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 風林火山。この言葉は信玄とともに歩み育ち、現在では市民権を得ている感がするが、よく調べてみると、それは間違いであることがわかる。

 「風林火山」の作者井上靖は、その日記書簡の中で「風林火山」や山本勘助について記している。

 <井上靖、日記書簡より抜粋>

 余りにも寂しい。現在NHKで放映されている「風林火山」の原作者は井上靖である。そして彼の生誕100年を記念して、採り上げたと聞き及んでいた。しかしその周辺は主人公の山本勘助や、大型観光の展開で明け暮れ、肝心の井上靖について触れたり、紹介しているものが少ない。

 井上文学を紐解いてみるのもいい機会だと思われるのに、残念でならない。勘助が一人歩きを始めた。何処へ行くのであろうか。井上文学と別れを告げて----。


 
----私の夢---

「 風林火山」は昭和二十八年から二十九年にかけて『小説新潮』に連載した小説です。第一回の原稿を渡した時、担当記者のM君が1風林火山」という題名に首をひねりました。

 いかなることを意味しているか、よく解らないので、小説の題名としては損ではないかということでした。そう言われると、作者の私も自信はありませんでした。

 しかし、他に適当な題も思いつかないままに二日ほど考えてみようということになりました。

 結局のところ、「風林火山」で押し切ることになりました。「風林火山」が新国劇によって最初に上演されたのは、昭和三十二年のことでした。それまで「風林火山」という題名は多少落ち着かない印象を人に与えていたのではないかと思いますが、これが舞台に取り上げられたことで、すっかり安定したものになり、堂々と世間に通るようになったかと思います。

 この最初の上演からいつか今日までに十七年の歳月が経過しています。作者の私も十七の年齢を加え、新国劇も亦、劇団として十七の年齢を加えたわけであります。その間に「風林火山」は何回か上演され、その度に、より完全なものとして好評を博する幸運に浴しています。

 「風林火山」が新国劇の名演(だ)しものの一つになったことは、原作者として何より嬉しいことであります。

 お陰で1風林火山」もすっかり有名になり、その題名に首をひねるような人はなくなってしまいました。こんど何回目かの上演を前にして、それこれ思い合せると、まことに感慨深いものがあります。

 「風林火山」の主人公は武田信玄の軍師山本勘助であります。

 山本勘助が史上実在の人物であったかどうかほ甚だ怪しいとされていますが、そうしたことは作者にとってはどうでもいいことであります。その存在に対してさえも甚だ韜晦的である一人の軍師に、私は自分の青春の夢を託しています。

 勘助は短躯で、指は欠け、眼はすがめで、頗る異相の人物であります。私はこうした山本勘助に生命をかけて高貴なものへ奉仕する精神を注入してみたかったのです。夢と言えば、信玄も作者の夢であり、由布姫も作者の夢であり、作中人物のすべてが作者の夢と言えましょう。それぞれに、まだ若かった私の夢がはいっています。

                   (昭和四十九年五月)

 
 ----「風林火山」について----

 私は昭和二十五年二月に「闘牛」という作品で芥川賞を受け、翌二十六年五月に、それまで勤めていた毎日新聞社を退き、以後小説家として立っております。芥川賞を受けた二十五年から二十八、九年までの四、五年が、私の生涯で一番たくさん仕事を発表した時期であります。

 私はその頃、いわゆる純文学作品なるものも、中間小説も、娯楽小説も、さして区別することなしに書いていました。娯楽雑誌には娯楽小説を、文学雑誌には文学作品をと、需めに応じて小説を書いていたようなところがあります。

 折角、芥川賞作家として出発したのだから、純文学一本にしぼって仕事をして行くべきだと言ってくれる人もありましたが、しかし、中間小説は中間小説として、読物は読物として書いていて面白く、純文学の仕事とはまた異った魅力がありました。そういう点、私
は余り窮屈には考えていませんでした。仕事への没入の仕方も同じであり、読物は読物で夢中になって取組んだものです・

 長篇時代小説だけ拾っても、この時期に「戦国無頼」、「風と薯と砦」、「戦国城砦群」、「風林火山」などを書いております。

 今考えてみると、さして無理をしないでも、次から次へと作品を生み出すことができた不思議な時期だというほかはありません。

 最近この時期の作品を読み返す機会を持ちましたが、面白いことには概して読物雑誌や中間雑誌に発表したものの方が生き生きとしていて、作品として纏まっているものが多く、肩を張って書いた文学雑誌掲載作晶の方に失敗作が多いようです。

 三十年ほど経ってみると、文学作品にも、読物にもさして区別は感じられません。慌しく締切に迫られて書いたものでも生命あるものは生きており、正面から取組んで推敲に推敲を加えたものでも、生命ないものは、正直なものでむざんな屍を曝して横たわっていると思いました。

 ただ現在の私は、読物の形で小説を善くより、読者へのサービスをぬきにした形で小説を書く方に気持が向かっています。これは言うまでもなく年齢のためであって、私が老いたということでありましょうか。そういう意味では「戦国無頼」や「風林火山」などは、私の若かった日の作品であり、もう再び書くことのない、あるいは書くことのできない作品と言えましょう。

  読み返してみると、そうした眩しさを感じます。

 「風林火山」は二十八年から二十九年にかけて「小説新潮」に発表した作品で、いま読み返してみると、読者を楽しませると言うより、書いている作者自身がまず楽しんでいる作品と言えるかと思います。歴史を舞台にして、登場人物たちを物語の中に投げ込んで、それぞれの人生行路を歩ませています。主人公山本勘助に関する伝承や記述(「武田三代記」)はありますが、果して山本勘助なる人物が実在したかどうかとなると、甚だ怪としなければなりません。おそらく山本勘助という名を持った人物は武田の家臣の中にあったかもしれませんが、その性格や特異な風貌は「武田三代記」の作者の創作ではないかと、
一般に見られています。

 私はその伝承の山本勘助を借りて、それを生きた歴史の中に投げ入れて、彼を自由に歩かせてみました。すると、彼をめぐって、到るところで歴史はざわざわと波立って来ました。その波立ちを一つ一つ拾って書いたのが、「風林火山」ということになろうかと思います。

  昭和六十一年七月三日

                    (昭和六十一年九月)


----「風林火山」の劇化----

 こんど私の小説「風林火山」が新国劇で劇化されることになった。小説「風林火山」は一種の騎士道物語であり、戦国女性の持つ運命の哀歓を主題にしたものである。しかし、これをいろいろの約束を持つ芝居の形にうつすことは、正直に言って、まず望めないのではないかと思っている。私は平生、小説は小説、映画は映画、演劇は演劇と考えている。殊に小説と演劇との関係は複雑である。こんどの新国劇の「風林火山」も恐らく私の小説とはかなり昇ったものになるであろうし、またなって当然である。

 原作者として、私は私の作品をどのようにでも料理して下さいと脚色者池波正太郎氏にお任せした。私は、小説「風林火山」がいかに新国劇調ゆたかな名演し物として、あざやかに変貌するかに寧ろ期待している。

                   (昭和三十二年十月)


----「風林火山」原作者として

 「風林火山」は書いていて楽しかった。作家にとって、小説を書くことは、大抵苦しい作業であり、私も亦、自作のどれを取り上げても、それを書いている時の苦しさだけが思い出されて来るが、「風林火山」の場合は少し違っている。楽しい思い出だけが蘇って来る。

 勘助、由布姫が自分から勝手に動いてくれて、うっかりすると筆が走り過ぎ、書き過ぎた箇処をあとから削るようなことが多かった。そのくらいだから、私自身、勘助も由布姫も信玄も好きである。

 取材のために何回か甲斐から信州へ旅行をした。勘助が馬を駈けさせたところは、どこへでも行った。自動車をとばしたり、自分の足で歩いたりした。

 このように、作者の私にとってこの作品が楽しかったのは、山本勘助が実在の人物ではなかったためであろうと思う。と言って、全く架空な人物かと言うと、そうとも言えない。たれでも山本勘助という名を知っているように伝承の中に生きていた人物である。実在の人物ではないが、人々の心の中に生きている人物である。

 「風林火山」は前に新国劇で上演されているので、舞台にのるのは今度で二度目である。その意味では幸運な作品である。新派の方達の演ずる「風林火山」がどのようなものになるか、それを見るのが楽しみである。

                  (昭和三十八年九月)



----「風林火山」の映画化----

 私の作品の中で1風林火山」ほど映画化の申込みを受けたものはない。併し、何回映画化の話はあっても、そのいずれもが何となく立ち消えになる運命を持った。

 それがこんど稲垣さんと三船さんの手で、本当に映画化されるという幸運に見舞われた。しかも堂々と正面から組んだ本格的な映画化である・1風林火山」は今日まで待った甲斐があって、漸くにしてゆたかな大きな春に廻り会えたのである。

 稲垣さんと三船さんには以前1戦国無頼」を映画にして戴いたことがある。私の作品の最初の映画化であった。それから十何年経っている・最近稲垣さんと三船さんにお目にかかって感慨深いものがあった。1風林火山」は長い間稲垣さんと三船さんが手を差し出してくるのを待っていたのだと思った。それに違いないのである。

                   (昭和四十四年二月)


----「風林火山」と新国劇----

「風林火山」は昭和二十八年から二十九年にかけて『小説新潮』に連載した小説です。発表当時、多少の反響はありましたが、

 現在のように、”風林火山”という四字は一般的なものではぁりませんでした。

 時代というものは面白いもので、いかなる風の吹き回しか一昨年あたりから、「風林火山」という作品が再び多勢の人に読まれ始め、テレビに劇化されたり、映画化されたりする機運にめぐりあいました。

 作者の私も驚いていますが、一番驚いたのは主人公山本勘助であろうと思います。彼の
作戦家としての慧眼を以てしても・自分がいまになって脚光を浴びようと予想はできなかったことであろうと思います。

 次に驚いたのは劇団「新国劇」の首脳部の方々ではなかろうかと思います。新国劇によって「風林火山」が最初に拾い上げられたのは昭和三十二年のことですから、十二年ほど前のことです。脚色、演出の池波正太郎氏も、島田、辰巳両氏も、「風林火山」の名が今日一般化したことで、すっかり驚いておられるのではないかと思います。

 併し、作者の私は多少異った考え方を持っています。「風林火山」の名が多勢の人に知られるようになったそもそものきっせて下さったためであります。十二年前上演していただいたお蔭で、「風林火山」は今日のように有名になることができたとお礼を申し上げたい気特です。

 こんどその新国劇の「風林火山」が再び舞台にのることになりました。作者としては懐かしさでいっぱいです。

                   (昭和四十四年九月)

縁故節とじゃが芋

 もう一つ、縁故節に欠く事の出来ない深い関係にあるのは、ジャガタラ芋である。ジャガタラ芋はオランダから日本に輸入されたものであるが、甲州は日本の中でも、この芋を栽培したのは早い方だといわれている。それは、明和年間に中井清太夫という人が栽培法を教えたからだという。それで甲州では此芋のことを「清太夫芋」と名付けたが、段々なまって「せいだいもん」と呼ぶようになった。今でも老人の中には、こんなふうにいう人かいる。
 ジャガイモは日光にあてると、皮の部分が青くなり何ともいえない不味さである。その不味のことを土地言葉で「えぐい」とか「えごい」と云う。その「
えぐい、えぐい」から「ジャガタラ芋はえぐいね」という唄が生まれたではないかいわばジャガタ芋は「えぐえぐ節」の生みの母であるかもしれない。

 富岡敬明とジャガタラ芋
 
このジャガタラ芋を、明治の初めに、現在の中央線日の春駅附近の富岡地方に、麥や、桑と一緒に栽培させたのが富岡敬明という人である。この人は明治初年、藤村紫郎が県令として、山梨県に赴任して来た時、参事として同時頃着任した人である。
当時は明治維新で、徳川幕府の禄を喰んだ武士達は、職を追われ、生活の道を断たれて、大恐慌の時代で、その救護対策として全国各地に入植させて、生活の安定を計った。
 本県でも、日野春駅附近の原野十五六町歩を入植地と決めて士族の移民を受け入れた」。これを担当したのか富岡参事であった。この入植は富岡参事の努力で成功して、国営の農事試験場まで出来あがった程である。それで開拓民たらが感謝の気持から、参事の名を取って村名を富岡かと名付けたという。
 現在、日野春駅の西方三00メートル位の処に、富岡開拓神社がある。そこには富岡参事の功績を讃えた、高さ二メートルばかりの日埜原碑というのか建っている。其后富岡参事は、九州熊本の県命となり、明治十年西南の役には、谷干城と一緒に熊本城に籠城して、陸軍を撃破する端緒を開いたということで男爵の位を賜り、甲府市の善光寺裏の里垣に余生をおくられた。
 富岡参事は、九川島原の高岡城廿四代の城主であったとう関係から、或る人の説では、九州の浪人を日野春に入植させて刀を鍬に持ちかえて、麥、桑、ジャガヤを作らせながら、島原の子守唄をうたわせ、蹄らせたのが、えぐえぐ節のはじまりであるといっているが、日野春えの入植は、維新政府が江戸の旗本の二男坊対策として行ったもので、此の命令を受けて本県で担当したのが富岡参事てある。従って日野春の入植者は江戸浪人であって、九川の浪人でばなかったことになる。
民謡の多くはその土地での労作と共に、土の中から作物と一緒に生れる場合が多くえぐえぐ節もジャガタラ芋と一緒に生れ仁のではないかと推察されてよいと思う。
扨、えぐえぐ節の発生は何時頃であろうかということか問題になるが、縁故節創始者の一人である平賀文男氏は、武田信玄公時代からで、四百年も前からだというか、えぐえぐ節の「語呂」ば古い昔からある。甲州民謡の語呂とは違うので、それは間違いであると思う。

 
古い甲州民謡

 古い甲州民謡では、田方で唄はれている「田の草節」も、原方で唄はれている「締打唄」身延山の碑詠歌が変化したものと思はれる「甲州盆唄」も、みんな甲州独特の語呂で
「七五五七四」
の二十八文字てある。田の草節に例を取れば、
   田の草取りに 七 
   まねかれて 五
   いくもいや 五
   行かぬも義理の 七
   悪さよ 四
 というようである。
 もっと、古い唄と田思われるのに
   敵か通る横山、
   風も立て
   嵐も吹けよ横山」
 というのがある。武田信玄公が川中島合戦の折、敵将上杉謙信が陣取った横山のことを云ったのではなかろうかと思う。横山というのは、長野の善光寺裏の城山のことで、、当時は横山といったそうである。
 信玄公は戸隠の方迄進攻しているので、此の地方の俚謡にも二十八文字のものがあるそうである。
 
埼玉県地方の民謡「麦打唄」も
   岩殿山でなく烏は
   声もよし
   音もよし岩の響きで
   ホイ ホイ
 
 矢張り二十八文字の甲州の影響をうけ民謡で、これも古いものであると思はれる。
 これに引きかえ、えぐんぐ節は、粘土節と同じく「七七七五」の二十六文字で、甚句式のものであるから、おそらく徳川時代になっ元禄以降のものであると思はれる。 甚句というのは、元依年間に長崎の蛯屋甚九郎という人が、兵庫に入って伝えたという「甚九郎節」が各地に広がって「甚句」となり、処によっては土地の唄であるからといって「地ん句」とも云われ、鎮守の神様の前でうたうので「神ん句」と云ったったという。現在日本の民謡の大半は、此の影響をうけているという。この甚句が甲州にも入って来て、それからは「七七七五」の二十六文字の唄がうたわれるようになったではないかと思う。
したがって、えぐえぐ節は武田の昔からというではなく、元禄以降のものであるという結果になる。
 若し、柳沢吉保に対する反感から此の唄が生れたしとすると大体、元禄の頃からということになるが、これは少し考え過ぎで矢張りジャガタラ芋の伝わった明和から明治の初めころ、ジヤガタラ芋と共に生れたのでわないだろうかと推察される。
 えぐんぐ節は、発生してから北に上って諏訪地方にひろまり「柳沢節」と名をかえて広く深くうたわれてい仁ようである。これについて諏訪市角間新田出身の作家新田次郎氏は、この程発行された「甲斐武田の民謡」集の巻頭に縁故節についてこんな事を書かれている。
 「甲斐武田の民謡」の中にある縁故節は古くからある歌で甲斐から信濃にかけての農民の生活の苦しさを歌ったものである。私は甲府に近い信儂の諏訪に生れた。この歌は「柳沢節」として私の村にも古くから歌われていた。祖母が歌ったその哀調を帯びたメロデーは今でも忘れられない」とある。新田氏の祖母となると、明治以前の生れであろうと考えられる。新田氏の祖母は娘時代をすごされた明治のはじめ頃覚えられたに違いない。
こう考えると、えぐえぐ節の発生年代が大体わかるようで決定づける事は大変六ケ数いが、おそらく明和年間から明治の初年の間で、約百年前後でわあるまいかと出思う。

 島原の子守唄の作者 宮崎康平氏

 最後に、島原の子守唄について少し書いてみたいと思う。島原の子守唄の作者は有名な「幻の邪馬台国」の著者てある宮崎康平氏である。
 これは昭和四十六年六月十一二日平凡社発行「太陽」七号に、島原の子守唄の作者は宮崎康平氏であると明確に書いてある。宮崎氏は本年五十五才、「縁故節」は現在四十七、八年の歳月を経ている。宮崎氏が如何に英才であっても、十才未満で島原の子守唄は作れない。
 昨年十一月八口午前六時十分、NHK甲府放送局ラジオの第一放送で、N氏と「縁故節」について対談を放送したことがある。
 その時N氏が宮崎の放送局に島原の子守唄について間合せたところ、この唄は、二三の民謡を組合せて作ったものであるという返事があったそうである。
 島原の子守唄は、

おどみや島原の おどみや島原の ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら 色気ナシバよ ションカイナ
ハヨ寝るる泣かんでオロロンバイ 鬼の池に久助どんの
連れん米らるバイ

 というのである。先の本唄の郡分のメロデーは、縁故節とそっくりである。
 「ハヨ寝ろ……」からの後囃子的なものは、NHKの民謡を訪ねての時間に「五木の子守唄」の後頃として間いたことがある。
 結局、島原の子守唄は民謡組曲であったわけである。
 然し、九州という一大観光地をバックに、旅館や料亭の宴席を利用し、遊覧バスの中でガイドに唄はせての宣伝の為の演出は大したもので、大いに敬服に
値するものがある。
 翻って、甲州「縁故節」はというに発生当時、創始者の見せた意欲的行動は更になく、従らに島原の子守唄の独走にまかせて来たことを反省しなくてはならない。
最近「甲斐武田の民謡」集の中に、「縁故節」が多少リズム感覚をかえては収録され、踊りの振付も新しく改められ発売されたことは、「縁故節」の再出発を意味しているようで大変うれしく、この民謡集が県内のみならず全国に売れて、今後並々発展してゆく争を事を祈ってやまない。

 縁故節の名称

 扱、出来あがった新民謡の名前であるが「サアサえぐえぐ」と唄ったのを、「サアサえんご、えんご」と直したところから「えんご節」と名付けて、漢字で「縁故節」と当字をした。それが何時の問にか文字通り「エンコ節」と呼ばれるようになってしまった。何年頃だったか、日時のことは忘れたが、第一回縁故節発表会を、今の三辛スーパーの処にあった寿座という芝居小屋で町の芸妓を総あけて盛大に行ったこともあった。
 毎年夏ともなると穴観音さんの境内に櫓を組んで「盆踊り大会」と銘打って、小屋氏の音頭で「縁故節」によって盆踊り大会を催したことが四五年も続いたろうか、その頃迄は盆踊り大会といえば(四打ち」(エ−ヨ節)だったのが、何時の間にか「四打ち」は「縁故節」に侵略されて、次第に消えて行ってしまった。

 縁故節のラジオ放送
 
 縁故節が始めてラジオで全国に放送されたのは、昭川三年の九月だった。愛宕山にあった東京放送局で、放送間始三周年記念祝賀の番組が組まれたことがる。其の中の民謡の部に全国有名民謡の中に加わって、山梨県からも「縁故節」が選ばれて出場することになった。その時の出場者は、三味線が芸妓の勝利、尺八が現在韮崎駅前通りで布団店を経営している秋山計吉さん。唄が芸妓の照葉と下宿の舟山橋際で、トラック運送業をしていた植松輝吉さん、この人は大変販やかな人で自分のことを「おらあ降っても照るやんで」とヒヨウキンを云って人を笑わしていた。踊りが、水上修一さんで歯科技工師、後には市会議員迄なった人である。
 以上の五人が放送局で唄ったり踊ったりの大熱演で大好評だった。何しろ初めてのラジオ放送なので、韮崎町も大変な騒ぎで、今の四丁目の魚徳商店(元は繭糸会社といって繭の取引所だった)のところに舞台をつくって現在、韮崎市文化協会長の山本融さんが先頭にたって、スピーカーから流れ出る縁故節のメロテーに合せて踊って見せたものである。
 これが縁故節の、全国え名乗りをあげた第一歩であった。
 それから七年経った昭和十年十一月、白鳳会を通じて東京の放送局から、再び縁故節を放送して欲しいという依頼かあった。
 二代目の白鳳会会長になった柳本経武氏に引率されて放送局に行った人達は、三味線が芸妓の桃竜、尺八が植松逸聖と清水逸映、唄か名取いく{古屋)と佐野儀雄の五人だった二。当時は、全部か生放送で間違うことを許されない一番勝負だったので、緊張の連続であった。

 縁故節のレコ−ド化

 其夜は神田の旅館に泊って、翌日東京見物でもして婦る予定だったが、突然ビグターレコードから電話かかゝて来て、翌朝、会社に来て縁故節を聞かせて欲しいという申し出があつた。
 その晩の縁故節の放送を聞き、放送局に一行の宿泊している旅館を間いて電話をかけたのだという。翌朝指定された時間に会社社に出頭したところ、大野という重役が待ち受けていた。
 早速縁故節を披露したところ「朝鮮民謡のようだ」と、異色性を大変ほめてくれて、レコード化の話しまで進んだが時間もないので後日を約して帰って来た。其后ビクターは、ミリオンレコード会社の設立をめぐって内部に紛争がおこり大野重役が退陣したとかで実現出来なかった。かえすがえすも残念なことであった。
 昭和十四年に韮崎町中村美容院の中村千代子さん(山本)がコロンビアレコードに吹きこんで発売されたが、これが縁故節のレコードになった最初のものである。
 それからは、島倉千代子、三橋美智也等の有名歌手が唄ったレコードか各社から競って発売されるようになり、縁故節は一躍全国的に有名になった。
  「縁で添うとも 柳沢はいやだよ」
 
と唄にあるように、縁故節と柳沢は切っても切れない因果関係にあるわけで、縁故節を語るからには柳沢のことも話さなければならないことになる。

 歌詞「柳沢いやだよ」

 柳沢という処は、以前は駒城村柳沢だったが最近の町村合併で今は武川村柳沢になっている。甲斐駒ケ岳の麓で、大武川の清流に添った細長い部落である。
 徳川五代将軍綱吉公の大老として、一世の権力を欲しいまゝにした柳沢吉保の先祖の地である。
 柳沢は、もともと武田の郎党で所謂、武川衆の一人である。 此処には、柳沢壱岐守信勝より、吉保の祖父である。兵部丞信俊にいたる迄居を構えておったといわれている。
 宝永一年、柳沢吉保は、松平美濃守古保と名乗って、甲斐の国主となって甲斐に入っている。宝永三丙戊年の秋、吉保が荻生組釆を招いて、柳沢を調査させたがその紀行文中に、「左側黍田中、挿竹表識処、謂是使君旧荘、其四十歩許、昔時有大柳樹、是邑名者、已枯矣」とある。この当時は多少形蹟が残っていたかもしれない。大正二年、子孫の伯爵柳沢保忠氏が柳沢に来たが、何等の形跡がなく落胆して帰られたということが北巨摩郡誌に書いてある。
 其の柳沢が何枚近郷近在の人達から「嫁にわやるな」「また行くではない」と、忌み嫌はれたかということは、世俗に伝わる風説では、原因は二つあるようである。第一は、柳沢古保の権力に対する反感と不満を当時とすれば直接口にし、態度にあらわすことが出来なかっにので柳沢吉保を、柳沢部落にたとえて唄にたくしたものだというし、第二には、柳沢部落は非常に封建気風の強い処で男尊女卑の思想が根強く、女が苦労すろところであるからという。第三は、年々度重なる大武川の氾濫で、切角の田地も押し流されて、女も男同様に木を切り、矛を刈るような重労働をしいれられるので、可愛い娘はやれないということである。
 昨年、山梨放送の監修で、キングレコードから甲斐武田の民謡という、武田にまつわる一連の民謡集が出来に。武田節などの新民謡を主にした民謡集だが、その中に縁故節を入れることになり、其の歌誌の選定を、韮崎市文化協会が受持つことになった。一番問題になったのが「縁で添うとも柳沢はいやだよ」の歌誌である。これを加えるベきか、削除すべきかということで、柳沢の人達の意見を間いたところ是非加えて慾しいということで歌誌の第一番に書き加えることが出来た。縁故節にこの唄が無かったら骨抜きになってしまうからである。加える事ができてよかった。

 

  縁故節の生まれた経緯

 大正の終わり頃、現在と同じような民謡ブ−ムが、日本国中に捲き起こったことがある。大変な民謡の流行だった。
 それに火を付けてのが、丁度其頃から始まったラジオ放送で、東京、名古屋の三カ所から、全国津々浦々の優れた良い民謡を集めて放送したので、尚一層燃え上がったのも無理はなかった。またそれに拍車をかけたのが、レコ−ド会社であった。実際北海道、東北、北陸から九州等、それぞれ良い民謡を豊富に持っていて聞く者をして楽しませ、堪能せずには置かなかった。
 こうした他県の、優れた良い民謡を聞く度に、考えさせられるのが当時の山梨県の民謡事情で、これという民謡もなく今日のように、県内各地の民謡も埋もれたまゝで、僅かに、「粘土節」が山梨県を代表する唯一の民謡であるという貧弱さであった。
 心有る人は山梨県にも他県に勝るよも劣らない優れた民謡の一つや二つあってもよさそうなものと願って止まなかったと思う。
 その頃韮崎町に、白鳳会という山岳会が生れた。碓か大正十二年頃だったと思う。民謡と時を同じくして、渤発した登山熱に呼応して、南アルプスを宣伝出開発しょうとしてである。初代の白鳳会快調に就任した人は、小屋忠子氏であった。小屋氏は当時韮崎町で歯科医をしてわり、後には県会議長迄した、なかなかの政治家だが、、時には尺八も上手に吹き、枠な小唄もうたう風流人で、その名前が「忠子」と書くところから、女性と間違はれたというか、本人は斗酒尚辞せずという剛腹な人で、カイゼル髭をたくわんた立派な紳士であった。
 幹事長は、韮崎郵便局艮の柳本経武氏、とても世話ずきの人で、東京の山岳会の名士多数とも親交のあった人で、小屋会長の良い女房役であった。顧問格が、穂坂村の平賀文男氏、この人も後には県会議員などしたが、本来は山岳家で「月兎」というペンネームで、数多い山岳山著書があり山岳界の権威でもあったが、唄もうたうし踊りもおどる多彩な趣味の持主であった。この三人が、良い民謡をつくって唄の中に十地の人情風俗を織りこんでうたい、踊って見せたら、南アルプスの観光宣伝にもなるだろうと。
 昔から北巨摩地方で、
  
  サアサえぐえぐ ジャガタラ芋はえぐいね 
  中で青いのは なおえぐいシヨンガイナー
 
と、うたわれていた「えぐえぐ節」に目をつけて、その歌誌やメロデーを改良して、新しい民謡を作ろうと、毎晩小屋氏の家に町の芸妓を呼んで努力を積んでおられた。
 当時は、韮崎の町にも金蔦屋、信濃屋、中扇、春本という芸妓屋があって、一番多い時は、芸妓も二十数人もいた。夜ともなると、左襖に、仇な投島田の彼女達の姿もみられ、あちらこちらの料理屋の窓からは絃歌のサンザメキも聞え情緒もあった。
 野尻先生が「韮崎の芸妓はメレンス芸妓」と何かの本に書かれたが、先生は茶屋と呼ばれる一杯屋の酌女と芸妓を間違はれたのではないだろうか、韮崎の芸妓はなかなかの芸達者で芸一筋の廊芸妓の気風もあって、県内では甲府の芸妓につゞいての存在てあったと思う。料理屋に宴会があると、彼女達は必ず「お座付」というものをする。其時弾く曲は、時節ものとか、鶴亀雛鶴、越後獅子等の目出度い曲で、それも一月毎にかわっていて、同しものを二ケ月連続していくことはなかった。而も、正月三日間は目出度い曲の組合せで、一日毎に変っていた程だった。それと云うのも、其頃韮崎には杵屋熊吉という三味線のお師匠さんがいて、芸妓は勿論のこと、良家の子女から俗にいうお若い衆に迄稽古をつけたので、韮崎の芸事に対する標準は意外に高く、生半可な芸では迚も商売には出られなかった。それ故稽古はきびしかったと間いている。決して、 韮崎の芸妓は「メレンス芸妓」ではなかった。内容もあったと思う。面白いことに男名前の杵屋熊吉さんが女で、女名前の忠子と好対照であったことだ。
 そんな芸妓を、小屋氏は毎晩白宅に呼んで、三味線をひかせ、唄はせて新し民謡をつくり出そうと努力しておられた。
 一応唄の形が出来あかったのであろう。或夜「お前も尺八を吹くから聞きに来い」と呼び出しの電話があったので拝聴することにした。
 うたい始めに「アリヤセーコリヤセー」と囃子言葉をつけた。誠に結構だと思った。「縁で添うとも縁で添うとも」と唄に人って同じメロデーを二度繰返している。これはいかん、単調だなと感じた。「柳沢はいやだよ」と変化して「アリヤセーコリヤセ」と前の噺子言葉で結んでいる。あとの「女が木を切る」から、シヨンガイナー迄同じメロデーの繰返しである。
 総ての楽曲には、起、受、発展、終結の原則があって構成されているもので、 起から愛の部分か大切で、それが楽曲全体の可否を決定づけるものである。
始めの起である「縁で添そうとも」と受けに廻る二度目の「縁で添うとも」は変化してこそ望ましいと思ったのに、同じメロデーの繰返しであったから「縁で添うともの二度目の繰返しを五度あげてうたったらどうですか」と進言した。
 「五度上げるとはどうゆうことかね」と質問が返って来たので、楽理の十二律を説明して、繰返し部分を五度あげてうたって見せたら「その方が良い」ということになって、今日の縁故節の基本になるメロデーが決定したのである。
 「踊りもあることだから」と言はれて、四拍子に作譜することを命ぜられた。

   縁故節は韮崎で作られ島原の子守唄のもとになった。
   長崎の島原の子守唄は山梨県の縁故節の盗作だった?

  序に変えて
 私は民謡に世界のことは全くの無知ですが、子供の頃からの住む北巨摩郡(現在は北杜市)の盆踊りなどには必ず「縁故節」が唄われていた記憶があります。
 レコ−ドでなく老若男女の夜空に消え入るような、どこか空しい曲が、今でも脳裏に焼き付いています。
 はるか前ですが、テレビ番組の中で、「島原の子守歌」が流れていました。おや、この曲は「縁故節」ではないのか、と不思議に思いました。その時は、忙しいのに感けていましたが、久しぶりに地域職豊かな『中央線』をひろげて見ると、植松逸聖翁の「縁故節四方山話」が目に留まりました。
 私が最も気になったのが、メロデ−の類似性ではなくて、歌詞の次のカ所でした。

  「縁故節」
  縁で添うとも 縁で添うとも
  柳沢いやだョ
   アリャセ− コリャセ−
  女が木をきる 女が木をきる
  茅を刈る ショウガイナ−
   (中略)
  来たら寄っとくれんけ あばら家だけんど
  ぬるいお茶でも あつくする

  「島原の子守歌」
  おどみや島原の おどみや島原の
  梨の木育ちよ
  なんのなしやら なんのなしやら
  色気なしばよしょうかいな

  帰りに寄っちくれんけ あばら家じゃけんど
  といも飯や栗ん飯 黄金飯ばよしょうかいな

 特に、
 「縁故節」   来たら寄っとくれんけ あばら家だけんど

 「島原の子守歌」 帰りに寄っちくれんけ あばら家じゃけんど

  島原の子守唄は盗作?

 このカ所は語句の異同が多少あっても、全く同じ歌詞です。
 「島原の子守歌」は邪馬台国の研究者でもある宮崎康平氏の作詞作曲です。 時代の移り進み、一部編曲に古関祐而氏も関わり、本家の「縁故節」より「島原の子守唄」の方が有名になり、「縁故節」の制作者たちは、必死に「縁故節」が先で、「島原の子守唄」は盗作であると訴えましたが、宮崎康平氏は逆に「縁故節」の方が「島原の子守唄」の盗作であるとして、すでに著作権を設定していました。
 その後「島原の子守唄」は観光や産業に果たす役割も大きく、現在ホ−ムペ−ジで索引すると、その数は多く「縁故節」を圧倒しています。
 民話や伝説それに民謡などは、各地に同じようなものがあり、どこが先かは分からないものです。民謡でも一つの唄に、その地方の地唄の一部を加えて地域の人に伝承されていくことは、ごく自然の成り行きだと思われます。
 しかし「縁故節」と「島原の子守唄」はそんな昔の話ではないのです。
 そこで、今回「縁故節」や山梨県の民謡を愛して止まない韮崎市の植松逸聖翁の奮戦ぶりを中心に、その他の資料を絡めて当時を偲んでみることにしました。「縁故節」の復活を願いながら。

… 参考資料…
 1、『縁故節四方山話』 植松逸聖著 『中央線』「第8号」
 (一部の語句を訂正) 郷土研究 
 1972年(昭和47)刊行

  アリャセ− コリャセイ−
  縁で添うとも 縁で添うとも 柳沢はいやだよ
  アリャセ− コリャセイ−
  女が木を切る 女が木を切る 茅を刈る
  ションガイナ−

   なぜ縁故節が長崎で唄われたのか

 この唄は、「縁故節」の中でも一番代表的な唄で、誰しもが「縁故節」をうたう時、一番先に喉をついて出るのがこの唄である。
 「縁故節」は、数多い甲州民謡のうちでも最右翼の方であって、何回もラジオやテレビで放送され、レコ−ドにもなって、各レコ−ド会社から発売されており、現在発行されている民謡集の中にも必ず掲載されていて、全国的に有名であることは、今更言う迄もないがことだが、たまたまそのメロデ−が「島原の子守唄」によく似ているところから、「縁故節」は島原の子守歌の盗作ではないかとか、九州の「隠れキリシタン」が、甲州に移り住んで、「島原の子守唄」を教えたので、それが「縁故節」のメロデ−のもとになったとか、色々な風説が流れ、またそれを肯定するような書物も現れて、一時は「島原の子守唄」説にすっかり惑わされた状態になった。これは最近九州旅行を終えて帰って来た人達が、旅行中のバスの中で聞いた、ガイドの「島原の子守唄」を聞いて、あまりにも「縁故節」に似ているところから自分の耳を疑い、不思議に思って色々憶測をめぐらした結果から、そんな事になったことゝ思うが、「縁故節」は生粋の甲州生まれで北巨摩育ちで、「島原の子守唄」の盗作でも模作でも無い。
 「島原の子守唄」こそ戦後の作品であって、「縁故節」とは年代が遙に違うことを先ずもって明記して、これから「縁故節」がどうして発生し、発展して来たか、これにまつわる四方山の話を交ぜながら書いて見たいと思う。

 

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