山梨歴史・観光tokidoki通信

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3、勘助の実在を証明した『市河文書』について

 さてこの勘助の実在を示す『市河文書』(重文指定)とは、昭和44年に北海道釧路市松浦町の市河良一氏は、信玄時代に活躍した北信濃豪族の豪族市河若の末裔で、明治になった頃北海道の開拓に渡った家柄である。この藤若については、後の信玄北信濃侵攻の際に触れたいと思っているが、ここではこの文書の持つ意味について、少し話して見たいと思う。
『市河文書』
注進状披見。
影虎至爾野沢之湯進陣其地へ可取懸模様、又雖入武略候、無同意、剰、備堅固故、長尾景虎無功爾飯山へ引退候哉、誠心地能候。
何ニ今度其方擬頼母敷迄候。越中、野沢在陣之砌、中野筋後詰之義、預飛脚候き、
則倉賀野へ越、上原三与左衛門尉、又当手之事も、塩田在城之足軽為始、原与左衛門尉五百余人、真田に指遣候処、既退散之上、不及是非候。全不可有無首尾候。向後、兼存其旨、塩田在城衆ニ申付候間、従湯本注進次第ニ、当地へ不及申届、可出陣之趣、
今日飯富兵部少輔へ成下知候条、可有御心易候。
猶可有山本管助口上候。                   恐々謹言
     六月廿三日 晴信(花押)             市河藤若殿
《読み下し》
 『市河文書』(山本勘助実像 別冊『歴史読本』1987年判)甲陽軍艦』に登場する謎の武将・勘助の真の姿とは 上野晴朗氏著

 注進の状披見す。よって影虎野沢の湯に至り陣を進め、その地へ取り   かかるべき模様、また武略に入り候と雖も、同意なく、剰、備え堅固ゆえ長尾効なくして飯山へ引き候よし、誠に心地よく候。いずれも今度のその方のはかり頼母敷くまでに候。なかんづく野沢布陣の砌り、中野筋の後詰の儀、飛脚に預り候き。品即ち倉賀野へ越し、上原与三佐衛門尉、又当千の事の塩田在状の足軽を始めとして、原与左衛門尉五百余人、真田へ差し遣し候処、すでに退散の上是非に及ばず候。まったく無守備に有るべからず候。向後は兼てその旨を存じ、塩田の在城衆へ申しつけ候間、湯本より注進次第当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔の所へ下知をなし候條、御心易く有べく候。{筆註―剰(あまつさえ)}

なお山本管助口上有るべく候。恐々謹言。
 六月二十三日    晴信 花押

《訳》  
 注進状を読んだ。景虎が野沢の湯に陣を進め、その方の地へ責めかかる様子を見せ、また、先遣隊などが攻撃をしかけたが、とりあわず、防備を堅固にしたので、長尾景虎は功なくして飯山へ退いたそうだが、誠に心地よいことである。景虎が野沢に布陣中、中野筋へ後詰めするように飛脚をもらった。そこで倉賀野にいる上原与左衛門尉に応援を命じ、塩田在城の足軽をはじめ、原与左衛門尉ら五百余人を真田幸隆の指揮下に入れ、後詰めに差し遣わそうとしたが、すでに景虎が退散したので、間にあわなかった。決して処置を怠ったわけではない。今後は塩田在城衆に申し付けておくから、湯本から注進があり次第、私にことわらずに出陣せよと、今日、飯富兵部少輔に命じておいたからご安心願いたい。 なお、山本管助が口上で申し上げる。   
 
この『市河文書』は信玄の花押(かおう)もあり、調査に関わった長野県信濃史料編纂室の人々から真筆であると確認されたもので、それまでは「勘助実在疑惑」説が歴史界を覆っていたが、この文書の出現により、それまでの勘助に対する認識が改まる結果となり、それまで定説となっていた田中義成氏の「勘助は単なる武田家の一兵卒にすぎず、山縣三郎兵衛に所属していた」といった内容が定説となっていた。この文書で大切なのは、文面の内容が当時の弘治3年(1557)の戦況と一致しているかどうかである。これについては多くの先生方が合致していると言われている。ここで私が問題提起したいのは、この書状を勘助が持参しているということと、それ以前に市河藤若から信玄に注進状が届いていることである。
「山本管助が口上で申し上げる」の内容は伝わらないが、勘助はこの年、64歳であり、事実であれば、それは驚異的なことである。 勘助は眼も手足も不具合であったいう。激しい戦況下で活動するには大変な事であり、こうした注進を伝える使者であったことなど信じられない。勘助は動かず軍師としての活躍のほうが似合っている。定説というものは「事実であるかどうか」より「誰が言ったかが」大切にされて、しかも歴史学界や考古学界の重鎮の言が効力ある。それが決定的に間違っているにも拘わらず、こうし類は多く伝わっている。その他にも「洗脳(せんのう)創作(そうさく)歴史(れきし)」と言うものが多く、これの方が一般的には多いと思われる。これは創作歴史を繰り返し報道やテレビドラマで取り上げ、さらにこうした著作物から引用して歴史紹介を案内書で記述・記載することが繰り返される。年月が経るとその「創作歴史」が史実とはかけ離れて一本立ちして真実のように人々の認識に深く侵入して行くことを言うのである。

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<写真と図版>

1)山梨日日新聞記事
2)市川文書目録「信濃」所収写真


2、 勘助は実在したのか?

さていよいよ山本勘助について記していくこととするが、その調べる資料が少なく、また雑誌や小説それに多くの逸話の中で生きてきた勘助を史実の舞台に引き出すことは至難の技である。
さて山本勘助は『山梨人物博物館』よると、生没は(1493)〜(1561)あるから、それは、生年が1493(明応2年)、卒年が1561(永禄4年)で従って年は68歳となる。こうした生年の殆どは没年から生きていた年数は引き算したものであり、1〜2年の誤差はある。しかし、勘助が甲斐にやって来て信玄に仕えたのは53歳のときで、当時の現役生活が何歳から何歳までか調べる機会を逸しているが、戦国時代のことであり、後の川中島合戦のような活躍は信じ難い。勘助の没年は68歳である。高齢であり、もともと身体的な欠陥を持った勘助がどのように戦ったか不思議でならない。

現在でも68歳で現役を勤めることは大変なことで、この『市河文書』の「管助」は後の天正10年(1582)で戦死した「山本勘助信供」の可能性残る。これはあくまでも勘助に子供がいたことが実証された場合に限り許される憶測ではある。

 余談ではあるが、勘助の子供とする、山本勘助信供については、小和田哲男氏(静岡大学教授)監修の『流篠・設楽原の戦い』の戦死者名簿に明示されていて、こうした長篠の歴史は保存館や周囲の寺に様々な書類や位牌としてとして残されている。馬場美濃守信房を始め、山縣甚太郎・原隼人佐昌胤・高坂又八郎助宣・米倉丹後守正継など信玄と勝頼の優秀な武将が多く死んでいる。その中に例の山本勘助信供がいる。どちらかと云えば、この信供のほうが勘助より信憑性が感じられる。この信供について『甲斐国志』は次のように記してある。

 『甲斐国志』成立文化13年(1816)          
 山本某 勘助の男なり。名未詳。一本系図に勘蔵信供と作る。天正壬午(10年・1582)の後云々の事あり。軍艦云う、子息一両度場数有りしかと長篠にて討ち死になり。(伝解勘蔵に作る)源三郎は三国志にもみゆ。(後に)幕府に奉仕壬午の起請文に同主殿助と二人、武田の近習衆とあり。

 未だ勘助の男子なりや否を知らず。又一系に饗庭越前利長の次男十左衛門云う者、勘助の娘を妻とし、山本氏と改め、その男権平永井信濃守に仕え、山本勘助と称す。とあり。さらに母のことに触れて、

  府中(甲府市)妙音寺の過去帳に寛文11年(1671)正月2日
「本覚院智証日意」(山本勘助母)

とあり記してある。

2、 勘助は実在したのか?

さていよいよ山本勘助について記していくこととするが、その調べる資料が少なく、また雑誌や小説それに多くの逸話の中で生きてきた勘助を史実の舞台に引き出すことは至難の技である。
さて山本勘助は『山梨人物博物館』よると、生没は(1493)〜(1561)あるから、それは、生年が1493(明応2年)、卒年が1561(永禄4年)で従って年は68歳となる。こうした生年の殆どは没年から生きていた年数は引き算したものであり、1〜2年の誤差はある。しかし、勘助が甲斐にやって来て信玄に仕えたのは53歳のときで、当時の現役生活が何歳から何歳までか調べる機会を逸しているが、戦国時代のことであり、後の川中島合戦のような活躍は信じ難い。勘助の没年は68歳である。高齢であり、もともと身体的な欠陥を持った勘助がどのように戦ったか不思議でならない。

現在でも68歳で現役を勤めることは大変なことで、この『市河文書』の「管助」は後の天正10年(1582)で戦死した「山本勘助信供」の可能性残る。これはあくまでも勘助に子供がいたことが実証された場合に限り許される憶測ではある。

 余談ではあるが、勘助の子供とする、山本勘助信供については、小和田哲男氏(静岡大学教授)監修の『流篠・設楽原の戦い』の戦死者名簿に明示されていて、こうした長篠の歴史は保存館や周囲の寺に様々な書類や位牌としてとして残されている。馬場美濃守信房を始め、山縣甚太郎・原隼人佐昌胤・高坂又八郎助宣・米倉丹後守正継など信玄と勝頼の優秀な武将が多く死んでいる。その中に例の山本勘助信供がいる。どちらかと云えば、この信供のほうが勘助より信憑性が感じられる。この信供について『甲斐国志』は次のように記してある。

 『甲斐国志』成立文化13年(1816)          
 山本某 勘助の男なり。名未詳。一本系図に勘蔵信供と作る。天正壬午(10年・1582)の後云々の事あり。軍艦云う、子息一両度場数有りしかと長篠にて討ち死になり。(伝解勘蔵に作る)源三郎は三国志にもみゆ。(後に)幕府に奉仕壬午の起請文に同主殿助と二人、武田の近習衆とあり。

 未だ勘助の男子なりや否を知らず。又一系に饗庭越前利長の次男十左衛門云う者、勘助の娘を妻とし、山本氏と改め、その男権平永井信濃守に仕え、山本勘助と称す。とあり。さらに母のことに触れて、

  府中(甲府市)妙音寺の過去帳に寛文11年(1671)正月2日
「本覚院智証日意」(山本勘助母)

とあり記してある。

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<写真>
1)謎の市川文書
2)長野県勘助の供養等
3)勘助画像(1)武田24将より



やまもとかんすけ
  諸書による
 山本勘助の実像と虚像

序にかえて
 山本勘助は実在の人物か虚像なのか未だに意見の分かれているところであるが、来年度NHKの大型テレビドラマの「風林火山」において、多くの人々には実在したとの認識が深まることは間違いない。こうした現象は過去にも色々あり、「武田信玄」のように様々な映画やテレビドラマで放映され、小説家や著述家が視点を変えて様々な信玄を書くので、そこには幾通りもの武田信玄像が出現する。

 おおよそ歴史小説や歴史ドラマそれに歴史演劇・講談などなどに、取り入れられる度に史実か創作なのか混乱してしまうのも常である。
 山梨県では、甲斐(かい)古代(こだい)・甲斐(かい)御牧(みまき)・甲斐(かい)源氏(げんじ)・ 武田(たけだ)信(しん)玄(げん)・ 中世(ちゅうせい)の武将(ぶしょう)と甲斐(かい)・甲府(こうふ)城(じょう) 柳沢(やなぎさわ)吉(よし)保(やす)・秋元(あきもと)喬(たか)朋(とも)・山口素堂(やまぐちそどう)・杉本(すぎもと)茂(も)十郎(じゅうろう)・山本(やまもと)勘(かん)助(すけ) などなどいまだに解明されていない箇所と、未詳の部分を持ちながら、新たな史料の無い中で筆力により定説化が進んでいる。いわゆる歴史は空白部分が大きい多いのである。こうした空白を歴史に携わる人々は埋めていく。「そうではないか」「そうと思われる」の作業をして空白未詳箇所に「仮説」「私説」「推説」「偽説」「創説」「空説」などや、神社仏閣や後世においてその人物を祖と崇める名家などの由緒が散りばめられ「創作歴史」が混入されて、史実と虚実が合わせられ一人の人物像ができていく。              

 今回はその中でも歴史の中でも、甲斐(山梨県)に於いても、全国的に見ても未だに虚像説が高い「山本勘助」を取り上げて諸書の記述や歴史家の取り組みな介しながら、真実の勘助像に迫ってみたい。引用史料については『甲斐国志』(以下国志)『甲陽軍艦』(以下甲陽)『妙法寺記』(以下妙法)が中心にしたいのであるが残念ながら勘助に係わる記述がない。僅かに見える記述も後世編集した人物により書き加えられたものであると識者は語っている。
 
 その書き入れた基本は『甲陽軍艦』であり、多くの先生方も内容を疑い、間違いを指摘しながらも引用せざるを得ないで紹介している。この両書については、それぞれは独立ししてあるのでそれらもご一読していただきたい。
 この著が終了する頃には、大形ドラマも開始する時期になると思われる。正月からは長野県や静岡それに愛知などを探訪して、勘助の足跡を歩査して、この著に「探訪記」を追加していきたいと考えている。

一、山本勘助の略歴

1、山梨の歴史観
山梨県内の多くの人々は、言い方は悪いが歴史には余り関係ない。一昔前までのように、地域の人々が地域の歴史ひたすら書くという単純な構図が、殆ど見えなくなった。昔の本が未だに人気があるのは、著者の篤さによるものである。

 それは、歴史は生産や収益に関係ないもの、生活に何等の物質的な潤いを持たないものとして、人々の潜在的な知識と認識の中には歴史を避けて通りたい箇所があるのかも知れない。例えば歴史テレビドラマが始まれば、まず「観光や商い」との関係を行政も民間も旨とする。こうしたことは全国を歩いても何処にでも見られる光景である。
それでも歴史が落ち着いて観光と結びついている地域は、ドラマが終わった後も本来の観光が展開されているが、取って付けたようなその時だけ盛り上がり盛り挙げさせた歴史観光は、ドラマの終了とともに泡沫のように消え去っていく、業者も虚脱感に襲われて、仕掛けた行政観光も、そうした行為の反省も無いままに次のキャンペーンを掲げて進む。
 こうした行為がさらに人々の歴史感覚を消失させる。創られた歴史観光は一時的継続性を持たないのが常である。本年ように、歴史的にみて未だに定かではなく、山梨県内に殆ど足跡を持たない「山本勘助」を歴史考証することなく、大形観光の目玉にするという、誤った認識はいったい何処から生まれてくるのか不思議でならない。歴史はその都度振り返ることが大切で、誤りや不確かな箇所を訂正是正する事を忘れてはならないのである。

 また歴史家(れきしか)と歴史家(れきしや)さんの多くは、固定観念に捉われしかも、グループ内歴史展開をして自己満足している。例えば現在進んでいる『山梨県史』の編纂事業で収集した史料は相当なもので貴重なものが沢山含まれている。しかしである。編纂努力にも拘わらず、せっかく山梨県内の図書館や多くの公共施設に配布された『山梨県史』は、開かれる機会は少ない。また一部では飾るもので、インテリアとして書棚に飾られる結果となっている。

 古文書の解読をされて、読み下しの部分があってもそれでも一般の人々には難しく、生理的に受け入れないものなのである。山梨県内の考古学発掘報告書や研究、それにこうした類の著作物は普通の書店より、古書店で高値売買される宿命なのである。開いた本より、未開封の著作物の方が高値で取引されている。二三年前に山梨より遠く離れたある県の古書店を訪れた時、こうした山梨関係の本が集中して販売されていた。歴史資料が大切なことは理解できるが、読まれない本、特殊の人だけにしか参考にしない資料は勿体無い。一般には小学生でも理解できる程度の内容で十分である。歴史に携わる人々は、歴史を好きになる人々を近づける歴史本をつくる努力こそ歴史家に今求められているのである。

 年も押し迫った12月(2006)の半ば、山本勘助と山梨県の足跡を調べを始めるが、その足跡は『甲斐国志』や『甲陽軍艦』の中に記載されてものを様々な歴史家や研究者が書いて刊行されている。その他にも県内には『妙法時期』や『高白斎日記』(甲陽日記)それに『王代記』などの史料もあるが、残念ながら山本勘助に関する記載は見えず、また在ってもそれは後世の人による書き入れであると識者は述べている。このような後世筆を加え、書き改める行為は多く、中でも「家系図」創りなどが最たるものでは無いかと思われる。幾通りもの「家系図」は混乱を増して、どれを信頼していいのかわからない。特に創られた箇所を含むものについては、それを中心にして、周囲の歴史が生まれる可能性さえある。

 まず、山本県の歴史を調べ始める上で最も信頼され、多くの人に親しまれ、引用をされているのが『甲斐国志』である。しかしこの『甲斐国志』さえも現在誤った記載があると指摘され始めている。私も山口素堂の調査を10数年続けてるが、やはり最初に手にしたのは『甲斐国志』である。歴史が好きでも専門的な勉強をしていない私にとっては、読み易く「読み下し」がある刊行本が宝物にように思え、今、傍にある『甲斐国志』はもう真っ黒になっていつくらい使用している。読む回数が多くなるにつれて、『甲斐国志』の編纂傾向が理解できるようになってきた。それは、地域の地理や状況については、村からの書き上げ書や現地調査もあり、大よそ正確であると思われる。編纂前の歴史については甲斐の中にも史料が少なく、私たちが現在疑問に思っていることは、その当時でも疑問で後世の研究に託している。従って山口素堂のように県内にまったく資料も無く伝承さえもない人物の記述は「創作」部分が多く挿入されているように感じる。とは云っても現在のように情報が溢れていることなく、中央からの文書や収集資料だけでは、歯がゆさを感じながら作業にあったのではないかと推察できる。しかし山口素堂のように、文学者よりも土木技術者として有名にされてしまったのではたまらない。「甲斐国志」以後、事実確認作業のないままに事実誤認のまま伝えられ、信じられている歴史は多い。
 私も山口素堂調査から、これまでの山梨の歴史探求の甘さと、閉塞された歴史界の姿に憤りを感じることさえあった。ガードが固くしかも寛容さに欠けているようにも思われる。多くの疑問がある箇所については官民一体となって探求し、歴史に親しむ人々を育てること急務だと思われる。


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