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裁判員制度、ギリシアの裁判を再考してみる
2009年8月から国民参加の「裁判員制度」が始まった。国民の裁判は、独裁政治を隠蔽する秘密裁判を許さず、裁判内容を国民に明らかにすることだから、国民にとってはいいことだ。しかし、今次のようにマスコミがわいわいガヤガヤ、これでは、裁判がマスコミに取込まれてしまう恐れがある。いや、マスコミが裁判内容を公開しないと、裁判員制度だけでは、従来の「秘密裁判」の弊害が是正できないという必要性がある。
そこで、民主主義の鑑のように言われた、ギリシアの民主制度の裁判制度を再考してみよう。
1、裁判制度とは、国家・貴族を守るためのものか
犯人がいる、紛争がある。その解決を当事者に任せたのでは、強い者勝ちになり、社会治安が乱れる。強い者勝ちが治安だとも言えるが、これは、近代民主主義とは相容れない。
近代民主主義では、常識的な(例えば、勧善懲悪)社会治安を保つ必要がある。そのためには、国家が一定の基準を作り、その基準を社会に広めねばならない。それを実行するのが「裁判制度」だ。
歴史を見ると、裁判は、公平を装いながら、権力者の権力維持を追求する手段となってきた。民衆は、権力者の横暴を裁判所に訴えるのだが、裁判は、悪政を追認する判決が多かった。これでは、裁判の意味をなさない。長らく、裁判は、「国家」「貴族」の許されない利益を保障する機関でしかなかった。
2、ギリシアの民主制、裁判制度‥‥大衆動員制度(全体主義)
ギリシアの民主制は、直接民主制で、現代代表民主制が行詰まった時は、一度、ギリシアを見直してみよう、と。我々は、中学校、高校でこのように習う。私もそう習い、これは見習うべきいい制度のように感じてきた。だが、政権者の意図をよく見てくると、余り推奨制度のようには見えない。
ギリシアの民主制度を一言で言うと、「大衆動員制度」そのものだ。分からないって。そう、西洋映画を見ていると、権力者の前に大衆が集まり、権力者が何か言うと、そうだそうだ、我々はやるぞ、というような「決起集会」の心象を抱かせる。裁判なら、後ろ手に縛られた犯人が高い台に載せられ、裁判官が、この男を死刑にすべきかどうかと大衆に訴えると、大衆は、やれやれ、やってしまえという歓声を上げる。そうすると、その場で絞首刑が実施される。
まとめて言うと、答は最初から用意されていて、その答を大衆に見せると同時に、権力者の権威を示すための「決起集会」「集団裁判」だったということだ。
もう少し詳しく言おう。民会と称する全員参加(3万人)の集会が行われた。何で、全員参加なのだ。そう、「これから戦争に行くぞ」、これには国民が尻込みして、意見がなかなか纏まらない。そこで、全員参加を強制し、親衛隊の誘導の下に決意表明をさせ訳だ。
裁判は、5人に一人が「くじ」で選ばれて参加させられた。反逆者には、死刑しかない。結果は分かっているのだから、何もこれだけの人(6千人)を刑場に集める必要はない。目的は、「見せしめ」だった。見せしめは、どこの社会でも行われた。日本でも、竹がけを作り、民衆が見ている前で、反逆者を竹槍で突くという処刑が行われた。公開処刑には、このような効果をもつ。
話は変わるが、この趣旨を受継ぐ制度の国家がある。中国だ。1万人の国民会議(全国人民代表大会)だ。ここでは、審議をするのではなく、満場一致の決起集会を行うのだ。中国の死刑は、年間3千人から8千人あり(世界の90%、8千人はアムネスティ見解)、その内必要なものは見せしめとして「公開処刑」されている。
3、裁判員制度‥‥公正の担保
裁判で最も大事なのは、公正の担保。裁判官は、隠れたところでは直ぐ権力者に有利に裁判をするから、裁判制度はあった方がいい。
最近の判決の傾向を見ていると、刑が軽い。中国と比べると、刑とは言えない。今次の判決は、検察官要求の16年に近い15年だった。殺人罪だから、私には当然だと思う。
なぜ、こうなったのだろうか。今までの判決が軽すぎたのは、被告人の弁護士の金儲けを助けている(裁判官も定年後弁護士をする)ようにさえ見える感じだ。今次は、それを許さなかったのだから大きな意義があった、と私には思える。
今後、仲間内の勝手な裁判をさせないための先例になってほしい。
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