山梨歴史・観光tokidoki通信

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 <山梨県における勘助の確実の史料は皆無である。創作歴史をのぞいては>

 歴史とは何?今回の大型ドラマやそれと帯同した大型観光。史実までも粉砕されてしまった。


 これについて上野先生はその著「甲陽軍艦に登場する謎の武将・勘助の真の姿とは?」に次のように記しておられる。
略) 昭和59年4月、ついに(私は)ついに山梨県に於いて、信玄時代に勘助が住んでいた屋敷跡と古墓・位牌らを発見したと記して、次のように続けおられる。北巨摩郡高根町蔵原の山本家屋敷の立地環境は、足軽大将に相応しいものであるし、場所は軍道棒道に直結して土塁があり、望楼のような土壇まであり、古墓の景観も400年以上の杉や鱗の古木に囲まれていて社叢のような雰囲気さえある。と、紹介されている。 
 勘助の屋敷でおおよそ信じられるのは、信玄の館があった現在の武田神社の、はるか西方に明確に書いてある地図の存在である。この地図は県内の歴史書や多くの著者がその著書に紹介しているくらい有名な地図である。しかしこの地図の屋敷について記載しているのは戦時中の軍人の書いた著書に見える位である。この甲府の勘助屋敷は確かなことは言えないが、本当の片隅で小川傍らに位置していて、とても信玄の軍師が住む所とは見えない。信玄館周辺には穴山氏や馬場美濃のなどの武将が囲んで住んでいて、勘助屋敷は良く探さないと判らないもので、ぜひ一見してもらいたい。

 北巨摩郡高根町倉原について、『山梨県の地名辞典』は先述のような記載は見えない。

 下記のような史料を上野先生やその意見を持ち上げrる諸先生は見ておられないか、見ていれば今回の「創作歴史」は生まれていない。


 『山梨県の地名辞典』
蔵原については、蔵原村、『武田日坏帳』によれば、弘治2年(1556)4月21日に「逸見倉原」の中村右近丞が、永禄7年(1564)3月21日に、逸見倉原中村右近丞内方が逆修供養している。
 『山梨県姓氏歴史人物大辞典』山本氏の項
 この辞典には山梨県内の歴史上の人物はおおよそ網羅している好著である。多少の誤植もあるようだが、資料としては「甲斐国志」より読み易いし、県民も一番読んでいると思われる。この辞典にも勘助や山本姓についての記述がある。
(略)また信玄の軍師と伝えられる山本勘助は、俗説では三河牛窪(牛久保)の出身で天文12年頃板垣信方の推挙により武田氏に仕え,足軽大将となって信玄の諸戦の軍議にあずかり、永禄4年の川中島の合戦で戦死したという。従来、勘助は「甲陽軍艦」により創出された人物といわれることが多かったが、近年発見された「市河家文書」で実在が確認されている。ただし、その活躍や役割については、「甲陽軍艦」による脚色が多いと思われる。

 この辞典には山梨県内の山本姓を参考に掲げてみる。(一部略)

山本土佐守  武田家臣 小人頭十人衆・横目付衆                
山本忠房                                      弥右衛門 土佐守の子 武田氏滅亡後徳川家に仕え、天正10年の徳川家印判状で現在の韮崎市などで42貫を与えられる。その他周辺地域も与えられ、後に八王子千人頭になった。   
山本忠吉   中房の子。父と同職。
                       
山本内蔵助  天正10年の「武川衆定置注文」に名が見える。
           
山本源三   天正起請文 近習衆
                        
山本主殿助  天正起請文 近習衆                        

山本孫右衛門 天正起請文 小人頭衆
                       
山本十左衛門 天正起請文 直参衆 徳川家印判状、下河原80貫。
        
山本大琳   甲陽軍艦  御伽衆 信玄の医師
                  

山本宗左栄門 小山田信茂あて所に名が見える。天正7年
              
山本帯刀成氏 徳川家康書状 小池筑前守
                     
山本和泉   巨摩郡蔵原村(高根町)江戸期の諏訪神社の神主。
          
山本敬之助  巨摩郡蔵原村(高根町)慶応4年の諏訪神社の神主。
         
山本修理   八代郡?(南巨摩郡)内船村(現南部町)八幡峰神社神主江戸期  

山本肥後   八代郡?(南巨摩郡)内船村(現南部町)八幡峰神社神主 慶応4年。                                  
山本     『一蓮寺過去帳』文明16年(1484)

              
山本江雲娘  『一蓮寺過去帳』 慶長10年(1605)
             
山本右近丞  『一蓮寺過去帳』 慶長15年(1610)江雲斎
          
山本三郎右内主『一蓮寺過去帳』 寛永4年(1627)
             
山本市右衛門 『一蓮寺過去帳』 寛永21年(1644)
             
山本閑斎   

『伊井家家士由緒書抄』伊井家家臣山本元叙の曽祖父、山本閑斎は山本勘助の末流で、武田氏滅亡後は医者として伊井家に仕えた。

山本久稔   

北巨摩郡熱見村(高根)蔵原。武田義光(新羅三郎義光)後胤山本七郎左衛門尉業氏を祖と伝え、業氏は三河牛久保の郷士で、甲斐に来て武田晴信に仕え、武道兼勤の祝となり、神官職を継いだという。 『峡中家歴鑑』慶応4年の書き上げに見える内船村(南巨郡)諏訪明神の神主の山本啓之助は、山本久稔のことで、明治七年解職になった時に、同村(高根村)に帰農して今の名に改めたという。
 また同書(『峡中家歴鑑』)を引いて、

山本土佐守 
 韮崎市の大草村上条東割山元伊之作家は、慶長年間同村に来て、大草村丸山(?)を拠点とした山本蔵之介に始まり、その子与三郎は帰農したという。なお同家は、三河牛久保の浪人で甲斐に来て晴信(武田信玄)に仕えた、山本土佐守を元祖と伝える。
 さらに『続峡中家歴鑑』載る           

山本又左衛門 
 北巨摩郡中田村中条上野(韮崎市)の山本又左衛門家は、三河中窪郷郷士山本又左衛門の子で、天文年間より武田家に仕え、永禄四年川中島の戦いで戦死した山本某を祖とし、その子帯刀は武田氏滅亡後同村にて帰農したという。

 さてここまで高根町蔵原の山本姓の『山梨県姓氏歴史人物大辞典』の内容とと・・先生が発表した「山本勘助屋敷の発見」の虚実を確認してみる。
山本閑斎、山本久稔、山本土佐守、山本又左衛門家の家系は、それぞれ山本勘助に関係するように記してあるが、こうした後代になって作られた、いわれは何所にでもあり、信じるに足りない内容であるが、再確認をしたい。    山本久稔   北巨摩郡熱見村(高根)蔵原。武田義光(新羅三郎義光)       後胤山本七郎左衛門尉業氏を祖と伝え、業氏は三河牛久保の郷士で、甲斐に来て武田晴信に仕え、武道兼勤の祝となり、神官職を継いだという。 『峡中家歴鑑』  

先述した上野先生はその著「甲陽軍艦に登場する謎の武将・勘助の真の姿とは?」に次のように記しておられる。

(略) 昭和59年4月、ついに(私は)ついに山梨県に於いて、信玄時代に勘助が住んでいた屋敷跡と古墓・位牌らを発見したと記して、次のように続けおられる。北巨摩郡高根町蔵原の山本家屋敷の立地環境は、足軽大将に相応しいものであるし、場所は軍道棒道に直結して土塁があり、望楼のような土壇まであり、古墓の景観も400年以上の杉や鱗の古木に囲まれていて社叢のような雰囲気さえある。この中の山本久稔家のことを・・先生は取り上げて、揺るぎ無い「史実」として雑誌に発表したことが明確にわかり、こうした事柄からして、高根町に勘助繋がる家系にある家があったとしても、それは史実に程遠い事で、山梨県の歴史界の大御所の語る内容ではない。もし事実とするなら、それを裏付ける資料が紹介されない限り・・先生の説は信じることはできない疑説のである。何故、この山本家がこの話を世に出さなかったのかについて・・先生は、ところが明治以来、田中説(勘助虚像説)があまりにも幅をきかせていた為に、学会の偉い先生が山本勘助は名もの無いものといっているからと、(中略)自らの卑下して、世に出すことを躊躇っていたのだという。

5、創られた箇所を持つ山本勘助                   

 勘助をはじめ、武田家特に信玄の活躍は生存中より、江戸時代になって大いに持て囃されてもので、それは「甲陽軍艦」をはじめ、数多くの『軍学書』や『兵法書』それに浮世絵にまで圧倒的な量で拡販していった。『武田二十四将』や『武田二十二勝』など現在も各地に残っている。この前も下呂温泉のある旅館で「武田24将図」があり、近所には江戸時代北海道の開発にその名が高い飛騨久兵衛の家系に繋がる家もあった。この話の裏には武田家と快川国師をはじめ多くの美濃名僧と関係が見えて、それが天正10年(1582)織田信長が甲斐恵林寺に於いて、快川国師以下の僧侶を焼き殺した事に深く関連していることも判ってきたのである。「ある人物を匿っていてそれを出さない」からではなく、「信玄・勝頼」と、ある面では情報と戦況を伝え、信玄ベッタリの、快川国師を信長は甲斐に攻め入る前から殺害する予定であったのであり、快川国師もそれを十分に承知して死んでいったのである。 このところの歴史紹介は、快川国師「心頭滅却すれば、火もまた涼し」の言葉で締めくくられて、その要因の追求は為されていない。信玄に時には作戦を提言していた快川国師に信長は、「怒り心頭」であったのである。 

山本勘助!!現れる

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<山梨県は一年中「勘助協奏曲」が吹き荒れた>

 静かに見ていた、みずがき山の勘助は、その姿を岩盤にくっきりと現しました。みずがきはもうすぐ冬、静かに世情を見下ろす勘助岩像は何を考えているのであろうか。

<勘助協奏曲>の顛末
(史実を確認する)

 これまでの勘助疑惑は、江戸時代の風流大名松浦鎮信が著した『武功雑記』に起因していると思われ先の田中義成氏の明治24年に『甲陽軍艦考』に、「信じがたい歴史人物とその足跡」としたため、異論を挟む余地も無いままにその後の歴史家もこの説を後生大事に各書に引用紹介していたものである。戦後の歴史界の重鎮である奥野高広先生も、自信を持って山本勘助は伝説上の人物で、信玄の軍師なのではないと明言されていた。またこうした伝説の勘助の記載を大幅に取り入れている『甲陽軍艦』も偽書に等しい価値の薄い書物とされていた。

『武功雑記』肥前平戸城主、松浦鎮信、記(1549〜1614)

 三河牛久保に牧野殿という三千石ほど武将があり、その家来に山本勘介という高慢の武芸者があった。ある時、上泉伊勢という旅の武芸者と牧野殿の前で仕合をしたが、勘介は上泉の弟子に負けてしまった。そこで主家におれなくなり、甲州に行った。その頃、甲州では、他国者の来るのを喜び、ことに三河者を歓迎した。勘介は山縣昌景に召抱えられた。しかし甲州で勘助を知っている者はいなかった。川中島合戦の時、山県が勘介を斥候に出したが、帰って来て山縣に報告しているようすを信玄が見て、「あれは何者だ」と尋ねた。「あれは山本勘介といって三河の者です。口おもな者というので、山県が扶持しております」と申し上げた。勘介の子、関山派の僧で、少々学問のある者が、信玄のことなど覚書した反故を取り集め、わが親の勘介のことを飾り立てて書いたのである。これを高坂弾正の作と偽って甲陽軍艦と名付けた。と書かれている。疑うわけではないが、この松浦鎮信の記事も、すべて虚実とはいえない。基にするものが存在したのである。ここに記載のある『甲陽軍艦』は江戸時代最も読まれ参考にされた本であり、その作者さえも諸説があって、未だに議論されているところである。『甲陽軍艦』については後に詳しく触れる。


 

著名な先生の書かれた雑誌発表の疑説に迫る。

 <山梨県の歴史や民族などなど、多くの功績を残された上野先生。私も多くの著書保存しているが、この『山本勘助』や武田神社刊行物に記された、諸事項はとても歴史とは認識できないもので、こうしたことが歴史として認められるなら、何でもあり、である。>

「勘助屋敷の発見と屋敷墓の発見」の一文


 もう一つの勘助実在説は、山梨県の歴史民族学界では、その洞察力の深さと文筆の巧みなことから多くの信奉者(私もその一人であるが)を持つ上野先生の「勘助屋敷の発見と屋敷墓の発見」がある。先生は甲斐の歴史に詳しく、著書も多く、山梨の歴史、民族それに武田信玄・勝頼関係のほかに、「山本勘助」の著述や刊行された本もある。先生は実地調査・聞き込み調査・聞き取り調査を繰り返す中で、遂に山梨県北巨摩郡高根町(現北守市高根町)中蔵原で先の発見をされ「勘助がこの地方を代表する足軽大将で、この方面の警護にあたっていたのではないか」と記している。私はこの話を聞いた時に唖然とした。それは私たちの地域や県内にはそのような事を窺わせる記述や伝承も無く、その信実性も定かではなく、私も聞いたことも無いのである。如何に先生の談でも、地域が全く知らないのに、その家が公開を嫌って知られたくなく秘めていたとしても。県内のこんな話は捨てるほどある。馬場美濃守信房公の末裔と信じて疑わない人も県内には多く、同じ高根町にはその末裔が墓を守っている事実もある。この「勘助屋敷」については、山梨県でも知る人は少なく報じられた事もないと記憶している。

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3、勘助の実在を証明した『市河文書』について

 さてこの勘助の実在を示す『市河文書』(重文指定)とは、昭和44年に北海道釧路市松浦町の市河良一氏は、信玄時代に活躍した北信濃豪族の豪族市河若の末裔で、明治になった頃北海道の開拓に渡った家柄である。この藤若については、後の信玄北信濃侵攻の際に触れたいと思っているが、ここではこの文書の持つ意味について、少し話して見たいと思う。
『市河文書』
注進状披見。
影虎至爾野沢之湯進陣其地へ可取懸模様、又雖入武略候、無同意、剰、備堅固故、長尾景虎無功爾飯山へ引退候哉、誠心地能候。
何ニ今度其方擬頼母敷迄候。越中、野沢在陣之砌、中野筋後詰之義、預飛脚候き、
則倉賀野へ越、上原三与左衛門尉、又当手之事も、塩田在城之足軽為始、原与左衛門尉五百余人、真田に指遣候処、既退散之上、不及是非候。全不可有無首尾候。向後、兼存其旨、塩田在城衆ニ申付候間、従湯本注進次第ニ、当地へ不及申届、可出陣之趣、
今日飯富兵部少輔へ成下知候条、可有御心易候。
猶可有山本管助口上候。                   恐々謹言
     六月廿三日 晴信(花押)             市河藤若殿
《読み下し》
 『市河文書』(山本勘助実像 別冊『歴史読本』1987年判)甲陽軍艦』に登場する謎の武将・勘助の真の姿とは 上野晴朗氏著

 注進の状披見す。よって影虎野沢の湯に至り陣を進め、その地へ取り   かかるべき模様、また武略に入り候と雖も、同意なく、剰、備え堅固ゆえ長尾効なくして飯山へ引き候よし、誠に心地よく候。いずれも今度のその方のはかり頼母敷くまでに候。なかんづく野沢布陣の砌り、中野筋の後詰の儀、飛脚に預り候き。品即ち倉賀野へ越し、上原与三佐衛門尉、又当千の事の塩田在状の足軽を始めとして、原与左衛門尉五百余人、真田へ差し遣し候処、すでに退散の上是非に及ばず候。まったく無守備に有るべからず候。向後は兼てその旨を存じ、塩田の在城衆へ申しつけ候間、湯本より注進次第当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔の所へ下知をなし候條、御心易く有べく候。{筆註―剰(あまつさえ)}

なお山本管助口上有るべく候。恐々謹言。
 六月二十三日    晴信 花押

《訳》  
 注進状を読んだ。景虎が野沢の湯に陣を進め、その方の地へ責めかかる様子を見せ、また、先遣隊などが攻撃をしかけたが、とりあわず、防備を堅固にしたので、長尾景虎は功なくして飯山へ退いたそうだが、誠に心地よいことである。景虎が野沢に布陣中、中野筋へ後詰めするように飛脚をもらった。そこで倉賀野にいる上原与左衛門尉に応援を命じ、塩田在城の足軽をはじめ、原与左衛門尉ら五百余人を真田幸隆の指揮下に入れ、後詰めに差し遣わそうとしたが、すでに景虎が退散したので、間にあわなかった。決して処置を怠ったわけではない。今後は塩田在城衆に申し付けておくから、湯本から注進があり次第、私にことわらずに出陣せよと、今日、飯富兵部少輔に命じておいたからご安心願いたい。 なお、山本管助が口上で申し上げる。   
 
この『市河文書』は信玄の花押(かおう)もあり、調査に関わった長野県信濃史料編纂室の人々から真筆であると確認されたもので、それまでは「勘助実在疑惑」説が歴史界を覆っていたが、この文書の出現により、それまでの勘助に対する認識が改まる結果となり、それまで定説となっていた田中義成氏の「勘助は単なる武田家の一兵卒にすぎず、山縣三郎兵衛に所属していた」といった内容が定説となっていた。この文書で大切なのは、文面の内容が当時の弘治3年(1557)の戦況と一致しているかどうかである。これについては多くの先生方が合致していると言われている。ここで私が問題提起したいのは、この書状を勘助が持参しているということと、それ以前に市河藤若から信玄に注進状が届いていることである。
「山本管助が口上で申し上げる」の内容は伝わらないが、勘助はこの年、64歳であり、事実であれば、それは驚異的なことである。 勘助は眼も手足も不具合であったいう。激しい戦況下で活動するには大変な事であり、こうした注進を伝える使者であったことなど信じられない。勘助は動かず軍師としての活躍のほうが似合っている。定説というものは「事実であるかどうか」より「誰が言ったかが」大切にされて、しかも歴史学界や考古学界の重鎮の言が効力ある。それが決定的に間違っているにも拘わらず、こうし類は多く伝わっている。その他にも「洗脳(せんのう)創作(そうさく)歴史(れきし)」と言うものが多く、これの方が一般的には多いと思われる。これは創作歴史を繰り返し報道やテレビドラマで取り上げ、さらにこうした著作物から引用して歴史紹介を案内書で記述・記載することが繰り返される。年月が経るとその「創作歴史」が史実とはかけ離れて一本立ちして真実のように人々の認識に深く侵入して行くことを言うのである。

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