釈迦の思想である「不常不断」−−−−−常ならず、断ならずという「断常の中道」という考えからいったならば、これは死んだら何もかも終わりであるということを、彼が支持していたわけでは決してなく・・・・・・・・「続く」
そのように いわれた
(無我についての誤った理解より)
|
無我の教え!
少し理解できるような気がいたします。
2009/3/22(日) 午後 8:20 [ 近い人 ]
ご訪問頂いたようで、ちょっとお邪魔します。
無我については私もいろいろ思う事を書いていますが、人間の知識では理解する事は無理だと思います。
それは思いの中にある。と言うのが私の理解です。
無も思いも、その境地は人間には見えませんから、宗教を信じて教えを実体験出来れば、無我を理解できると思います。
2009/3/22(日) 午後 11:06 [ - ]
訪問ありがとうございます
参考の書籍として
「ブッダの人と思想」中村元・田辺祥二著:NHKブックスをお勧めいたします
「アートマン」という多義性のある言葉を「我」と訳したところにもふれられており参考になるとおもわれます
また理解できないと一蹴されるのもいかがかともいます
優れた方をもとめその方に素直に従うことも大切ではないでしょうか
我を張ることをいさめてまいりたいとおもいますね
ありがとうございました
主の祝福がありますように
2009/3/24(火) 午後 9:13