山梨歴史・観光tokidoki通信

山梨の歴史観光の出来事を伝えます

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  縁故節の生まれた経緯

 大正の終わり頃、現在と同じような民謡ブ−ムが、日本国中に捲き起こったことがある。大変な民謡の流行だった。
 それに火を付けてのが、丁度其頃から始まったラジオ放送で、東京、名古屋の三カ所から、全国津々浦々の優れた良い民謡を集めて放送したので、尚一層燃え上がったのも無理はなかった。またそれに拍車をかけたのが、レコ−ド会社であった。実際北海道、東北、北陸から九州等、それぞれ良い民謡を豊富に持っていて聞く者をして楽しませ、堪能せずには置かなかった。
 こうした他県の、優れた良い民謡を聞く度に、考えさせられるのが当時の山梨県の民謡事情で、これという民謡もなく今日のように、県内各地の民謡も埋もれたまゝで、僅かに、「粘土節」が山梨県を代表する唯一の民謡であるという貧弱さであった。
 心有る人は山梨県にも他県に勝るよも劣らない優れた民謡の一つや二つあってもよさそうなものと願って止まなかったと思う。
 その頃韮崎町に、白鳳会という山岳会が生れた。碓か大正十二年頃だったと思う。民謡と時を同じくして、渤発した登山熱に呼応して、南アルプスを宣伝出開発しょうとしてである。初代の白鳳会快調に就任した人は、小屋忠子氏であった。小屋氏は当時韮崎町で歯科医をしてわり、後には県会議長迄した、なかなかの政治家だが、、時には尺八も上手に吹き、枠な小唄もうたう風流人で、その名前が「忠子」と書くところから、女性と間違はれたというか、本人は斗酒尚辞せずという剛腹な人で、カイゼル髭をたくわんた立派な紳士であった。
 幹事長は、韮崎郵便局艮の柳本経武氏、とても世話ずきの人で、東京の山岳会の名士多数とも親交のあった人で、小屋会長の良い女房役であった。顧問格が、穂坂村の平賀文男氏、この人も後には県会議員などしたが、本来は山岳家で「月兎」というペンネームで、数多い山岳山著書があり山岳界の権威でもあったが、唄もうたうし踊りもおどる多彩な趣味の持主であった。この三人が、良い民謡をつくって唄の中に十地の人情風俗を織りこんでうたい、踊って見せたら、南アルプスの観光宣伝にもなるだろうと。
 昔から北巨摩地方で、
  
  サアサえぐえぐ ジャガタラ芋はえぐいね 
  中で青いのは なおえぐいシヨンガイナー
 
と、うたわれていた「えぐえぐ節」に目をつけて、その歌誌やメロデーを改良して、新しい民謡を作ろうと、毎晩小屋氏の家に町の芸妓を呼んで努力を積んでおられた。
 当時は、韮崎の町にも金蔦屋、信濃屋、中扇、春本という芸妓屋があって、一番多い時は、芸妓も二十数人もいた。夜ともなると、左襖に、仇な投島田の彼女達の姿もみられ、あちらこちらの料理屋の窓からは絃歌のサンザメキも聞え情緒もあった。
 野尻先生が「韮崎の芸妓はメレンス芸妓」と何かの本に書かれたが、先生は茶屋と呼ばれる一杯屋の酌女と芸妓を間違はれたのではないだろうか、韮崎の芸妓はなかなかの芸達者で芸一筋の廊芸妓の気風もあって、県内では甲府の芸妓につゞいての存在てあったと思う。料理屋に宴会があると、彼女達は必ず「お座付」というものをする。其時弾く曲は、時節ものとか、鶴亀雛鶴、越後獅子等の目出度い曲で、それも一月毎にかわっていて、同しものを二ケ月連続していくことはなかった。而も、正月三日間は目出度い曲の組合せで、一日毎に変っていた程だった。それと云うのも、其頃韮崎には杵屋熊吉という三味線のお師匠さんがいて、芸妓は勿論のこと、良家の子女から俗にいうお若い衆に迄稽古をつけたので、韮崎の芸事に対する標準は意外に高く、生半可な芸では迚も商売には出られなかった。それ故稽古はきびしかったと間いている。決して、 韮崎の芸妓は「メレンス芸妓」ではなかった。内容もあったと思う。面白いことに男名前の杵屋熊吉さんが女で、女名前の忠子と好対照であったことだ。
 そんな芸妓を、小屋氏は毎晩白宅に呼んで、三味線をひかせ、唄はせて新し民謡をつくり出そうと努力しておられた。
 一応唄の形が出来あかったのであろう。或夜「お前も尺八を吹くから聞きに来い」と呼び出しの電話があったので拝聴することにした。
 うたい始めに「アリヤセーコリヤセー」と囃子言葉をつけた。誠に結構だと思った。「縁で添うとも縁で添うとも」と唄に人って同じメロデーを二度繰返している。これはいかん、単調だなと感じた。「柳沢はいやだよ」と変化して「アリヤセーコリヤセ」と前の噺子言葉で結んでいる。あとの「女が木を切る」から、シヨンガイナー迄同じメロデーの繰返しである。
 総ての楽曲には、起、受、発展、終結の原則があって構成されているもので、 起から愛の部分か大切で、それが楽曲全体の可否を決定づけるものである。
始めの起である「縁で添そうとも」と受けに廻る二度目の「縁で添うとも」は変化してこそ望ましいと思ったのに、同じメロデーの繰返しであったから「縁で添うともの二度目の繰返しを五度あげてうたったらどうですか」と進言した。
 「五度上げるとはどうゆうことかね」と質問が返って来たので、楽理の十二律を説明して、繰返し部分を五度あげてうたって見せたら「その方が良い」ということになって、今日の縁故節の基本になるメロデーが決定したのである。
 「踊りもあることだから」と言はれて、四拍子に作譜することを命ぜられた。

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