山梨歴史・観光tokidoki通信

山梨の歴史観光の出来事を伝えます

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 歴史となれば、政治決着とはいかない。
 それがこの
 甲府城改修工事と
 掛川城改修工事
 の問題である。

 この問題は政治的には
2001年(平成13年)3月27日
県議会で黒色のまま政治決着している。

 その過程を議会の質疑応答より見ると
 (ちなみに私は無所属です)

 <日本共産党山梨県議団-県議会での質問と答弁-2003年6月定例議会...>

  最後に、甲府城石垣問題についてです。

 1990年度から開始された甲府城石垣等改修工事も、稲荷やぐらの建設をもって本年度で終了の予定ですが、この事業は、2000年11月に、礎石の紛失、石材の流出等が判明し、「甲府城石垣礎石等調査委員会」がつくられ、翌年3月に「調査報告書」が出されました。
 この調査報告書は、原因及び改善方法という点では一定の解明がされましたが、なくなった礎石を発見することもなく、また石材の流出についても、「掛川城への流出のうわさは、掛川城と甲府城の石材産地や石積工が同じであったことが、うわさを生じた一因」との推定にとどめたもので、到底県民の納得が得られるものではありませんでした。
 わが党は、この間、掛川城への視察を含めた調査を行った結果、文化財である甲府城石垣の石材が掛川城公園の石垣石材として流出したという疑いを強く持つに至りました。
 その理由は、

 第一に、甲府城旧石材と掛川城石材とが、組成成分分析でほぼ一致したこと。
 
 第二に、双方の石材の表面の風化状況は等しく、新石材では見られない甲府城旧石材と同様のコケが掛川城にも確認できること。

 第三に、掛川城石垣にも、部分的に新石材と考えられる石が積まれ、甲府城と同様に、新・旧両方のコントラストが確認できること。

 第四に、掛川城公園の角石や天端石の中には、新石材では考えられない、角が丸みを帯び、自然石に近く磨耗していることや、新石材に特徴の石材表面に現在の工具による調整跡が見られないこと。

 第五に、甲府城旧石材に確認されている矢穴痕と考えられる石が掛川城石材に確認できること。

 第六に、甲府城発掘調査時に撮影された写真の石と同様の形をした石が、掛川城に確認できることです。
 掛川城公園には、もともと石垣はほとんどなく、すべての石材を甲府から搬入しました。

 一方の甲府城石垣復元工事は、県の発表でも、2000年度までに9610平方メートルが行われ、その43%が新石材と入れかわっているとされています。

 入れかわった旧石材の数は、4000個から5000個と推定できます。

 調査委員会の調査では、この大量の使用されなかった旧石材の廃棄処分が、どこに、どのようにされたかも解明されていません。
 知事、状況証拠は、甲府城旧石材が掛川城公園石垣に流出したと考えられるものです。改めて調査委員会を設置し、全面的解明をすべきと考えますが、答弁を求めて、質問を終わります。


 <山梨県の答弁>

 次に、甲府城の石垣についてであります。
 甲府城の石垣につきましては、平成2年度から14年度にかけて、舞鶴城公園整備事業として改修を行ってきました。
 こうした中、平成12年に、甲府城の石垣の旧石材が静岡県掛川市の掛川城公園の石垣に使用されているとの指摘があったことから、甲府城石垣礎石等調査委員会において調査が行われました。
 その結果、平成2年度から7年度まで行われた掛川城の整備事業では、甲府城の場合と同じ産地の甲府北部の新石材が使われていること、石積工も甲府城整備業者と同じであったことなどからそのような風評が立ったものであり、甲府城の石垣の旧石材が掛川城公園に流出した事実は認められないと報告されております。
 また、当時の市の関係者などからの聞き取り調査でも、掛川城公園には古い石材は使われていないことが確認されています。
 こうしたことから、甲府城からの石材流出があったとは考えられないものであります。
 以上でございます。

中岡晴江議員の関連質問

◯中岡晴江君 教育長さん、答弁漏れがあります。
 確かに、なぜ、今、この問題を蒸し返すのかという御意見もあることは十分承知しています。しかし、文化財である甲府城石垣石材がどのようにされたのかをしっかり究明して、真実を明らかにし、歴史を継承するということも重要だと考えています。
 「甲府城石垣礎石等調査委員会」の最終報告書は、今後の対応についての中で、「石材流出に関する課題など解明すべき点も残されているが、以下のような方策をとり、委員会の役割を終える」こととしています。そして、「石材流出情報の対応」では、「今後、新たな情報の可能性もあるが、その場合には、教育委員会及び土木部の担当課において調査し、その結果を県民に報告すること」と記されています。まさに、我が党は、新たな情報を提供いたしました。この調査委員会の最終報告書の意思を酌めば、調査をするというのが県の姿勢ではないでしょうか。
 改めて調査委員会の設置を求めますが、いかがでしょうか。

◯教育長(数野 強君)中岡議員の関連質問にお答えいたします。
 確かに、私も、今、手元に報告書を持っておりますが、新たな、今、議員がおっしゃったような情報提供があった場合、この報告書の中では、その場合には、教育委員会及び土木部の担当課において調査し、その結果を県民に報告することとなっておりますので、これは、今後、担当課で処理させていただきたいと思います。
 以上でございます。



 

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 最近、時間があると、北杜市内の森林(民有林・県有林)の状況調査に出かける。

 これは人家のそばに出没して、

 農業や林業に大きな被害が出ているからである。

 調査は続行中であるが、

 その範囲と深刻さは甚大で、

 林政の枠を超えて、

 全面的な施策をもって対処しないとならない時期に来ている。

 鹿や猿への対策は電気柵設置では、

 行き届かない状況であり、

 この電気柵が、彼らの「安全地域の確保」

 にもつながっていることは皮肉である。

 鹿も同じ樹種を食するのではなく、

 その地域に於いて、

 特徴的に現れている。

 特に彼らの標的になるのは

 手入れの行き届いた桧の植林樹皮

 百日紅(さるすべり)の樹皮

 樅(モミ)の樹皮

 などあり、
 
 雑木などは、剥がれたところから

 枯れて倒れる木が増えていて

 小淵沢や白州の鳥原から上教来石(かみきょうらいし)

 の山地の被害は甚大であり、

 イノシシの被害も確認でき

 早急な対策が望まれる。

<追記>

 10・11・12

 の写真は、桧の35年育ったもので

 鹿に表皮を剥がされ、

 甘皮を食されたもので、

 剥がれた所から、

 腐れや変色が始まり

 将来にわたって、

 製材品とはならない。

 従って食されたときに

 伐採して使用することが望ましい。

危険木の処理

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 <日本列島危険樹木がいっぱい>

 今回の台風のでも、風倒木の被害が報道されています。これは他人事ではなく、身近に潜んでいる、

 もっとも危険な事故につながる問題です。

 私の家にも、

 こうした樹木の撤去や処分以来が殺到しています。

 しかしその数の多さは天文学的数字であり、これは年々増加の一途たどっています。

 北杜市でも、予算措置を講じて、

 赤松虫害処理や道路周辺危険木の撤去をしていますが、

 それはほんの一部です。

 最近では、赤松も虫害倒木だけでなく、

 蔓(つる)による「絞め枯れ死」

 蔦(つた)による「覆い窒息枯れ死」

 地下水や表層水の「流露変化枯れ死」

 「管理放棄枯れ死」

 「電気柵設置により、育林放棄枯れ死」

 「鹿害枯れ死」

 「イノシシ根堀枯れ死」

 「酸性雨枯れ死」

 「道路工事枯れ死」

 「皆伐採周囲枯れ死」

 「土地造成環境変化枯れ死」

 など、名前の付け方はともかく

 多くの樹木が枯れ死倒壊しています。

 さあ、

 「危険な蔓(つる)虫害枯れ死」の処理です。

 処理にはこんな服装で行ってはいけません。

 安全基準と安全作業を励行してください。

 作業は写真で。

◎山地内の七地蔵(むかしここには墓所があった)

 と、
 伐採する木への感謝と慈しみの供養(酒と塩)

1)周囲の整理
2)周囲の危険倒壊木の処理
3)蔓や蔦の除去
4)倒す位置の確認
5)周囲に人がいないか安全確認と「立ち入り禁止」の看板設置
6)木を引っ張る「チルホール」の設置
7)チエンソーで受け口(倒れやすくする)を入れる。
8)チルホールで倒れていた木を垂直まで引っ張る。
9)作業確認をして、チエンソーで切断作業。
10)枝落ちなどの危険を確認除去
11)倒して木の枝を落とす。
12)数日後には山地から撤去
13)有効活用へ
14)費用は実費

山梨の観光と行政

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 <井上靖と風林火山>
 関連ホームページ
 ■ http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-tbtop&p=%a4%a4%b0%e6%be%e5%cc%f7%a1%a1%c9%f7%ce%d3%b2%d0%bb%b3

 風林火山の最初は信玄ではない(参考ホームページ)
 ■http://search.live.com/results.aspx?mkt=ja-jp&FORM=TOOLBR&q=%E9%A2%A8%E6%9E%97%E7%81%AB%E5%B1%B1+%E5%8C%97%E7%95%A0&FORM=TOOLBR


<写真は山梨県北杜市内の倒壊危険樹木の情報です。画像のような樹木には近づかないでください>


昔と違って、現在は観光やイベントに積極的に取り組んでいる県や市町村が目立つが、一方ではその運営管理に、好ましくない報道も為されている。

 特に平成18年から19年にかけての、HNKテレビ大河ドラマ「風林火山」への行政の積極的な取り組みは「山本勘助狂騒曲」といってよいほどの、異常ともいえる取り組みを行った。

 結果、観光客は増えたが、しかしその内訳を分析してみると、県立や市立施設に入場者が集中して、周囲や本来の観光地は思ったような集客ができずに、閑散とした箇所も出てきた。一箇所に集めれば周囲に人は行かない。こんな簡単な計算が不足していた。

 今回の「風林火山」は、原作者の井上靖生誕100年を記念して制作との、NHK責任者の講演で聞いたが、山梨県や一部の市観光は、率先してNHKの撮影や収録に奔走し、大型の施設を急遽建設して、テレビ放映同時観光を展開、民話にもならない個人的伝承を、歴史作家と報道の後押しで、「史実」に昇格させる愚かな行為を繰り返している。
 度重なるイベントとNHK放映の影響で地域の歴史はズタズタに引き裂かれてしまったのである。

 現在、言葉は悪いが「性懲りもなく」次の展開をしている。

 どこも財政は逼迫していて、相当の絞込みが求められているが、馬耳東風の感さえする取り組みも見られた。

 山梨県の観光と何なのか。それは多くの森林とそれを取り巻く自然環境である。
 最近崩壊がすすみむ、こうした資源を守り育て、
 県内にある賭けがいない施設や神社仏閣と人的資源を生かす努力をするべきと考える。

 県の博物館や観光施設も、集客策に、武田信玄・山本勘助それにNHKの大河ドラマ館を設置して、一時の観光の目玉にした。

 これは長野県八幡原でも、昨年「功名が辻」でNHK観光を実施した、掛川城でも二番煎じ「山本勘助展」を展開している。

 こうなると観光行政も本末転倒であり、何のための観光か、長期的な見通しなどまったくない、場当たり観光といっても過言ではない。

 多くの人が勘違いされているが、「風林火山」の旗など武田信玄は用いていない。長い漢文の旗は戦場に棚引いていたかも知れないが、

 「風林火山」は井上靖の小説「風林火山」から生まれたものである。
 それをあたかも、武田信玄が作った言葉で、しかも中国の「孫子の兵法」のものは、もう少し文が長い。(別記)

 井上靖はその手記の中で、

 風林火山の命名
 新国劇と風林火山
 映画と風林火山
 風林火山の主人公、山本勘助への思い入れ

 など興味深い話が満載されている。

 本来なら、こうした井上文学の紹介や生き様などを中心にしてこそ、
 井上靖生誕100年を期に、多くの井上文学に触れたり、浸るよい機会なのに、
 NHKも地方も違った方向で融合してしまった。

 
 行政もHNKも「風林火山」のボタンを完全に掛け違え、
 歴史検証のないままに、地方の行政とタイアップして、
 方向性の少ない井上文学からかけ離れたドラマ展開。

 「井上文学とテレビドラマ」を期待していた方々も多かったに違いない。

 しかも井上靖命名の「風林火山」の旗は、至る所に設置され、交通の妨げになっている。しかもその名づけ親が「武田信玄」と信じ込んでの設置である。
 そしてなびく旗にいざなわれて、観光ツアーバスは、一直線に施設に直行して、客は一部の観光品を漁り買い求めて帰途に着く。

 県内の武田信玄ゆかりの地など閑古鳥とカラスの集散地となっている。
 筆者もたとえば、武田家と最も近い関係にある「窪八幡神社」など、壁面の絵画など色あせて、たまに子犬を連れ、散歩する人が通るくらいである。
 
 山本勘助や武田信玄関係の本も一般書店から、歴代知事の著書と一緒に「ブックオフ」の、100円コーナーに目立ち始めた。

 もったいない。もったいない。数多くある山梨県の観光地の一年の収益は如何に。

 「何でも間でも行政」の時代は終わった。
 行政も民間も、自らが何を考え、何をすべきかをじっくり考える時期に来ている。

 これまでの反省のないままに、展開される山梨県行政観光の、
 
 次のターゲットは

 <山梨県のシンボル野生鹿肉を加工して、レストランへ>

 「山本勘助」の二の舞にならないように願いたい。

 また少ない予算で最高の効果を求める観光は、山梨県には潜んでいる。


 


 

 甲斐源氏の認識間違いと、イベントや観光と史実の問題点


 甲斐源氏の動向

 甲斐源氏の足跡 その1

知承4年9月    

 甲斐源氏の動向 (人別)  



◇藤原公季(甲斐公)◇



長元2年10月17日(1029)《『日本記略』後編14》

○故太政大臣藤原公季を甲斐に封じ、甲斐に封甲斐公となし仁義公とする。正一位。



◇源頼信◇



長元3年9月2日(1030)《『日本記略』後編14》

○甲斐守源頼信及び坂東諸国司に命じて平忠常を討たせ、追討平直方を召還する。  



長元4年2月23日(1031)《『日本記略』後編14》

○甲斐守源頼信、調庸使が流人藤原光清の使者を射殺した状を奉上する。



長元4年4月28日(1031)《左経記》

○平忠常、甲斐守源頼信に投降し、伴われて上京の途次美濃国で病没、頼信その首級を携

えて入京する。



長元4年6月27日(1031)《左経記》

○朝廷、頼信の行賞と忠常の子常昌・常近の処分のことを議する。



長元4年7月1日(1031)《小右記》

○頼信、忠常追討の賞として丹波守を望む。



長元4年7月13日(1031)《小右記》

○頼信、右大臣藤原実資に物を贈る。



長元5年2月8日(1032)《類聚符宣抄第8》

○平忠常の賞により甲斐守源頼信を美濃守に任ずる。



永承1年(1046)

○河内守源頼信、石清水八幡宮に告文を捧げ、祖先並びに自己の勲功を述べて、子孫の繁

栄を祈る。





◇源義光◇新羅三郎義光についての記載

 <北杜市須玉町所在の新羅三郎義光が祭られているとい寺は菩提寺で、墓所ではない>



天喜2年(1054)

○義光、生まれる。



永保3年(1083)《奥羽戦乱と東国源氏》

○義光、左兵衛尉。年三十九才。

○長兄の義家が後三年の役が陸奥国で苦戦、義光、援軍として上奉して暇乞をするが認め

られず、許可なく馳せる。

○義光、時秋に足柄山にて笙を伝授する。《奥羽戦乱と東国源》

○義光、陸奥国菊田荘(いわき市内)を押領を図る(修理太夫藤原顕季の所領)明簿奉呈

(家臣になる意思表示)をする。義光受領、常陸介となる。現地に赴任し、大豪族大掾家

の娘を嫡男義業の妻に迎え、佐竹郷に居を構える。

○義光の勢力、佐竹郷を中心として、国内北東部一帯に定着する。



康和4年2月3日(1102)《殿暦・武川村誌》

○刑部丞源義光、馬二疋を右大臣忠実に贈る。この時義光五十八才。

(殿暦……忠実の子忠通の日記)

○新羅三郎。常陸・甲斐守。左衛門。刑部丞。平日住三井寺。

○義光の子義業…吉田太郎清幹の娘を娶り、佐竹冠者昌義を設ける。

○義光、義業を久慈川流域の佐竹郷に配置。

○義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。

○義光、義清を那珂川北岸の武田郷に配置。



嘉承1年6月(1106)《永昌記》

○源義家の子の義国と義光が常陸国で合戦。



大治2年10月20日(1127)《尊卑分脈・大聖寺過去帳》

●源義光死去。年七十三。  

○義光の所領は常陸国多可郡の国境に近い菊田庄であったといわれる。《十訓抄》



《註》

『韮崎市誌』には義光が甲斐守になったのは、

 嘉保三年(1096)〜康和元年(1099)の四年間であるとし、その根拠として、

甲斐守藤原行実、藤原惟信の間の任期不在期間を充てている。がこの行実は承徳二年(1

098)八月に見任として『中右記』に名が見える。また甲斐国司は甲斐源氏の勃興の間

も引き続いて存在している。



《註》

『新編相模風土記稿』巻之八十七 鎌倉郡巻之十九には次の記事が見える。

○大寳寺、佐竹山にあり、多福山一乗院と号す。此地に新羅三郎義光の霊廟あるが故、其

法名多福院と云ふを執て山号とす云へり。されども義光の法名を多福院と云ふもの信用し

し恐らくは訛なるべし。佐竹常陸介秀義以後敷世居住の地にて今猶当所を佐竹屋敷と字す

るは此故なりと云ふ。『諸家系図纂』に秀義の後裔右馬頭義盛応永六年(1399)鎌倉

に多福寺を建とあり。

○多福明神社…新羅三郎の霊廟と云ふ、明応八年(1500)権大僧都日證一社に勧請しその法

号を神号とすと伝ふ、恐らは佐竹義盛の霊廟を義光と訛り伝ふるなるべし。云々

○鎌倉長勝寺、寺宝、寳陀観音像一体(新羅三郎義光の守本尊と云ふ)

○鎌倉市大町大宝寺…大宝寺浦野墓地にある変形の宝篋印塔で、後裔の佐竹氏が建てたと

いう。義光は頼義の子で、新羅三郎あるいは館三郎と称し、兄義家を授けて清原武衡・家

衡を討った。(『歴史と旅』鎌倉興亡史)

○大宝寺…多福山一乗院といい、承暦年間の創建で、当時は真言宗で、俗に佐竹屋敷とい

われる所で後三年の役後、新羅三郎義光がここに館を構え、その後佐竹秀義が住んだと伝

えられる。(『歴史と旅』鎌倉興亡史)



《註》

 常陸国を去った義光は京都に戻る。除目待つ間近江園城寺に住む。近江国義光所領の地

は柏木、山村の両郷など近江国に多く見られる。

○義光は補任として甲斐守となる。その所領は加賀美郷・逸見郷・甘利郷・塩部郷・石和

御厨・原小笠原郷・一宮郷・一条郷・上条郷・下条郷・板垣郷・吉田郷・二宮郷・岩崎郷

など。

○義光は嫡男義業を常陸、次男義業の次男義定を配置する。



◇武田義清◇・◇源清光◇



承暦3年(1079)義清生まれる。(逆算)《『甲斐名勝志』所収「武田系図」》



康和4年2月3日(1102)

○義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。



天永1年6月7日(1110)

○義清の子、清光が生まれる。

天永1年6月19日(1110)

○清光が市川平塩岡の居館で生まれている。



保安4年(1123)《武川村誌》

○義清出家。



大治2年(1127)

○清光十八才。



大治3年(1128)《長坂町誌》

○清光は当時居住先の常陸国武田郷に於て嫡男光長と次男信義をもうける。



大治5年12月30日(1130)《長秋記》

○源義清の子清光、濫行を以て告発される。

○甲斐国市河庄に配流される。

○常陸国司、住人清光濫行の事などを申すなり。子細目録に見ゆ。《長秋記》

○義清は武田冠者を名乗る(常陸武田郷)

 

保延6年(1140)《『長坂町誌』》

○清光の子十三歳元服の儀式

○小倉太郎光長…逸見庄小倉八幡宮(この記事の出典は不明)

○武田太郎信義…武田庄武田八幡宮



◇源義清◇

久安1年7月23日(1145)《武田系図》

●義清死去。 



久安5年7月23日(1149)《大聖寺過去帳》

●義清死去。年七十。

○刑部三郎甲斐守。配流甲斐国市河荘。《武田系図》

○保安四年(1123)出家。



治承4年(1180)《平家物語》

○平家追討に決起する諸国源氏の甲斐武将。

○逸見冠者義清・その子太郎清光(既に死去)武田太郎信義・加賀美二郎遠光

加賀美小次郎長清・一条次郎忠頼・板垣三郎兼信・逸見兵衛有義・武田五郎信光

安田三郎義定

 

◇源清光◇



仁安3年7月8日(1168)《新編常陸国誌》

●清光没(年59)甲州卒。天永2年生。

○茨城県那珂郡武田郷に起こる。新羅三郎義光の三子義清、刑部三郎と称し、はじめ那珂

郡武田郷に居住し武田冠者と称し、(佐竹系図)義光の嗣たり。

○子清光大治五年罪あり、その父子を甲斐に配し市川庄に置く。是にて子孫永く甲斐の人

たり。云々

●若神子の居館で死す。《『武川村誌』(?)資料無》



《筆註》この若神子の居館などについての史料は、神社仏閣の由緒以外に全く見えない。

「逸見」と称したことから、多くの歴史学者が、市川から逸見に移り、それから信義らが

武田(韮崎市)に移動して甲斐源氏の基礎を築いたとしているが、基本的な史料は『吾妻

鏡』に見える「逸見山」の一言だけで、逸見氏や武田一門の居館が山梨県の峡北地方にあ

ったとする説は、歴史学者の「創作歴史」である。多くの武将は石和や甲府中心に居て、

その知行地が逸見地方にもあったとする説も成り立つ当時の状況であり、一考を要する。



正治1年6月19日(1199)《甲斐名勝志(?)》

●清光没。



○武田郷の地名初見…和名抄

○『新編常陸国誌』

 東西は七町、南北十八、町余ありて、久保、猫山の二組、中、原の二坪を有す。即和名

抄、那珂郡武田の本郷にて、吉田社仁平元年(1151)文書に「吉田郡云々、武田荒野とある

もの是なり。中世大掾氏吉田の一族、此地に住して、武田氏となる。或いは云う、甲斐武

田氏も亦此村より出ツ、云々

●新羅三郎の墓所やその他は下記ホームページで確認してください。

<新羅三郎義光関連ホームページ>
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-tbtop&p=%bf%b7%cd%e5%bb%b0%cf%ba%b5%c1%b8%f7
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