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<写真>
1)謎の市川文書
2)長野県勘助の供養等
3)勘助画像(1)武田24将より
やまもとかんすけ
諸書による
山本勘助の実像と虚像
序にかえて
山本勘助は実在の人物か虚像なのか未だに意見の分かれているところであるが、来年度NHKの大型テレビドラマの「風林火山」において、多くの人々には実在したとの認識が深まることは間違いない。こうした現象は過去にも色々あり、「武田信玄」のように様々な映画やテレビドラマで放映され、小説家や著述家が視点を変えて様々な信玄を書くので、そこには幾通りもの武田信玄像が出現する。
おおよそ歴史小説や歴史ドラマそれに歴史演劇・講談などなどに、取り入れられる度に史実か創作なのか混乱してしまうのも常である。
山梨県では、甲斐(かい)古代(こだい)・甲斐(かい)御牧(みまき)・甲斐(かい)源氏(げんじ)・ 武田(たけだ)信(しん)玄(げん)・ 中世(ちゅうせい)の武将(ぶしょう)と甲斐(かい)・甲府(こうふ)城(じょう) 柳沢(やなぎさわ)吉(よし)保(やす)・秋元(あきもと)喬(たか)朋(とも)・山口素堂(やまぐちそどう)・杉本(すぎもと)茂(も)十郎(じゅうろう)・山本(やまもと)勘(かん)助(すけ) などなどいまだに解明されていない箇所と、未詳の部分を持ちながら、新たな史料の無い中で筆力により定説化が進んでいる。いわゆる歴史は空白部分が大きい多いのである。こうした空白を歴史に携わる人々は埋めていく。「そうではないか」「そうと思われる」の作業をして空白未詳箇所に「仮説」「私説」「推説」「偽説」「創説」「空説」などや、神社仏閣や後世においてその人物を祖と崇める名家などの由緒が散りばめられ「創作歴史」が混入されて、史実と虚実が合わせられ一人の人物像ができていく。
今回はその中でも歴史の中でも、甲斐(山梨県)に於いても、全国的に見ても未だに虚像説が高い「山本勘助」を取り上げて諸書の記述や歴史家の取り組みな介しながら、真実の勘助像に迫ってみたい。引用史料については『甲斐国志』(以下国志)『甲陽軍艦』(以下甲陽)『妙法寺記』(以下妙法)が中心にしたいのであるが残念ながら勘助に係わる記述がない。僅かに見える記述も後世編集した人物により書き加えられたものであると識者は語っている。
その書き入れた基本は『甲陽軍艦』であり、多くの先生方も内容を疑い、間違いを指摘しながらも引用せざるを得ないで紹介している。この両書については、それぞれは独立ししてあるのでそれらもご一読していただきたい。
この著が終了する頃には、大形ドラマも開始する時期になると思われる。正月からは長野県や静岡それに愛知などを探訪して、勘助の足跡を歩査して、この著に「探訪記」を追加していきたいと考えている。
一、山本勘助の略歴
1、山梨の歴史観
山梨県内の多くの人々は、言い方は悪いが歴史には余り関係ない。一昔前までのように、地域の人々が地域の歴史ひたすら書くという単純な構図が、殆ど見えなくなった。昔の本が未だに人気があるのは、著者の篤さによるものである。
それは、歴史は生産や収益に関係ないもの、生活に何等の物質的な潤いを持たないものとして、人々の潜在的な知識と認識の中には歴史を避けて通りたい箇所があるのかも知れない。例えば歴史テレビドラマが始まれば、まず「観光や商い」との関係を行政も民間も旨とする。こうしたことは全国を歩いても何処にでも見られる光景である。
それでも歴史が落ち着いて観光と結びついている地域は、ドラマが終わった後も本来の観光が展開されているが、取って付けたようなその時だけ盛り上がり盛り挙げさせた歴史観光は、ドラマの終了とともに泡沫のように消え去っていく、業者も虚脱感に襲われて、仕掛けた行政観光も、そうした行為の反省も無いままに次のキャンペーンを掲げて進む。
こうした行為がさらに人々の歴史感覚を消失させる。創られた歴史観光は一時的継続性を持たないのが常である。本年ように、歴史的にみて未だに定かではなく、山梨県内に殆ど足跡を持たない「山本勘助」を歴史考証することなく、大形観光の目玉にするという、誤った認識はいったい何処から生まれてくるのか不思議でならない。歴史はその都度振り返ることが大切で、誤りや不確かな箇所を訂正是正する事を忘れてはならないのである。
また歴史家(れきしか)と歴史家(れきしや)さんの多くは、固定観念に捉われしかも、グループ内歴史展開をして自己満足している。例えば現在進んでいる『山梨県史』の編纂事業で収集した史料は相当なもので貴重なものが沢山含まれている。しかしである。編纂努力にも拘わらず、せっかく山梨県内の図書館や多くの公共施設に配布された『山梨県史』は、開かれる機会は少ない。また一部では飾るもので、インテリアとして書棚に飾られる結果となっている。
古文書の解読をされて、読み下しの部分があってもそれでも一般の人々には難しく、生理的に受け入れないものなのである。山梨県内の考古学発掘報告書や研究、それにこうした類の著作物は普通の書店より、古書店で高値売買される宿命なのである。開いた本より、未開封の著作物の方が高値で取引されている。二三年前に山梨より遠く離れたある県の古書店を訪れた時、こうした山梨関係の本が集中して販売されていた。歴史資料が大切なことは理解できるが、読まれない本、特殊の人だけにしか参考にしない資料は勿体無い。一般には小学生でも理解できる程度の内容で十分である。歴史に携わる人々は、歴史を好きになる人々を近づける歴史本をつくる努力こそ歴史家に今求められているのである。
年も押し迫った12月(2006)の半ば、山本勘助と山梨県の足跡を調べを始めるが、その足跡は『甲斐国志』や『甲陽軍艦』の中に記載されてものを様々な歴史家や研究者が書いて刊行されている。その他にも県内には『妙法時期』や『高白斎日記』(甲陽日記)それに『王代記』などの史料もあるが、残念ながら山本勘助に関する記載は見えず、また在ってもそれは後世の人による書き入れであると識者は述べている。このような後世筆を加え、書き改める行為は多く、中でも「家系図」創りなどが最たるものでは無いかと思われる。幾通りもの「家系図」は混乱を増して、どれを信頼していいのかわからない。特に創られた箇所を含むものについては、それを中心にして、周囲の歴史が生まれる可能性さえある。
まず、山本県の歴史を調べ始める上で最も信頼され、多くの人に親しまれ、引用をされているのが『甲斐国志』である。しかしこの『甲斐国志』さえも現在誤った記載があると指摘され始めている。私も山口素堂の調査を10数年続けてるが、やはり最初に手にしたのは『甲斐国志』である。歴史が好きでも専門的な勉強をしていない私にとっては、読み易く「読み下し」がある刊行本が宝物にように思え、今、傍にある『甲斐国志』はもう真っ黒になっていつくらい使用している。読む回数が多くなるにつれて、『甲斐国志』の編纂傾向が理解できるようになってきた。それは、地域の地理や状況については、村からの書き上げ書や現地調査もあり、大よそ正確であると思われる。編纂前の歴史については甲斐の中にも史料が少なく、私たちが現在疑問に思っていることは、その当時でも疑問で後世の研究に託している。従って山口素堂のように県内にまったく資料も無く伝承さえもない人物の記述は「創作」部分が多く挿入されているように感じる。とは云っても現在のように情報が溢れていることなく、中央からの文書や収集資料だけでは、歯がゆさを感じながら作業にあったのではないかと推察できる。しかし山口素堂のように、文学者よりも土木技術者として有名にされてしまったのではたまらない。「甲斐国志」以後、事実確認作業のないままに事実誤認のまま伝えられ、信じられている歴史は多い。
私も山口素堂調査から、これまでの山梨の歴史探求の甘さと、閉塞された歴史界の姿に憤りを感じることさえあった。ガードが固くしかも寛容さに欠けているようにも思われる。多くの疑問がある箇所については官民一体となって探求し、歴史に親しむ人々を育てること急務だと思われる。
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