|
最近の林野の荒廃は凄まじい勢いで増加している。ところが管轄の林野庁などは、宇宙船の彼方の施策を繰り返している。この惨状にも目を覆いたくなる。
自らを守るために、多くの天然林を皆伐採して、先見性のない林政が繰り返してきた唐松。杉・桧植林。育てないで植え続ける神経は正常ではない。
杉を植え花粉症が叫ばれれば、邪魔者のように切り捨てる。唐松の大量植林はそうか、山梨県では使われずに倒壊していく唐松が急増、
もっとも深刻なのは、谷や小河川に倒れこんでいる樹木の多さであり、その殆どが放置されている。
最近の新聞記事で気になるには、昔のように、自ら調査して書くという臨場感に欠けているような気がしてならない。また官庁ご用達の広報窓口ような記事も目立ってきている。(この記事のことではない)
●参考資料山梨日日新聞 H2007・9・1 記事
<写真 山梨県 明治40年の大水害>
県内に深い傷跡。 山林荒廃、被害を拡大
近代史家の有泉貞夫さん(市川三郷)は明治四十年水害について、
「たしかに自然災害だが、明治維新から近代化に蓬進(まいしん)した山梨県の歩みがもたらした人災でもあった」と指摘する。
明治以降、殖産興業を推し進めた県政下で、道路や鉄道などの土木工事、建築事業が相次いだ。蚕糸業の発展で燃料となる薪(まき)の需要も墳え、山林資源の利用は急激に伸びた。
その結果起きた乱伐や開墾による山林破壊、特に山崩れ被書が大きかった峡東地域では、鉄道の路盤に使う石材を大量に切り出していた。
さらに、「御料林間題」.という山梨独自の事情もあった。
有泉さんによると当時、県内の約三分の二が御料林。入会権はあるものの、打ち切りの不安や、手続きの煩雑さから、ひそかに伐採を重ねる盗伐と無届の開墾が続いた。
「山の慣行や秩序が守られず、乱盗伐に歯止めが利かなくなった」
明治前期から水害が相次いでいた山梨では、早くから山林の荒廃が指摘されていた。明治三十年ころには御料林の払い下げを求める運動が起き、交渉が進んでいたが、折り合いがつかない中で起きた明治四十年水害。御料林払い下げが具体化したのは、三年後に再び大水害が起きてからだった
。
有泉さんはこれらの水害を
「その後の山梨を決めた分岐点」と見ている。
相次ぐ水害による損失額・復旧費は膨大で、自治体としての存続も危ぷまれるほどだった。
「災害前に全国上位を誇った県民所得で築いた富も流れ、大正・昭和前期には税負担が増える一方で教育・文化への投資は少ないで貧乏県に転落した」
ことし七十五歳の有泉さんには水害の記憶はない。しかし、小学生のころ、御料林が下賜された記念日に謝恩の歌を歌ったことを覚えている。甲府城跡に建つ謝恩碑は、
「山梨にとって、いかに山と水が大切な問題か警告を与えるシンボルだ」とも話す。
「治山治水対策に手を抜けば水害は百年前の話ではない」(有泉さん)云々
<ここからが私の記事>
私は現在、自分で言うのも気が引けるが、ほとんど連日、山梨県内の里山森林を調査している。
この百年前より、さらに深刻な山装を示しているのが、現在の山梨県の山地である。
そしてもっとも深刻な問題は三つあって
1)切捨て間伐の放置
2)大型機械で蹂躙される山地
3)放置林
があげられる。
道路開発、林道開設、乱伐 、狭義な林政展開
どれを見てもお先真っ暗である。
それぞれについては別記する。
|