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この山は わたしのもの
この畑は わたしのもの
この土地は わたしのもの
ここまでは我らの 国
人間が勝手に決め 執着し
言い争う
真実は誰のものでもない 地球のもの
人類が 発展するためには 所有者を便宜的に決めるのは仕方のないことだろう
しかし本来、人間も、地球も、宇宙も、仏が、神が、創られたもの
本来は、誰のものでもない
まず
それを認めることだ
それを 諸法無我 という
悟られた方、主は、語られた
釈迦が無我を説かなければならなかった理由の一つは、「結局、人生の苦しみのほとんどは執着にある」
というところです。執着とは、何かにとらわれることです。この執着のもとにあるものが「我」なのです
「我欲」。あるいは「我あり」と思う心。あるいは我見ーがでもって見る、自我でもって見る、自分に非常に都合のよい偏りのある目で見る。こうした我に基づく見方や欲望によって人生の苦しみはすべてできているのです。ほとんどそうです。
そして、それが最もでているところは、四苦八苦のなかの「求不得苦」(求めても得られない苦しみです)みんなこれは持っています。この求めても得られない苦しみは、もともとは「我」のところからきているのです。
「我あり」と思う心からきているのです。「我あり」と思う心から「我がもの」という心もでてきているのです。これはおわかりでしょう
「我なし」ならば「我がもの」もないのです。「我あり」とおもうから「我がもの」があるのです。《略》
この無我は二つの面から、もう一度点検されなければなりません。、無我とは、物理的物体としての「我」が無いといっているのではありません。無我なるものの本質の一つには「あなたは仏と一体にならなくてはいけない」という部分があります。
己をむなしゅうしなければ、仏と一体になれません
「自分が自分が」という心が強ければ仏の光も射してきません。
《略》
他人のために生きる
他人の苦しみを自分の苦しみとして、
他人の悲しみを自分の悲しみとして、
他人の喜びを自分の喜びとしていきる
愛他の心をもって生きる
これも無我になっていくための道です
そのようにいわれた
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