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縁故節とじゃが芋
もう一つ、縁故節に欠く事の出来ない深い関係にあるのは、ジャガタラ芋である。ジャガタラ芋はオランダから日本に輸入されたものであるが、甲州は日本の中でも、この芋を栽培したのは早い方だといわれている。それは、明和年間に中井清太夫という人が栽培法を教えたからだという。それで甲州では此芋のことを「清太夫芋」と名付けたが、段々なまって「せいだいもん」と呼ぶようになった。今でも老人の中には、こんなふうにいう人かいる。
ジャガイモは日光にあてると、皮の部分が青くなり何ともいえない不味さである。その不味のことを土地言葉で「えぐい」とか「えごい」と云う。その「
えぐい、えぐい」から「ジャガタラ芋はえぐいね」という唄が生まれたではないかいわばジャガタ芋は「えぐえぐ節」の生みの母であるかもしれない。
富岡敬明とジャガタラ芋
このジャガタラ芋を、明治の初めに、現在の中央線日の春駅附近の富岡地方に、麥や、桑と一緒に栽培させたのが富岡敬明という人である。この人は明治初年、藤村紫郎が県令として、山梨県に赴任して来た時、参事として同時頃着任した人である。
当時は明治維新で、徳川幕府の禄を喰んだ武士達は、職を追われ、生活の道を断たれて、大恐慌の時代で、その救護対策として全国各地に入植させて、生活の安定を計った。
本県でも、日野春駅附近の原野十五六町歩を入植地と決めて士族の移民を受け入れた」。これを担当したのか富岡参事であった。この入植は富岡参事の努力で成功して、国営の農事試験場まで出来あがった程である。それで開拓民たらが感謝の気持から、参事の名を取って村名を富岡かと名付けたという。
現在、日野春駅の西方三00メートル位の処に、富岡開拓神社がある。そこには富岡参事の功績を讃えた、高さ二メートルばかりの日埜原碑というのか建っている。其后富岡参事は、九州熊本の県命となり、明治十年西南の役には、谷干城と一緒に熊本城に籠城して、陸軍を撃破する端緒を開いたということで男爵の位を賜り、甲府市の善光寺裏の里垣に余生をおくられた。
富岡参事は、九川島原の高岡城廿四代の城主であったとう関係から、或る人の説では、九州の浪人を日野春に入植させて刀を鍬に持ちかえて、麥、桑、ジャガヤを作らせながら、島原の子守唄をうたわせ、蹄らせたのが、えぐえぐ節のはじまりであるといっているが、日野春えの入植は、維新政府が江戸の旗本の二男坊対策として行ったもので、此の命令を受けて本県で担当したのが富岡参事てある。従って日野春の入植者は江戸浪人であって、九川の浪人でばなかったことになる。
民謡の多くはその土地での労作と共に、土の中から作物と一緒に生れる場合が多くえぐえぐ節もジャガタラ芋と一緒に生れ仁のではないかと推察されてよいと思う。
扨、えぐえぐ節の発生は何時頃であろうかということか問題になるが、縁故節創始者の一人である平賀文男氏は、武田信玄公時代からで、四百年も前からだというか、えぐえぐ節の「語呂」ば古い昔からある。甲州民謡の語呂とは違うので、それは間違いであると思う。
古い甲州民謡
古い甲州民謡では、田方で唄はれている「田の草節」も、原方で唄はれている「締打唄」身延山の碑詠歌が変化したものと思はれる「甲州盆唄」も、みんな甲州独特の語呂で
「七五五七四」
の二十八文字てある。田の草節に例を取れば、
田の草取りに 七
まねかれて 五
いくもいや 五
行かぬも義理の 七
悪さよ 四
というようである。
もっと、古い唄と田思われるのに
敵か通る横山、
風も立て
嵐も吹けよ横山」
というのがある。武田信玄公が川中島合戦の折、敵将上杉謙信が陣取った横山のことを云ったのではなかろうかと思う。横山というのは、長野の善光寺裏の城山のことで、、当時は横山といったそうである。
信玄公は戸隠の方迄進攻しているので、此の地方の俚謡にも二十八文字のものがあるそうである。
埼玉県地方の民謡「麦打唄」も
岩殿山でなく烏は
声もよし
音もよし岩の響きで
ホイ ホイ
矢張り二十八文字の甲州の影響をうけ民謡で、これも古いものであると思はれる。
これに引きかえ、えぐんぐ節は、粘土節と同じく「七七七五」の二十六文字で、甚句式のものであるから、おそらく徳川時代になっ元禄以降のものであると思はれる。 甚句というのは、元依年間に長崎の蛯屋甚九郎という人が、兵庫に入って伝えたという「甚九郎節」が各地に広がって「甚句」となり、処によっては土地の唄であるからといって「地ん句」とも云われ、鎮守の神様の前でうたうので「神ん句」と云ったったという。現在日本の民謡の大半は、此の影響をうけているという。この甚句が甲州にも入って来て、それからは「七七七五」の二十六文字の唄がうたわれるようになったではないかと思う。
したがって、えぐえぐ節は武田の昔からというではなく、元禄以降のものであるという結果になる。
若し、柳沢吉保に対する反感から此の唄が生れたしとすると大体、元禄の頃からということになるが、これは少し考え過ぎで矢張りジャガタラ芋の伝わった明和から明治の初めころ、ジヤガタラ芋と共に生れたのでわないだろうかと推察される。
えぐんぐ節は、発生してから北に上って諏訪地方にひろまり「柳沢節」と名をかえて広く深くうたわれてい仁ようである。これについて諏訪市角間新田出身の作家新田次郎氏は、この程発行された「甲斐武田の民謡」集の巻頭に縁故節についてこんな事を書かれている。
「甲斐武田の民謡」の中にある縁故節は古くからある歌で甲斐から信濃にかけての農民の生活の苦しさを歌ったものである。私は甲府に近い信儂の諏訪に生れた。この歌は「柳沢節」として私の村にも古くから歌われていた。祖母が歌ったその哀調を帯びたメロデーは今でも忘れられない」とある。新田氏の祖母となると、明治以前の生れであろうと考えられる。新田氏の祖母は娘時代をすごされた明治のはじめ頃覚えられたに違いない。
こう考えると、えぐえぐ節の発生年代が大体わかるようで決定づける事は大変六ケ数いが、おそらく明和年間から明治の初年の間で、約百年前後でわあるまいかと出思う。
島原の子守唄の作者 宮崎康平氏
最後に、島原の子守唄について少し書いてみたいと思う。島原の子守唄の作者は有名な「幻の邪馬台国」の著者てある宮崎康平氏である。
これは昭和四十六年六月十一二日平凡社発行「太陽」七号に、島原の子守唄の作者は宮崎康平氏であると明確に書いてある。宮崎氏は本年五十五才、「縁故節」は現在四十七、八年の歳月を経ている。宮崎氏が如何に英才であっても、十才未満で島原の子守唄は作れない。
昨年十一月八口午前六時十分、NHK甲府放送局ラジオの第一放送で、N氏と「縁故節」について対談を放送したことがある。
その時N氏が宮崎の放送局に島原の子守唄について間合せたところ、この唄は、二三の民謡を組合せて作ったものであるという返事があったそうである。
島原の子守唄は、
おどみや島原の おどみや島原の ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら 色気ナシバよ ションカイナ
ハヨ寝るる泣かんでオロロンバイ 鬼の池に久助どんの
連れん米らるバイ
というのである。先の本唄の郡分のメロデーは、縁故節とそっくりである。
「ハヨ寝ろ……」からの後囃子的なものは、NHKの民謡を訪ねての時間に「五木の子守唄」の後頃として間いたことがある。
結局、島原の子守唄は民謡組曲であったわけである。
然し、九州という一大観光地をバックに、旅館や料亭の宴席を利用し、遊覧バスの中でガイドに唄はせての宣伝の為の演出は大したもので、大いに敬服に
値するものがある。
翻って、甲州「縁故節」はというに発生当時、創始者の見せた意欲的行動は更になく、従らに島原の子守唄の独走にまかせて来たことを反省しなくてはならない。
最近「甲斐武田の民謡」集の中に、「縁故節」が多少リズム感覚をかえては収録され、踊りの振付も新しく改められ発売されたことは、「縁故節」の再出発を意味しているようで大変うれしく、この民謡集が県内のみならず全国に売れて、今後並々発展してゆく争を事を祈ってやまない。
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