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日本語の創世記と終末期
暫くぶりに日本に帰りました。日本語が日一日と破壊されていくのには寂しい感じです。
テレビでも雑誌広告でも、平仮名と片仮名、それに目立ちそうな所に僅かばかりの漢字。これが日本語でしょうか。勿論、英語でもありません。英語の音読から作られた奇妙な片仮名語です。分かる人は分かるのでしょうが、一般的ではありません。もう10年もしたら、日本語が残っているかどうか分かりませんよ。尤も、文法までなくなってしまう訳ではないでしょう。
そこで考えてみました。日本語はどういう過程をとってでき、どういう過程をとって終末期を迎えるかと。
日本語は、1万年以上前、インドネシア辺りに棲んでいたオーストロネシア語族(南東語族)が黒潮に乗って流れ着き、彼らが話していた言葉が基になって出来た。大和言葉と言われる。彼らの生活は、魚を獲る程度の単純で素朴な生活で、言葉も極めて単純、どんな風に喋っても意味は通じた。言語構造は未熟だが、そこは常識で分かる程度のものだった。例えば、「魚」と言えば、「魚を釣る」「魚を獲る」「魚を食べる」など、現場に合わせて判断された。文法も有るような無いような言葉だった。ただ言えることは、表現要素の後にその評価語を付けるという「格付与」の原則はあったようだ。
その後、2、3千年前から、闘争に負けた民族が長江沿いに流れ下り、杭州・寧波辺りから海に飛込んだ。彼らは、小舟に乗って日本列島へなだれ込んできた。50万人とも言われている。これが弥生人だ。彼らは、大和言葉の中で、名詞、動詞をどんどん中国語に置換えていった。日本は、植民地状態だが、幸いした。漢字は表意文字で、それまでの曖昧な大和言葉が漢字に置換わると、意味が正確になっていったのだ。それまでの評価語としての「助詞」は、平仮名が発明されて、有意部分は「漢字」、評価と繋ぎ部分は「平仮名」という具合の言葉になった。これが古日本語、つまり創世記の日本語だ。
今考えてみると、実に好くできていた。意味は漢字、繋ぎは平仮名と、実に言語として完成度が高くなった。それから1千年の農業社会、この日本語は表記用として絶大な効果を発揮した。
そして、今から200年前、西洋から新しい文明が入ってくると、新しい権利関係、新しい生活様式の描写には、やはり不都合な所があった。西洋流に合わせて、「受け身」「使役」「自動詞」「他動詞」の概念が創られた。この時代になって、現代日本語が完成されたと言ってもいい。明治の文豪の文は、本当に名文だろう。そして、1945年、日本の敗戦。その後、米国の影響が大きくなった。それ以降は、米国を見習う必要はなかったが、英語を真似た日本語が氾濫し、日本語の崩壊が始まった。
戦後の日本語を眺めてみると実に面白い。その前提として、英語とはどんな言葉か。表音言語。表音言語は、音を表すだけで、意味は表さない。意味は、音を読んだ後分かるのだ。見ただけで分かる漢字とは全く異なる。英語の日常用語は、大和言葉に似ていないか。音を基本に聞いて分かる言葉なのだ。
ええっ、そうなると、英語を取入れることは、日本語表現を曖昧にすることに繋がっていないか。せっかく、漢字を使い言葉の概念が正確に定まるようになったのに、再び、曖昧言語に戻りつつあるのだ。大和言葉への逆戻りだ。これが日本語の破壊でなくて何なのだ。
もう一つ問題がある事が分かった。それは、「文盲」の問題だ。曖昧語で書けば、正確な内容の文は掛けない。また、一文字違ったら全然別の意味になることもある。漢字では起こりえない危険も待っている。
例えば、「かめ」という言葉があったとしよう。これは何を表すのか。漢字で書けば、「亀」「甕」が思い浮かぶ。さらに、言い間違えて、「かあ」「かい」「かう」「かえ」「かお」「かか」‥‥と言ったとしよう。これでは、永遠に意味が取れなくなってしまう。最近の日本語は、片仮名語が増えて、このような危険が増えている。
そこで、「文盲」とは何か考えてみる。「亀」「甕」という字が読めないのではない。語彙が少なくて、通常の文意が把握できない状態じゃないか。つまり、2千年前の弥生人のような人間を言うのではないかと思えてきたのだ。英語ならその文字が読めないということはあり得ないのだから、本来文盲ということは起こりえない。なのに、起きているということが、そのなりよりの証拠だ。
日本人が、英語に似せて「英語もどき日本語」を作れば作るほど、日本語は崩壊する。そのうち、「入口」って知っているかという時代が来る。レストランにしても駐車場にしても、余り「入口」とは書いてない「IN」または「イン」だ。まさか。だが、そのまさかがもう10年もしたら来るのじゃないか。私は心配する。皆んなで日本語を守ろう。
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