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2、 勘助は実在したのか?
さていよいよ山本勘助について記していくこととするが、その調べる資料が少なく、また雑誌や小説それに多くの逸話の中で生きてきた勘助を史実の舞台に引き出すことは至難の技である。
さて山本勘助は『山梨人物博物館』よると、生没は(1493)〜(1561)あるから、それは、生年が1493(明応2年)、卒年が1561(永禄4年)で従って年は68歳となる。こうした生年の殆どは没年から生きていた年数は引き算したものであり、1〜2年の誤差はある。しかし、勘助が甲斐にやって来て信玄に仕えたのは53歳のときで、当時の現役生活が何歳から何歳までか調べる機会を逸しているが、戦国時代のことであり、後の川中島合戦のような活躍は信じ難い。勘助の没年は68歳である。高齢であり、もともと身体的な欠陥を持った勘助がどのように戦ったか不思議でならない。
現在でも68歳で現役を勤めることは大変なことで、この『市河文書』の「管助」は後の天正10年(1582)で戦死した「山本勘助信供」の可能性残る。これはあくまでも勘助に子供がいたことが実証された場合に限り許される憶測ではある。
余談ではあるが、勘助の子供とする、山本勘助信供については、小和田哲男氏(静岡大学教授)監修の『流篠・設楽原の戦い』の戦死者名簿に明示されていて、こうした長篠の歴史は保存館や周囲の寺に様々な書類や位牌としてとして残されている。馬場美濃守信房を始め、山縣甚太郎・原隼人佐昌胤・高坂又八郎助宣・米倉丹後守正継など信玄と勝頼の優秀な武将が多く死んでいる。その中に例の山本勘助信供がいる。どちらかと云えば、この信供のほうが勘助より信憑性が感じられる。この信供について『甲斐国志』は次のように記してある。
『甲斐国志』成立文化13年(1816)
山本某 勘助の男なり。名未詳。一本系図に勘蔵信供と作る。天正壬午(10年・1582)の後云々の事あり。軍艦云う、子息一両度場数有りしかと長篠にて討ち死になり。(伝解勘蔵に作る)源三郎は三国志にもみゆ。(後に)幕府に奉仕壬午の起請文に同主殿助と二人、武田の近習衆とあり。
未だ勘助の男子なりや否を知らず。又一系に饗庭越前利長の次男十左衛門云う者、勘助の娘を妻とし、山本氏と改め、その男権平永井信濃守に仕え、山本勘助と称す。とあり。さらに母のことに触れて、
府中(甲府市)妙音寺の過去帳に寛文11年(1671)正月2日
「本覚院智証日意」(山本勘助母)
とあり記してある。
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