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<山梨県は一年中「勘助協奏曲」が吹き荒れた>
静かに見ていた、みずがき山の勘助は、その姿を岩盤にくっきりと現しました。みずがきはもうすぐ冬、静かに世情を見下ろす勘助岩像は何を考えているのであろうか。
<勘助協奏曲>の顛末
(史実を確認する)
これまでの勘助疑惑は、江戸時代の風流大名松浦鎮信が著した『武功雑記』に起因していると思われ先の田中義成氏の明治24年に『甲陽軍艦考』に、「信じがたい歴史人物とその足跡」としたため、異論を挟む余地も無いままにその後の歴史家もこの説を後生大事に各書に引用紹介していたものである。戦後の歴史界の重鎮である奥野高広先生も、自信を持って山本勘助は伝説上の人物で、信玄の軍師なのではないと明言されていた。またこうした伝説の勘助の記載を大幅に取り入れている『甲陽軍艦』も偽書に等しい価値の薄い書物とされていた。
『武功雑記』肥前平戸城主、松浦鎮信、記(1549〜1614)
三河牛久保に牧野殿という三千石ほど武将があり、その家来に山本勘介という高慢の武芸者があった。ある時、上泉伊勢という旅の武芸者と牧野殿の前で仕合をしたが、勘介は上泉の弟子に負けてしまった。そこで主家におれなくなり、甲州に行った。その頃、甲州では、他国者の来るのを喜び、ことに三河者を歓迎した。勘介は山縣昌景に召抱えられた。しかし甲州で勘助を知っている者はいなかった。川中島合戦の時、山県が勘介を斥候に出したが、帰って来て山縣に報告しているようすを信玄が見て、「あれは何者だ」と尋ねた。「あれは山本勘介といって三河の者です。口おもな者というので、山県が扶持しております」と申し上げた。勘介の子、関山派の僧で、少々学問のある者が、信玄のことなど覚書した反故を取り集め、わが親の勘介のことを飾り立てて書いたのである。これを高坂弾正の作と偽って甲陽軍艦と名付けた。と書かれている。疑うわけではないが、この松浦鎮信の記事も、すべて虚実とはいえない。基にするものが存在したのである。ここに記載のある『甲陽軍艦』は江戸時代最も読まれ参考にされた本であり、その作者さえも諸説があって、未だに議論されているところである。『甲陽軍艦』については後に詳しく触れる。
著名な先生の書かれた雑誌発表の疑説に迫る。
<山梨県の歴史や民族などなど、多くの功績を残された上野先生。私も多くの著書保存しているが、この『山本勘助』や武田神社刊行物に記された、諸事項はとても歴史とは認識できないもので、こうしたことが歴史として認められるなら、何でもあり、である。>
「勘助屋敷の発見と屋敷墓の発見」の一文
もう一つの勘助実在説は、山梨県の歴史民族学界では、その洞察力の深さと文筆の巧みなことから多くの信奉者(私もその一人であるが)を持つ上野先生の「勘助屋敷の発見と屋敷墓の発見」がある。先生は甲斐の歴史に詳しく、著書も多く、山梨の歴史、民族それに武田信玄・勝頼関係のほかに、「山本勘助」の著述や刊行された本もある。先生は実地調査・聞き込み調査・聞き取り調査を繰り返す中で、遂に山梨県北巨摩郡高根町(現北守市高根町)中蔵原で先の発見をされ「勘助がこの地方を代表する足軽大将で、この方面の警護にあたっていたのではないか」と記している。私はこの話を聞いた時に唖然とした。それは私たちの地域や県内にはそのような事を窺わせる記述や伝承も無く、その信実性も定かではなく、私も聞いたことも無いのである。如何に先生の談でも、地域が全く知らないのに、その家が公開を嫌って知られたくなく秘めていたとしても。県内のこんな話は捨てるほどある。馬場美濃守信房公の末裔と信じて疑わない人も県内には多く、同じ高根町にはその末裔が墓を守っている事実もある。この「勘助屋敷」については、山梨県でも知る人は少なく報じられた事もないと記憶している。
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