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1 日本再生一石三鳥の秘策は
産業の空洞化、地方の崩壊、地震災害、原発爆発、今日本を襲っている戦後最大の困難。いや、国家財政の点から言うと有史以来の危機、この危機はどうしたら乗切れるのか。政界は、待ったなし、待ったなしを繰返しながら、権力争いばかりで、日本は正に死に体にある。早く、救世主よ、現れよ。だが、その芽は、腐った衆愚政治によりその可能性は限りなくゼロに近い。
これから何回かに亘って私の意見を述べてみよう。
1 加害者責任の原則
どんな事でも、被害が出れば、加害者責任が原則となる。1960年から始まった産業公害、1970年に最高点に達し、その翌年の「公害基本法」の設定により、あのようにも激しかった公害も収束に向かった。当時、私は、全国最大の公害の町・四日市におり、公害の凄まじさとそれが眼の前で奇麗になっていったその軌跡を目の当たりにした。原因会社は、公害の垂流しては許さないという住民運動の中での成果だった。
ええっ、今日の日本の経済崩壊、これは、人災なのか。勿論そうだ。私はこの街に住むようになった30年余り。古都であるこの街は、休日ともなると、商店街はごった返す人の群れだった。それが今、かつての門前町にあった商店はほぼ全滅した。そこから五百メートルほど離れた私の知っている繁華街は、2割がシャッターを閉め、4割が爺さん婆さんによる細々とした営業、4割が何とか営業を続け、いくらか元気のある商店は、数店舗しかない。買い物の不便は、どんな言葉でもってしても説明できるものではない。
何百年も続いた門前町の商店街が何で、ここ30年ほどで、これほどまでも崩壊するのだ。福島原発のようなはっきりした形では原因は示せないが、商店街を見れば、これが人災でなくて何だ。原因者にそれを償わせねば我々の生活は間もなくなる。
2 加害者は、政府の経済政策だ
何が原因か。言うまでもなく、円高による経済失速後の政府の経済政策の失敗による。即ち、1973年、日本は円の自由化(変動相場制)をとるや、一気に円高が進み、日本国内企業は危機に陥った。どうしてそに危機から逃れられるか。
政府の政策は、国内から日本企業を労務費の安い外国に移すことだった。いくらか工場がなくなったが、それほどでもなかった。それがひどくなったのは、プラザ合意の1985年以降だった。職場が目に見えて少なくなった。政府は、更なる円高が進まないようにと「外国品の輸入」を進めた。その為に、国内の中小企業が潰れ始めた。何とかしてくれ、何とかしてくれ。だが、政府は、いくらかのバラマキとの交換に、ますます産業の空洞化を進めた。
1985年から始まったバブル経済は、1991年には崩壊し、経済の深刻化が進んだ。1995年になると、自殺者が年間3万人を超え、自殺率世界10位の自殺大国。銀行、証券会社が潰れ始めた。2000年頃には悲鳴に近い経済状態。
そこで颯爽と現れたのが、小泉純一郎。我々は、救世主だと思った。だが、やった事といえば、苦しくなった企業に夜逃げ奨励政策。以前にも増して、国内の空洞化が進んだ。私は、その時、中国・蘇州に住んでおり、日に日に夜逃げしてくる姿を目の当たりにした。年間百社だと聞いた。中国政府や上海の大学では、経済沸騰に沸きに沸いた。
私は、日本はひどい空洞化だろうと心配したが、やはりその心配は当たっていた。今、日本製の家電は、見事になくなった。家電などの弱電企業製品は、国内自給率20%程度まで下がった。高度成長の頃は、この家電が輸出の首座を占めていた事を思えば、隔世の感だった。
今日は、ここまで。
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私は、四日市の経験を元にして、公害防止主任管理者資格を取った。主任者資格は、水質は合格率10%程度、大気は20%程度で、両方合格する者は極めて少なかったのを覚えている。
実は、この資格を取ったのは、1997年頃の話だから、四日市を離れてから25年以上経ってからの話だ。だから、私の話す公害の話は、かなり正確なものだと思っていただきたい。
2011/6/15(水) 午後 11:07 [ 出野行男 ]