山梨歴史・観光tokidoki通信

山梨の歴史観光の出来事を伝えます

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 NHK大河ドラマのおかげで、山本勘助の歴史が全国各地にいっぱい生まれた。
 
 ありがたいことだか、迷惑なことだか知らないが、官民一体となっての「間助狂騒曲」の大合唱も、ようやく終焉を迎えようとしている。

 行政の取り組みも異常で、何万人集客したなどの泡沫観光を嘯いている。財政逼迫の地方行政にとって、天下のNHKのテレビ放映は「金印観光歴史卵」であり、もろ手を挙げて率先垂範して、無条件降伏の様相を示した。

 さて今回は、今だから言及して尾かなければ、後世の山梨県の歴史に与える影響が大きいことから、あえて取り上げた。

 NHKテレビ放映とともに、多くの武田信玄や山本勘助の刊行物も店頭を賑わしたが、現在は私の愛する「ブックオフ」の店頭にも開かれていない著作物が目立ってきた。

 ある書など行政関係の施設でうずたかく「大安売り」をしている。

 山梨県や長野県を覆う「風林火山群旗」のおかげで、その作者井上靖の小説も復刻されている。と考えている山梨県人は少ない。

 山梨県は井上靖の生誕100年を記念して製作した「風林火山」の思いがけない展開に、地方行政とタイアップして、ある市に、まったく史実や信玄に関係ない「風林火山館」をNHKのテレビスタジオ用に提供、観光ツアーの客を集めている。

 こうしたことを個人の資金でする分にはかまわないが、税金をつかってとなると、考えされることである。山梨県には無駄で必要でない、施設や建物が満杯でも、今後も類した計画があると聞く。

 行政観光の視野の取り組みは、多くの民間施設や民間観光には、多大な悪影響を与えている。税金納入者にこそ、光と潤いを与える施策こそ、行政の心がけることである。

 NHKも突き放すことなく、「信玄や勘助」を永遠に放映してやってください。
 こうした行政の筆法に嫌気を示す視聴者は受信料の不払いにもつながる。

 さてこの山梨県大イベントの影で、粛々と「新たな歴史」が創作されている。

 さて本題。

 まったく史実のない山梨県の「勘助伝説」をこともあろうに、山梨県を代表する歴史家
により、創作され、それを行政も取り入れて、数年後には「山梨の歴史」となる可能性もあるので、(すでに一般にはそう信じらている)あえて苦言を呈したい。

 本来なら歴史家の中からも声があがりそうであるが、仲間意識が強いこの世界では、誰ももう言わない化石となっている。

 もしうっかり口を滑らすと、切捨て御免となり、その世界から消えていく運命にある。

 史実と資料を探求して止まないはずの歴史家が自らの手で、歴史創作に加担する行為は「私のいうことは間違いない」の驕りさえ感じられる。


 要点は、

1)山本勘助の管理運営していた土地(知行地)など山梨には無い。

2)県内の北杜市の某家にある「勘助屋敷墓」は個人伝承で史実とは無関係で、これこそ  歴史大家の思い上がった押し付け無理強い創作歴史。

3)その他の勘助歴史も、地域の創作民話・伝説から生まれたものである。


<掲載写真は、勘助屋敷墓のある、北杜市「高根町誌」の「山本勘助」関連の記事であり、これから展開する「勘助屋敷墓」には慎重な態度を保っていて、この見解が歴史家の当たり前の論である>


 <関連ホームページ>
 
 ◎http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-yjmsg&p=%b4%aa%bd%f5%b2%b0%c9%df%ca%e8


 ◎http://www.pairhat.jp/satoaruki/2006-7/kansuke1.htm

 ◎http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/hokuto_wdm/html/sight-sec/59690776730.html


 <こうして、約一年で、何の証拠もない「山本勘助屋敷墓」は歴史の一ページを飾ることになる。

 のか。

 イベント観光からは歴史は生まれない。歴史は史実の積み重ねであることを再確認したい。>

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 山梨県立博物館で、鳴り物入りで公開された「市川文書」。

 多くの本を読んでいるうちに「おや」と思う文書が見えた。

 本来の「市川文書」には多くの指紋が見える。

 まさか山本勘助の指紋か??。市川藤若のものか。

 それとも???

 ○○書に掲載された「市川文書」にはその指紋が見えない。

 これはどうしたことか。

 この上記2枚の写真は、著名な歴史家の本に掲載されていたものである。

 さてさて------------------。

  
 <「風林火山」について>

 ◎ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E6%9E%97%E7%81%AB%E5%B1%B1

  風林火山の陣旗の始祖は武田信玄ではない。実際は風林火山の旗印は信玄よりも200年早く、南北朝時代の若き公卿武将で鎮守府将軍であった北畠顕家が、京を制圧した足利尊氏を打倒するために陸奥多賀国府(現在の宮城県多賀城市)で兵を挙げた時から使用していた陣旗であった。

北畠顕家は平安時代後期から鎌倉時代後期まで活躍した村上源氏を始祖としており、学識も深く、孫子に深く傾倒していたと思われる。北畠顕家はこの風林火山の旗印を用いて、一度は足利尊氏をあわや自害のところまで追い込んだのである。

北畠顕家は南北朝を経て戦国期には、「太平記」や「梅松論」、父の北畠親房が記した「神皇正統記」などの書物によって名将として親しまれ、したがって信玄も北畠顕家の風林火山の陣旗を参考に陣旗を作ったと考えられるのである。

また、信玄は信仰する諏訪明神の加護を信じて「南無諏方南宮法性上下大明神(なむすわなんぐうほっしょうかみしもだいみょうじん)」を本陣旗としている。

この話は武田信玄の逸話として有名なものであり、そのためか風林火山を題材とした作品や、名前を引用したものが多く存在する。

 ◎ 以下の検索でも同様な記述があります。

 ○http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GFRC,GFRC:2007-16,GFRC:ja&q=%e9%a2%a8%e6%9e%97%e7%81%ab%e5%b1%b1%e3%80%80%e5%8c%97%e7%95%a0

http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/23651/%C2%B9%BB%D2_/detail.html?mode=3

 ○http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1110416301



 
 このような記載は山梨県にはないと思われます。山梨県の関係者の皆さんは記事をよく読んで、観光案内を訂正してください。

 もうその必要もないか?。

 風林火山。この言葉は信玄とともに歩み育ち、現在では市民権を得ている感がするが、よく調べてみると、それは間違いであることがわかる。

 「風林火山」の作者井上靖は、その日記書簡の中で「風林火山」や山本勘助について記している。

 <井上靖、日記書簡より抜粋>

 余りにも寂しい。現在NHKで放映されている「風林火山」の原作者は井上靖である。そして彼の生誕100年を記念して、採り上げたと聞き及んでいた。しかしその周辺は主人公の山本勘助や、大型観光の展開で明け暮れ、肝心の井上靖について触れたり、紹介しているものが少ない。

 井上文学を紐解いてみるのもいい機会だと思われるのに、残念でならない。勘助が一人歩きを始めた。何処へ行くのであろうか。井上文学と別れを告げて----。


 
----私の夢---

「 風林火山」は昭和二十八年から二十九年にかけて『小説新潮』に連載した小説です。第一回の原稿を渡した時、担当記者のM君が1風林火山」という題名に首をひねりました。

 いかなることを意味しているか、よく解らないので、小説の題名としては損ではないかということでした。そう言われると、作者の私も自信はありませんでした。

 しかし、他に適当な題も思いつかないままに二日ほど考えてみようということになりました。

 結局のところ、「風林火山」で押し切ることになりました。「風林火山」が新国劇によって最初に上演されたのは、昭和三十二年のことでした。それまで「風林火山」という題名は多少落ち着かない印象を人に与えていたのではないかと思いますが、これが舞台に取り上げられたことで、すっかり安定したものになり、堂々と世間に通るようになったかと思います。

 この最初の上演からいつか今日までに十七年の歳月が経過しています。作者の私も十七の年齢を加え、新国劇も亦、劇団として十七の年齢を加えたわけであります。その間に「風林火山」は何回か上演され、その度に、より完全なものとして好評を博する幸運に浴しています。

 「風林火山」が新国劇の名演(だ)しものの一つになったことは、原作者として何より嬉しいことであります。

 お陰で1風林火山」もすっかり有名になり、その題名に首をひねるような人はなくなってしまいました。こんど何回目かの上演を前にして、それこれ思い合せると、まことに感慨深いものがあります。

 「風林火山」の主人公は武田信玄の軍師山本勘助であります。

 山本勘助が史上実在の人物であったかどうかほ甚だ怪しいとされていますが、そうしたことは作者にとってはどうでもいいことであります。その存在に対してさえも甚だ韜晦的である一人の軍師に、私は自分の青春の夢を託しています。

 勘助は短躯で、指は欠け、眼はすがめで、頗る異相の人物であります。私はこうした山本勘助に生命をかけて高貴なものへ奉仕する精神を注入してみたかったのです。夢と言えば、信玄も作者の夢であり、由布姫も作者の夢であり、作中人物のすべてが作者の夢と言えましょう。それぞれに、まだ若かった私の夢がはいっています。

                   (昭和四十九年五月)

 
 ----「風林火山」について----

 私は昭和二十五年二月に「闘牛」という作品で芥川賞を受け、翌二十六年五月に、それまで勤めていた毎日新聞社を退き、以後小説家として立っております。芥川賞を受けた二十五年から二十八、九年までの四、五年が、私の生涯で一番たくさん仕事を発表した時期であります。

 私はその頃、いわゆる純文学作品なるものも、中間小説も、娯楽小説も、さして区別することなしに書いていました。娯楽雑誌には娯楽小説を、文学雑誌には文学作品をと、需めに応じて小説を書いていたようなところがあります。

 折角、芥川賞作家として出発したのだから、純文学一本にしぼって仕事をして行くべきだと言ってくれる人もありましたが、しかし、中間小説は中間小説として、読物は読物として書いていて面白く、純文学の仕事とはまた異った魅力がありました。そういう点、私
は余り窮屈には考えていませんでした。仕事への没入の仕方も同じであり、読物は読物で夢中になって取組んだものです・

 長篇時代小説だけ拾っても、この時期に「戦国無頼」、「風と薯と砦」、「戦国城砦群」、「風林火山」などを書いております。

 今考えてみると、さして無理をしないでも、次から次へと作品を生み出すことができた不思議な時期だというほかはありません。

 最近この時期の作品を読み返す機会を持ちましたが、面白いことには概して読物雑誌や中間雑誌に発表したものの方が生き生きとしていて、作品として纏まっているものが多く、肩を張って書いた文学雑誌掲載作晶の方に失敗作が多いようです。

 三十年ほど経ってみると、文学作品にも、読物にもさして区別は感じられません。慌しく締切に迫られて書いたものでも生命あるものは生きており、正面から取組んで推敲に推敲を加えたものでも、生命ないものは、正直なものでむざんな屍を曝して横たわっていると思いました。

 ただ現在の私は、読物の形で小説を善くより、読者へのサービスをぬきにした形で小説を書く方に気持が向かっています。これは言うまでもなく年齢のためであって、私が老いたということでありましょうか。そういう意味では「戦国無頼」や「風林火山」などは、私の若かった日の作品であり、もう再び書くことのない、あるいは書くことのできない作品と言えましょう。

  読み返してみると、そうした眩しさを感じます。

 「風林火山」は二十八年から二十九年にかけて「小説新潮」に発表した作品で、いま読み返してみると、読者を楽しませると言うより、書いている作者自身がまず楽しんでいる作品と言えるかと思います。歴史を舞台にして、登場人物たちを物語の中に投げ込んで、それぞれの人生行路を歩ませています。主人公山本勘助に関する伝承や記述(「武田三代記」)はありますが、果して山本勘助なる人物が実在したかどうかとなると、甚だ怪としなければなりません。おそらく山本勘助という名を持った人物は武田の家臣の中にあったかもしれませんが、その性格や特異な風貌は「武田三代記」の作者の創作ではないかと、
一般に見られています。

 私はその伝承の山本勘助を借りて、それを生きた歴史の中に投げ入れて、彼を自由に歩かせてみました。すると、彼をめぐって、到るところで歴史はざわざわと波立って来ました。その波立ちを一つ一つ拾って書いたのが、「風林火山」ということになろうかと思います。

  昭和六十一年七月三日

                    (昭和六十一年九月)


----「風林火山」の劇化----

 こんど私の小説「風林火山」が新国劇で劇化されることになった。小説「風林火山」は一種の騎士道物語であり、戦国女性の持つ運命の哀歓を主題にしたものである。しかし、これをいろいろの約束を持つ芝居の形にうつすことは、正直に言って、まず望めないのではないかと思っている。私は平生、小説は小説、映画は映画、演劇は演劇と考えている。殊に小説と演劇との関係は複雑である。こんどの新国劇の「風林火山」も恐らく私の小説とはかなり昇ったものになるであろうし、またなって当然である。

 原作者として、私は私の作品をどのようにでも料理して下さいと脚色者池波正太郎氏にお任せした。私は、小説「風林火山」がいかに新国劇調ゆたかな名演し物として、あざやかに変貌するかに寧ろ期待している。

                   (昭和三十二年十月)


----「風林火山」原作者として

 「風林火山」は書いていて楽しかった。作家にとって、小説を書くことは、大抵苦しい作業であり、私も亦、自作のどれを取り上げても、それを書いている時の苦しさだけが思い出されて来るが、「風林火山」の場合は少し違っている。楽しい思い出だけが蘇って来る。

 勘助、由布姫が自分から勝手に動いてくれて、うっかりすると筆が走り過ぎ、書き過ぎた箇処をあとから削るようなことが多かった。そのくらいだから、私自身、勘助も由布姫も信玄も好きである。

 取材のために何回か甲斐から信州へ旅行をした。勘助が馬を駈けさせたところは、どこへでも行った。自動車をとばしたり、自分の足で歩いたりした。

 このように、作者の私にとってこの作品が楽しかったのは、山本勘助が実在の人物ではなかったためであろうと思う。と言って、全く架空な人物かと言うと、そうとも言えない。たれでも山本勘助という名を知っているように伝承の中に生きていた人物である。実在の人物ではないが、人々の心の中に生きている人物である。

 「風林火山」は前に新国劇で上演されているので、舞台にのるのは今度で二度目である。その意味では幸運な作品である。新派の方達の演ずる「風林火山」がどのようなものになるか、それを見るのが楽しみである。

                  (昭和三十八年九月)



----「風林火山」の映画化----

 私の作品の中で1風林火山」ほど映画化の申込みを受けたものはない。併し、何回映画化の話はあっても、そのいずれもが何となく立ち消えになる運命を持った。

 それがこんど稲垣さんと三船さんの手で、本当に映画化されるという幸運に見舞われた。しかも堂々と正面から組んだ本格的な映画化である・1風林火山」は今日まで待った甲斐があって、漸くにしてゆたかな大きな春に廻り会えたのである。

 稲垣さんと三船さんには以前1戦国無頼」を映画にして戴いたことがある。私の作品の最初の映画化であった。それから十何年経っている・最近稲垣さんと三船さんにお目にかかって感慨深いものがあった。1風林火山」は長い間稲垣さんと三船さんが手を差し出してくるのを待っていたのだと思った。それに違いないのである。

                   (昭和四十四年二月)


----「風林火山」と新国劇----

「風林火山」は昭和二十八年から二十九年にかけて『小説新潮』に連載した小説です。発表当時、多少の反響はありましたが、

 現在のように、”風林火山”という四字は一般的なものではぁりませんでした。

 時代というものは面白いもので、いかなる風の吹き回しか一昨年あたりから、「風林火山」という作品が再び多勢の人に読まれ始め、テレビに劇化されたり、映画化されたりする機運にめぐりあいました。

 作者の私も驚いていますが、一番驚いたのは主人公山本勘助であろうと思います。彼の
作戦家としての慧眼を以てしても・自分がいまになって脚光を浴びようと予想はできなかったことであろうと思います。

 次に驚いたのは劇団「新国劇」の首脳部の方々ではなかろうかと思います。新国劇によって「風林火山」が最初に拾い上げられたのは昭和三十二年のことですから、十二年ほど前のことです。脚色、演出の池波正太郎氏も、島田、辰巳両氏も、「風林火山」の名が今日一般化したことで、すっかり驚いておられるのではないかと思います。

 併し、作者の私は多少異った考え方を持っています。「風林火山」の名が多勢の人に知られるようになったそもそものきっせて下さったためであります。十二年前上演していただいたお蔭で、「風林火山」は今日のように有名になることができたとお礼を申し上げたい気特です。

 こんどその新国劇の「風林火山」が再び舞台にのることになりました。作者としては懐かしさでいっぱいです。

                   (昭和四十四年九月)

縁故節とじゃが芋

 もう一つ、縁故節に欠く事の出来ない深い関係にあるのは、ジャガタラ芋である。ジャガタラ芋はオランダから日本に輸入されたものであるが、甲州は日本の中でも、この芋を栽培したのは早い方だといわれている。それは、明和年間に中井清太夫という人が栽培法を教えたからだという。それで甲州では此芋のことを「清太夫芋」と名付けたが、段々なまって「せいだいもん」と呼ぶようになった。今でも老人の中には、こんなふうにいう人かいる。
 ジャガイモは日光にあてると、皮の部分が青くなり何ともいえない不味さである。その不味のことを土地言葉で「えぐい」とか「えごい」と云う。その「
えぐい、えぐい」から「ジャガタラ芋はえぐいね」という唄が生まれたではないかいわばジャガタ芋は「えぐえぐ節」の生みの母であるかもしれない。

 富岡敬明とジャガタラ芋
 
このジャガタラ芋を、明治の初めに、現在の中央線日の春駅附近の富岡地方に、麥や、桑と一緒に栽培させたのが富岡敬明という人である。この人は明治初年、藤村紫郎が県令として、山梨県に赴任して来た時、参事として同時頃着任した人である。
当時は明治維新で、徳川幕府の禄を喰んだ武士達は、職を追われ、生活の道を断たれて、大恐慌の時代で、その救護対策として全国各地に入植させて、生活の安定を計った。
 本県でも、日野春駅附近の原野十五六町歩を入植地と決めて士族の移民を受け入れた」。これを担当したのか富岡参事であった。この入植は富岡参事の努力で成功して、国営の農事試験場まで出来あがった程である。それで開拓民たらが感謝の気持から、参事の名を取って村名を富岡かと名付けたという。
 現在、日野春駅の西方三00メートル位の処に、富岡開拓神社がある。そこには富岡参事の功績を讃えた、高さ二メートルばかりの日埜原碑というのか建っている。其后富岡参事は、九州熊本の県命となり、明治十年西南の役には、谷干城と一緒に熊本城に籠城して、陸軍を撃破する端緒を開いたということで男爵の位を賜り、甲府市の善光寺裏の里垣に余生をおくられた。
 富岡参事は、九川島原の高岡城廿四代の城主であったとう関係から、或る人の説では、九州の浪人を日野春に入植させて刀を鍬に持ちかえて、麥、桑、ジャガヤを作らせながら、島原の子守唄をうたわせ、蹄らせたのが、えぐえぐ節のはじまりであるといっているが、日野春えの入植は、維新政府が江戸の旗本の二男坊対策として行ったもので、此の命令を受けて本県で担当したのが富岡参事てある。従って日野春の入植者は江戸浪人であって、九川の浪人でばなかったことになる。
民謡の多くはその土地での労作と共に、土の中から作物と一緒に生れる場合が多くえぐえぐ節もジャガタラ芋と一緒に生れ仁のではないかと推察されてよいと思う。
扨、えぐえぐ節の発生は何時頃であろうかということか問題になるが、縁故節創始者の一人である平賀文男氏は、武田信玄公時代からで、四百年も前からだというか、えぐえぐ節の「語呂」ば古い昔からある。甲州民謡の語呂とは違うので、それは間違いであると思う。

 
古い甲州民謡

 古い甲州民謡では、田方で唄はれている「田の草節」も、原方で唄はれている「締打唄」身延山の碑詠歌が変化したものと思はれる「甲州盆唄」も、みんな甲州独特の語呂で
「七五五七四」
の二十八文字てある。田の草節に例を取れば、
   田の草取りに 七 
   まねかれて 五
   いくもいや 五
   行かぬも義理の 七
   悪さよ 四
 というようである。
 もっと、古い唄と田思われるのに
   敵か通る横山、
   風も立て
   嵐も吹けよ横山」
 というのがある。武田信玄公が川中島合戦の折、敵将上杉謙信が陣取った横山のことを云ったのではなかろうかと思う。横山というのは、長野の善光寺裏の城山のことで、、当時は横山といったそうである。
 信玄公は戸隠の方迄進攻しているので、此の地方の俚謡にも二十八文字のものがあるそうである。
 
埼玉県地方の民謡「麦打唄」も
   岩殿山でなく烏は
   声もよし
   音もよし岩の響きで
   ホイ ホイ
 
 矢張り二十八文字の甲州の影響をうけ民謡で、これも古いものであると思はれる。
 これに引きかえ、えぐんぐ節は、粘土節と同じく「七七七五」の二十六文字で、甚句式のものであるから、おそらく徳川時代になっ元禄以降のものであると思はれる。 甚句というのは、元依年間に長崎の蛯屋甚九郎という人が、兵庫に入って伝えたという「甚九郎節」が各地に広がって「甚句」となり、処によっては土地の唄であるからといって「地ん句」とも云われ、鎮守の神様の前でうたうので「神ん句」と云ったったという。現在日本の民謡の大半は、此の影響をうけているという。この甚句が甲州にも入って来て、それからは「七七七五」の二十六文字の唄がうたわれるようになったではないかと思う。
したがって、えぐえぐ節は武田の昔からというではなく、元禄以降のものであるという結果になる。
 若し、柳沢吉保に対する反感から此の唄が生れたしとすると大体、元禄の頃からということになるが、これは少し考え過ぎで矢張りジャガタラ芋の伝わった明和から明治の初めころ、ジヤガタラ芋と共に生れたのでわないだろうかと推察される。
 えぐんぐ節は、発生してから北に上って諏訪地方にひろまり「柳沢節」と名をかえて広く深くうたわれてい仁ようである。これについて諏訪市角間新田出身の作家新田次郎氏は、この程発行された「甲斐武田の民謡」集の巻頭に縁故節についてこんな事を書かれている。
 「甲斐武田の民謡」の中にある縁故節は古くからある歌で甲斐から信濃にかけての農民の生活の苦しさを歌ったものである。私は甲府に近い信儂の諏訪に生れた。この歌は「柳沢節」として私の村にも古くから歌われていた。祖母が歌ったその哀調を帯びたメロデーは今でも忘れられない」とある。新田氏の祖母となると、明治以前の生れであろうと考えられる。新田氏の祖母は娘時代をすごされた明治のはじめ頃覚えられたに違いない。
こう考えると、えぐえぐ節の発生年代が大体わかるようで決定づける事は大変六ケ数いが、おそらく明和年間から明治の初年の間で、約百年前後でわあるまいかと出思う。

 島原の子守唄の作者 宮崎康平氏

 最後に、島原の子守唄について少し書いてみたいと思う。島原の子守唄の作者は有名な「幻の邪馬台国」の著者てある宮崎康平氏である。
 これは昭和四十六年六月十一二日平凡社発行「太陽」七号に、島原の子守唄の作者は宮崎康平氏であると明確に書いてある。宮崎氏は本年五十五才、「縁故節」は現在四十七、八年の歳月を経ている。宮崎氏が如何に英才であっても、十才未満で島原の子守唄は作れない。
 昨年十一月八口午前六時十分、NHK甲府放送局ラジオの第一放送で、N氏と「縁故節」について対談を放送したことがある。
 その時N氏が宮崎の放送局に島原の子守唄について間合せたところ、この唄は、二三の民謡を組合せて作ったものであるという返事があったそうである。
 島原の子守唄は、

おどみや島原の おどみや島原の ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら 色気ナシバよ ションカイナ
ハヨ寝るる泣かんでオロロンバイ 鬼の池に久助どんの
連れん米らるバイ

 というのである。先の本唄の郡分のメロデーは、縁故節とそっくりである。
 「ハヨ寝ろ……」からの後囃子的なものは、NHKの民謡を訪ねての時間に「五木の子守唄」の後頃として間いたことがある。
 結局、島原の子守唄は民謡組曲であったわけである。
 然し、九州という一大観光地をバックに、旅館や料亭の宴席を利用し、遊覧バスの中でガイドに唄はせての宣伝の為の演出は大したもので、大いに敬服に
値するものがある。
 翻って、甲州「縁故節」はというに発生当時、創始者の見せた意欲的行動は更になく、従らに島原の子守唄の独走にまかせて来たことを反省しなくてはならない。
最近「甲斐武田の民謡」集の中に、「縁故節」が多少リズム感覚をかえては収録され、踊りの振付も新しく改められ発売されたことは、「縁故節」の再出発を意味しているようで大変うれしく、この民謡集が県内のみならず全国に売れて、今後並々発展してゆく争を事を祈ってやまない。


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