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縁故節の名称
扱、出来あがった新民謡の名前であるが「サアサえぐえぐ」と唄ったのを、「サアサえんご、えんご」と直したところから「えんご節」と名付けて、漢字で「縁故節」と当字をした。それが何時の問にか文字通り「エンコ節」と呼ばれるようになってしまった。何年頃だったか、日時のことは忘れたが、第一回縁故節発表会を、今の三辛スーパーの処にあった寿座という芝居小屋で町の芸妓を総あけて盛大に行ったこともあった。
毎年夏ともなると穴観音さんの境内に櫓を組んで「盆踊り大会」と銘打って、小屋氏の音頭で「縁故節」によって盆踊り大会を催したことが四五年も続いたろうか、その頃迄は盆踊り大会といえば(四打ち」(エ−ヨ節)だったのが、何時の間にか「四打ち」は「縁故節」に侵略されて、次第に消えて行ってしまった。
縁故節のラジオ放送
縁故節が始めてラジオで全国に放送されたのは、昭川三年の九月だった。愛宕山にあった東京放送局で、放送間始三周年記念祝賀の番組が組まれたことがる。其の中の民謡の部に全国有名民謡の中に加わって、山梨県からも「縁故節」が選ばれて出場することになった。その時の出場者は、三味線が芸妓の勝利、尺八が現在韮崎駅前通りで布団店を経営している秋山計吉さん。唄が芸妓の照葉と下宿の舟山橋際で、トラック運送業をしていた植松輝吉さん、この人は大変販やかな人で自分のことを「おらあ降っても照るやんで」とヒヨウキンを云って人を笑わしていた。踊りが、水上修一さんで歯科技工師、後には市会議員迄なった人である。
以上の五人が放送局で唄ったり踊ったりの大熱演で大好評だった。何しろ初めてのラジオ放送なので、韮崎町も大変な騒ぎで、今の四丁目の魚徳商店(元は繭糸会社といって繭の取引所だった)のところに舞台をつくって現在、韮崎市文化協会長の山本融さんが先頭にたって、スピーカーから流れ出る縁故節のメロテーに合せて踊って見せたものである。
これが縁故節の、全国え名乗りをあげた第一歩であった。
それから七年経った昭和十年十一月、白鳳会を通じて東京の放送局から、再び縁故節を放送して欲しいという依頼かあった。
二代目の白鳳会会長になった柳本経武氏に引率されて放送局に行った人達は、三味線が芸妓の桃竜、尺八が植松逸聖と清水逸映、唄か名取いく{古屋)と佐野儀雄の五人だった二。当時は、全部か生放送で間違うことを許されない一番勝負だったので、緊張の連続であった。
縁故節のレコ−ド化
其夜は神田の旅館に泊って、翌日東京見物でもして婦る予定だったが、突然ビグターレコードから電話かかゝて来て、翌朝、会社に来て縁故節を聞かせて欲しいという申し出があつた。
その晩の縁故節の放送を聞き、放送局に一行の宿泊している旅館を間いて電話をかけたのだという。翌朝指定された時間に会社社に出頭したところ、大野という重役が待ち受けていた。
早速縁故節を披露したところ「朝鮮民謡のようだ」と、異色性を大変ほめてくれて、レコード化の話しまで進んだが時間もないので後日を約して帰って来た。其后ビクターは、ミリオンレコード会社の設立をめぐって内部に紛争がおこり大野重役が退陣したとかで実現出来なかった。かえすがえすも残念なことであった。
昭和十四年に韮崎町中村美容院の中村千代子さん(山本)がコロンビアレコードに吹きこんで発売されたが、これが縁故節のレコードになった最初のものである。
それからは、島倉千代子、三橋美智也等の有名歌手が唄ったレコードか各社から競って発売されるようになり、縁故節は一躍全国的に有名になった。
「縁で添うとも 柳沢はいやだよ」
と唄にあるように、縁故節と柳沢は切っても切れない因果関係にあるわけで、縁故節を語るからには柳沢のことも話さなければならないことになる。
歌詞「柳沢いやだよ」
柳沢という処は、以前は駒城村柳沢だったが最近の町村合併で今は武川村柳沢になっている。甲斐駒ケ岳の麓で、大武川の清流に添った細長い部落である。
徳川五代将軍綱吉公の大老として、一世の権力を欲しいまゝにした柳沢吉保の先祖の地である。
柳沢は、もともと武田の郎党で所謂、武川衆の一人である。 此処には、柳沢壱岐守信勝より、吉保の祖父である。兵部丞信俊にいたる迄居を構えておったといわれている。
宝永一年、柳沢吉保は、松平美濃守古保と名乗って、甲斐の国主となって甲斐に入っている。宝永三丙戊年の秋、吉保が荻生組釆を招いて、柳沢を調査させたがその紀行文中に、「左側黍田中、挿竹表識処、謂是使君旧荘、其四十歩許、昔時有大柳樹、是邑名者、已枯矣」とある。この当時は多少形蹟が残っていたかもしれない。大正二年、子孫の伯爵柳沢保忠氏が柳沢に来たが、何等の形跡がなく落胆して帰られたということが北巨摩郡誌に書いてある。
其の柳沢が何枚近郷近在の人達から「嫁にわやるな」「また行くではない」と、忌み嫌はれたかということは、世俗に伝わる風説では、原因は二つあるようである。第一は、柳沢古保の権力に対する反感と不満を当時とすれば直接口にし、態度にあらわすことが出来なかっにので柳沢吉保を、柳沢部落にたとえて唄にたくしたものだというし、第二には、柳沢部落は非常に封建気風の強い処で男尊女卑の思想が根強く、女が苦労すろところであるからという。第三は、年々度重なる大武川の氾濫で、切角の田地も押し流されて、女も男同様に木を切り、矛を刈るような重労働をしいれられるので、可愛い娘はやれないということである。
昨年、山梨放送の監修で、キングレコードから甲斐武田の民謡という、武田にまつわる一連の民謡集が出来に。武田節などの新民謡を主にした民謡集だが、その中に縁故節を入れることになり、其の歌誌の選定を、韮崎市文化協会が受持つことになった。一番問題になったのが「縁で添うとも柳沢はいやだよ」の歌誌である。これを加えるベきか、削除すべきかということで、柳沢の人達の意見を間いたところ是非加えて慾しいということで歌誌の第一番に書き加えることが出来た。縁故節にこの唄が無かったら骨抜きになってしまうからである。加える事ができてよかった。
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